百々目鬼翠の日常「夜の公園」


目次



百々目鬼翠の日常「夜の公園」


「しくしくしくしく……」
 微かな声が聞こえる。
 青年は、手にしていた文庫本を静かに閉じると顔を上げた。
 月明かりの下。
 常人では小学校の教科書すら読めぬ程の淡い光に照らされた公園である。
 人気は、無い。
 だが、一切の気配が存在しないその空間に、一人の少女が立っていた。
「やあ」
 青年……百々目鬼翠は、まるでそれをいぶかしむ風もなく手を上げる。
「どうしたんだい」
 その声は、人外のものであろうと思わず微笑みを返したくなろうと思えるほ
どに、優しい声であった。
 百々目鬼翠。
 彼もまた、人ならざるものなのであろうか。


 翠が声を掛けても、少女はいっかな応えようとはしない。
「そうか……かわいそうに……」
 一人頷くと、少女の頭をそっと撫でてやる。
 ふれようのない筈の半透明の髪が、翠の掌の動きに応じて明らかに撫でつけ
られ、豊かな艶を帯びる。
「さあ、おやすみ」
 少女の身体がかくん、と崩れ落ち……
 輪郭が、ぼやけはじめた。
 ゆっくり、ゆっくりと……
 少女の姿が完全に霧散するのを見届けると、翠の目に冷たく鋭い輝きが宿っ
た。
「でてきなさい、君たち」
 ……ぞわり。
 ぞわり、ぞわり。
 この世のものならざる姿、異形の輩が次々と地より湧いて出る。
「君たちですね、あの子を使って人を引き寄せ、魂をむさぼっていたのは」
 無言。
 そして……一体の霊獣が、突如として翠に跳びかかる。
 それが彼らの返答だった。
 ねじくれた鋭い爪が、青年の細き喉にとどかんとする刹那。
 翠の指先が、白光の弧を描いた。
 頭頂から両断された異形の姿が、一瞬にして溶け落ちる。
「お仕置きをしなくてはならないようですね」
 いかなる魔性の技か。
 翠の二本の指の間に挟まれ、霊獣を両断したのは……先刻まで読んでいた、
文庫本の一頁であった。

					☆

 ざざざっ!
 霊獣達が一斉に跳び退さる。
 獲物と思った相手は、狩人であったのだ。
「おやおや」
 翠の顔に浮かぶ微笑みは、嘲笑の色ではない。
 生徒の悪戯を見つけた教師のような、慈愛に満ちているとさえ思える微笑み
だ。
「逃げる気ですか? まさかそんなことは……」
 ざざんっ! 
 翠の言葉を否定せんがごとく、一斉に霊獣達が跳びかかる。
 その百鬼夜行の様々な外見とは裏腹に、見事なまでに統率が取れた動きだ。
 翠はしかし、完璧にその動きを予測していたか。
 緩慢……優美とさえ見て取れるような動作で、文庫本が翻える。
 ぶあっ! 
 高圧の風が爆発したように迸った。
 その風の中に潜んだ鋭い刃が、霊獣達の姿を微塵に切り裂く。
 刃には、いずれも小さな活字が印刷されていた。
 一瞬後。
「……ないでしょうねえ」
 何事もなかったかのごとく、翠は言葉を続ける。
 だが、その言葉を聞くべき相手は既に消滅していた。
「ふう」
 翠は、ひとつため息を付いた。
「人の話を最後まで聞けないとは、困った人たちですねえ」
 ひょい、と表紙だけになった文庫本を持ち上げると。
 風に舞う紙片は、吸い寄せられるようにまとまり、もとの本を形成していく。
 手を戻すと、文庫本は先刻までと同じ姿へと戻っていた。
「お見事お見事」
 いきなり野太い声と拍手が投げかけられた。
 頭上からである。
 見上げる翠の視界を覆うがごとく、巨大な男の影が浮かんでいた。
「ども」
 全く動じた様子もなく会釈する翠。
「お見事だが……そっちの分は、戻らねえのかい?」
「あ」
 右手の指に挟んだままの1頁に気付いた翠は、ぽりぽりと頭をかきながら、
それを元に戻した。

 すとん。
 巨漢は、体重を感じさせない動作で夜の公園へと降り立つ。
 巨きな男であった。
 首が、太い。どうかすると、頭より首の方が太いほどである。
 が、大男特有のアンバランスさはない。
 顔は、取り立てて美男子とか云うわけではない。
 だが、笑ったところを見てみたい、というような気持ちにさせる人なつっこ
い顔であった。
「俺はよ、『てんぐ』ってんだ」
「はあ……変わったお名前ですねえ」
「あんたほどじゃねえさ。第一俺のは通り名だが……」
「何か御用で?」
「いや、俺ぁあんたのご同業でね」
「すると、大学生ですか? 失礼ですけど、もう少しお歳を召してるような……」
「だあぁ、そうじゃねえっ! 祟られ屋だっ!」
「はあ」
「この公園の件は、俺が請け負ってた仕事なんだよ。学生の片手間に先を越さ
れたんじゃあ、俺のメンツってもんがだな……」
「ああ、そういうことですか。それなら大丈夫ですよ」
「?」
「まだ、大物が残ってますから」
 ぐらり。
 翠の言葉と同時に大地が揺らいだ。
 霊獣達を操っていた、巨大な悪霊が怒りに燃えて現れんとしていた。

					☆

 甘ったるい匂いが漂う。女子学生の嬌声が上がる。
 汁粉屋の店内に、似つかわしくない姿がひとつ。
 ぼろぼろの胴着を着込み、頭には赤いバンダナを巻いた、筋骨隆々たる巨漢。
 てんぐである。
「ふう」
 一六杯目を平らげたてんぐの前に座るのは、これまた五杯目に手を付けた翠。
 てんぐが店内で浮きまくっているのに対し、スリムな身体に黒い服を着た翠
は、店内備え付けの置物であるかのように周りの雰囲気に溶け込んでいた。
「……ったく、ひでえ目に遭わせやがって……」
 ぶつぶつ言いながらも、喰らう。喰らう。ひたすらに喰らう。
 良く見ると、てんぐの身体は大小の傷だらけであった。
「もともとあなたの仕事だとおっしゃいませんでしたか?」
「あのな」
 ずずっ、と一七杯目を喉に流し込んで、
「ライオンを倒すのに、わざわざたたき起こしてから勝負する馬鹿がいるかっ!
寝込みを襲うというか、油断してるところを狙うのが常套手段だろうがっ!」
「正体は人間の怨霊でしたけど」
「そういう事を言ってんじゃねえっ! たとえ話だ、たとえ話。第一……」
「しっ!」
 翠が、突如てんぐの言葉を制した。
 ひょいと、自らの箸をてんぐの一八杯目の汁粉に差し入れる。
「……おい、こいつぁ俺の分……」
 しかし、てんぐの抗議の言葉は翠の次の動作で途切れた。
「ぢぃっ!」
 翠が、箸で摘んだ「それ」が、人外の叫びを上げたからだ。
 何気ない動作で、翠が箸を引き上げる。
 ずるっ、ずるずるずるっ! 
 箸に摘まれた先に引き続き、大きな犬ほどもある霊獣の異形の姿が、小さな
腕から引きずり出された。
 ちょっと目には、動物の臓物の固まりのように見える。
「昨日の奴の欠片があなたにくっついて、復讐の機会を狙っていたようですね
え。たぶん、お腹の中からなら攻撃しやすいと思ったんでしょう」
「うげ……」
「さて」
 ひょい、と翠が手首を返すと、臓物の如き霊獣は床にたたきつけられて四散
し、肉片と血漿の奇怪なオブジェを作り上げて……消えた。
 もちろんこのいきさつは、霊視能力を持たぬものには何も見えぬ。
「……おや、食べないんですか?」
「あんなもん見て、食欲が続くかよ」
「じゃ、私に下さい」
 翠は、てんぐの汁粉を平らげると満足そうに微笑んだ。



後書き

 この物語は、完全なフィクションです。登場人物及び団体名は、現実のもの
とは一切関係がありません。
 もし、あなたの側に似たような方がいらっしゃっても、それは偶然の一致で
す(^^;。

UG-NET #41 たぬきむ



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