百々目鬼翠の営業。


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百々目鬼翠の営業。


 東間海(ひがしはざみ)駅前商店街のはずれに、その店はある。
 看板には「家具・骨董・古書『アリス』」と書かれている。
 骨董店にしてはこぎれいな店ではあるが、その店主が商売をしているところを見た
 者はほとんどいない。
 「それじゃ、ど〜も〜」
 奇妙に気の抜けた声とともに斜向かいの喫茶店のドアが、長身痩躯の青年の姿を初
 夏の陽光の下へと生み出した。
 黒いサマーセーター、ややタイトな草色のスラックス。
 その白皙端正なる容貌は、きりりと引き締めれば「水も滴るいい男」という超古典
 的な形容詞がそのまま当てはまるのだろうが。
 この青年が漂わせている茫洋たる雰囲気は、それを丁度良いくらいに打ち消して、
 嫌みのない親しみやすい表情を与えている。
 青年は骨董店『アリス』の古びた引き戸を開けた。
 客に対しては決まって不平の声を上げるガラス戸も、この青年が触れると新築家屋
 のアルミサッシのごとく、静かに道をあける。
 青年の名は百々目鬼翠(とどめき・すい)。
 骨董店『アリス』の、仕事をしない店主であった。

 「こんにちは、翠さん。」
 ガタピシと鳴る引き戸を意にも介さず入ってきたのは、近隣の私立竜崎女子高校の
 制服を着た、愛らしい少女だった。
 名を瀧沢ちひろと云う。
 骨董店『アリス』の、買い物をしない常連であった。
 「やあ、どうも。」
 軽く手を上げて応じた翠は、ゆうパックの宛名ラベルに住所を書く作業に戻る。
 「あ、めずらしい。翠さんが仕事してる。・・・何なの?その本。」
 少女の目が注がれていたのは、卓の上に梱包材とともに置かれていた、古びた革表
 紙の本だった。
 「これですか?今世紀最大の宗教の経典ですよ。『資本論』という本の初版本なん
 です。新谷先生に、捜しておいてくれと頼まれてましてね。」
 かすかに黴の臭いのする本を、ひょいとちひろに渡す。
 「へえ・・・なんだ、日本語じゃないんだ。」
 「ドイツ語ですよ。・・・あ、気を付けて下さいね。普通に取引すると、時価数千
 万円はしますから。」
 「えええええっ!そ、そんな高い本なの?・・・翠さん、もしかしてまた、とんで
 もない値段で売る気なんじゃないでしょうね?こないだも、なんだか金色の飛行機
 みたいな置物、ただみたいな値段で売ったでしょ!」
 「いやあ・・・他ならぬ新谷先生のたのみですからねえ。」
 ひょい、と指を三本立ててみせる。
 「・・・もしかして三万円?数千万円の本を、三万円?」
 「いやあ。」
 頭をぽりぽり。
 「三千円です。」
 「・・・あっきれた。どうしてこうも金銭感覚がないのかしら。」
 毎度のこととはいえ、女子高生という金銭に細かい種族であるちひろには、翠の金
 銭感覚は頭痛の種であった。
 「でもほら、神田の古書街で、千三百円で叩き売られてるのを見つけましたからね。
 郵送料も別だし、千七百円も儲けが出るんですよ。いやあ、ものの価値が判らない
 方が古本屋をされてると助かりますよ。」
 「ふ・つ・う・は、千七百万円は儲けが出るんじゃない?ものの価値が判らないの
 は、翠さんの方じゃないの?」
 「いやあ、そうとも言うかも知れませんねえ、ははは。」

 日本屈指の退魔師である百々目鬼翠。
 しかし商才の方はあるのかないのか、長年の付き合いであるちひろにも判断できな
いのであった。



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