百々目鬼翠の日常「駅前にて」


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百々目鬼翠の日常「駅前にて」


 自我を失ったもの独特の口調が彼を呼び止めた。
「あなた、そこのあなた!
 顔色が悪いですね、少し祈らせていただけませんか」
「……はあ」
 日本屈指の退魔師である青年も、神と名のつくものには手出しが出来ぬか。
 ずうずうしいを通り越した中年婦人の言葉におとなしく従う。
 が。
 中年婦人が言語学的に不整合な題目を唱え始めたとたん、その眼前にゆらり
と黒雲のようなかたまりが湧き出たのである。
 それは瞬時に子供の落書きの様な姿の悪魔となり、婦人の周りを面白そうに
旋回し始めた。
 数瞬遅れて「それ」に気付き、けたたましい悲鳴とともに逃げ去る三文聖者。
 後を追おうとした「それ」の首根っこを、青年がひょい、と捕まえる。
 ぽん、という音がしたかと思うと、「それ」は青年の手の上に載った小さな
あめ玉となっていた。
「ミカヅチ、食べますか?」
 声に応えるかのごとく、銀色のイタチが青年の服の襟元から現れる。
 ふんふんと臭いをかいだイタチは、仕方ないという顔つきで「それ」をひと
飲みにし、青年のふところへと戻った。
「あんなおばさんに憑いていた似非神の小悪魔じゃ、栄養はないでしょうけど
ねえ。まあ、これも一つの功徳というもので」
 きゅう。
 まあな、と聞こえるようなイントネーションでイタチが啼く。
 数刻中にもあの夫人は自我を取り戻し、自分がいかに無駄な時と金銭を浪費
したかを認識して、愕然とするであろう。
 果たしてそれが幸福なのか不幸なのかは判らない。
 醒めぬ夢もまた、幸せであることを彼は知っていた。
 百々目鬼翠。
 しかし彼は、悪夢を容認できぬ男であった。


後書き

 本作品は完全なフィクションであり、登場人物及び団体名は、実在のものと
は一切関係ありません。

UG-NET #41 たぬきむ



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