第一章 夜を舞うもの


目次



第一章 夜を舞うもの



第一話 式神


 ……りーん、りーんりーん、りーん、りーんりーん
 どこからか、すずむしの涼やかな音色が聞こえてくる。それだけでこの残暑
の蒸し暑さも、いくばくか軽減されたように感じられる。たまに心地の良い風
が吹き抜け、すずむしとともに秋が近い事を教えてくれる。
「八月も、もうすぐ終わるのねえ」
 一人の少女が机に向かいながら、感慨深げにそうつぶやいた。
 葛 綾里、それが彼女の名前だ。
 風呂上がりなのか、顔がほのかに桃に色づいている。肩の高さでカットされ
た黒髪は湿気を帯びて美しく艶めいていた。綺麗だった。
 綾里は、まだ美しさよりかわいらしさが先に立ってしまうが、かなりの美人
だ。いや歳からすると、美少女か。大きくつぶらな瞳に、バランス良く配置さ
れたちいさめの鼻、少し薄めのかわいらしい唇。なんとも愛らしい顔立ちであ
る。性格も、さっぱりとして気持ちが良かった。好感度、百パーセントである。
 現在、八月三十一日、午後十一時。
 している事は、決まっている。夏休みの課題が終わっていないのだ。机に広
げられた数学の問題集はまだ半分程しかできていない。さらにその横にはまだ
折り目もついていない課題の冊子が数冊重ねられていた。かなり、絶望的であ
る。やり終えられる可能性は、数パーセント有るか無いか。
「こんな事なら意地張らずに、かるらに泣きつくんだったあ」
 綾里は親友である学級委員の事を思い出して、小さく、ため息をついた。昨
日、綾里は既に課題を仕上げている親友の「暖かい友情」をはねつけたのだ。
まあ、はねつけても仕方がないような状況だったが……それについては後日述
べよう。
 もし明日、綾里が課題を忘れていけば、かるらのことだ、辛らつな事を言う
に決まっている。 先生も当然、怒るだろう。 あまつさえ、居残りなんて事に
なったら……
「あーもう、やめやめ、明日の事を考えるのはやめっ。さっ、お勉強、お勉強」
 そのとき綾里はなにか、そう「なにか」を感じた。六番目の知覚で。
(なに、この感じ)
 綾里は部屋を見回してみるが、何も変化は見られなかった。窓から身を乗り
出して外の様子をうかがう。しかし、蛍光灯の回りを飽きもせずに飛ぶ羽虫達
と、そのぶんぶんという羽音だけしか綾里には感じられなかった。
 いつのまにか十二時を回ってしまった。
 気が立っているのか、いっこうに眠くならない。
「どうかしてるなあ、私」
 がたっ。綾里は椅子から立ち上がった。気分転換にコーヒーでも入れようと、
思ったのだ。

 綾里の家から直線で五キロ程も離れた、 もうとっくに営業時間を過ぎたデ
パートの屋上。そこから綾里の家を、正確には綾里を、観察している男がいた。
そこからだと綾里の家など点にしか見えない。
 しかし男には綾里の一挙手一投足まではっきりと解っていた。見えるのであ
る、彼には。
 彼からの視線、これが綾里の感じた「なにか」の正体である。もちろん綾里
には気づくべくも無いが。
「あの子が一人目か……」
 男はそう呟いた。 歳の頃二十三、四といったところか。身長百八十センチ
メートルちょっとの、黒髪の美丈夫。肌の色から察するに東洋人、言葉から日
本人であると思われた。しかし、綾里を見据えているその瞳は深い海の色をし
ていた。
 彼は携帯電話を取り出すと、おもむろに番号を押した。
 とぅるるるるる、とぅるるるるる、かちゃ
『はい、鬼頭です』
 彼にとっては聞き慣れた、少し甘い感じがする声が受話器から聞こえた。
「あ、久慈朗です。第一ターゲット確認しました」
『そう、解ったわ。どう、様子は』
「全然ですよ。まあ私の気配は感じたようですけど、まだ「力」は使えないよ
うです」
『そう、じゃあこれからも監視をお願いするわ。妖魔もそろそろ手を出してく
ると思うけど、その時はお願いね』
「聡子お姉様のお願いとあらば、聞かない訳にはいきませんね。それでは、以
後も引き続き監視を行います。じゃ、また定時に報告します」
 ぶつっ。
 久慈朗は電話を懐にしまうと、逆にそこから一枚「符」を取りだした。陰陽
術を知っている者ならば、それが陰陽師が術を使うときに用いる「式符」であ
る事がわかったであろう。
 目の高さにそれをかまえると、小声で呪を唱えた。
「はっ」
 久慈朗は気合いとともに式符を飛ばした。もちろん綾里の家にめがけて。
「俺は休むから、しっかり監視たのむよ。僕のかわいい式神ちゃん」
 久慈朗は右手で印を結び、最後にぐっと握りしめた。
 すると、綾里の家に向かっていた式符は、ひらりと閃くと一匹の黒烏へと変
化した。そして綾里の部屋を望める、木の枝に静かに舞い降りた。
 夜空はあくまで静かに、その様子を見守っていた……。



第二話 遠望


「えい…やっと」
  黒塗りの戸を力をこめて開ける。重い樫の戸の手応えが、こころなしか軽め
に感じられた。一仕事終えた爽快感のせいだろうか。
  その爽快感を一瞬にして打ち消すように、熱気が身体を包んだ。いやはや。
もう11時だろ。九月も近いというのに、いっこうに涼しくなる気配がないとは。
  神名家があるのは吹利の旧市街。江戸時代の武家屋敷などが多く残り、緑も
多い。この家も四神に守護され鬼門を封じ……神名家の先祖の霊的素養をうか
がわせる造りになっている。
  しかし、中町でこのざまでは、俺のアパートなんぞは蒸風呂同然だろう。今
日は果たして寝付けるかどうか。やれやれ。帰るのがいやになってしまった。
「伊部さん、今日もありがとうこざいました。こんな遅くまで……」
  友恵のやつが珍しく殊勝にしている。さすがに旧家の直系、こうしていると
きっちりお嬢様にみえるな。
「ああ、まあ、これも仕事だしな」
  ふたりで照れ笑い。格好をつけているような間柄でもないからな。
「宿題も終わったし、これで大いばりで学校にいけるわ。
  これも正雄さんのおかげやね。ひとりで数学なんてよう解かんわ。
  もしも手伝ってもらえんかったらと思うと……まったく冷や汗もんやね」
  快活に笑う。この笑顔が、まあ魅力なんだな。うん。
「まったく。この頃の若いもんは、勉強というものをどう考えているんだね。
宿題くらいさっさとすませとかんか! 学生の本分は勉強にあるんだぞっ!」
  にやにやしながら早口でしゃべる。
「あはは、うまいで。神崎先生そっくりやわ」
「一応、内容は本気なんだがな。……っても、俺も昔はそうだったもんな。あ
まり人の事は言えん。宿題だろうがテストだろうが、いつでも一夜漬けだった
からな。ま、今でも切羽詰まらんとなかなか動かんが。
  しかし、こんな俺が教師になろうってんだから、世も末だな」
「ん、そんなことないで。教師に必要なんは教える能力やろ。正雄さん、教え
るのうまいんやからそれでいいんとちゃうん。
  あんだけ数学苦手やったうちが、こないだの期末テストで70点も取ったんや
で。中学の頃は残されっぱなしやったのに」
「すぐさまフォローを入れてくれるところが友恵らしいよな」
  そっと肩を抱く。友恵もこちらに体重を移してきた。
「あ……烏が飛んでる」
  自宅の前では気恥ずかしいのだろうか、気をそらすように言う。
 ん……? 烏? 烏だって?
 鳥目って言うくらいだから、夜は飛ばないはずだろ、鳥って。
「烏が夜に飛んでいるって?そんな……」
  そんなはずは、と言いかかったとき、上空を飛び去る影。
  確かに、烏らしい。
「熱っ」
  友恵が突然身を離した。
「どうしたんだ?」
「ん……胸ポケットが熱いで」
  手を当ててみる。どうやら、お守りが熱くなっているらしい。
「春日さんのお守りやけど……何故熱くなってるんだろ」
「きっと桜姫がうちを妬いてるんやで。誰に貰ったん、それ」
  ふくれている。……妬いているのは友恵のほうだろうに。
  まあ、誤解を受けてもしかたあるまい。吹利で春日さんのお守りといえば、
恋愛成就のお守り。普通は恋人になってほしい人に、告白の意味を込めて送る
ものなのだそうだ。
「いや、こいつは新谷教授に頂いたものさ。何でも、実験の余波を防ぐためな
んだだそうだ。うちの研究室ではいろいろと妙なものを扱うから。なにせ特殊
物理学。霊魂や超能力の原理を解き明かそうという科学だからね」
  幸い、彼女は心霊現象などにも理解があるから良いものの(まあ、古神道に
関係のある家系の宗家で、幼い頃から怪異を身近にみているらしいから、理解
があってあたりまえだとは言えるか。それについては俺も同様だけど)普通の
相手ならこんなことを言うだけで愛想を付かされるんだろうな。
  我ながら、妙な分野を専門にしてしまったもんだ。
「ちょいまち。よう見せて。……なんや、守り札やないの。びっくりさせんと
いてぇな。春日の守り札って言うたら、春日のお守りとは全然違うもんやねん
で。 桜の姫さんの旦那さんの小野篁って人の力を借りて、 悪霊から身を護る
とっても強い護符なんよ。
  でも、新谷教授って凄い人脈持ってるんやね。守り札なんて、うちら旧家で
も手に入れるのは大変やねんで。それはほんまもんの力が有るさかい、大事に
しぃや」
「ああ。判った。そんなに凄いのか……」
「そうそう。……あ、まずいわ。母さん呼んでる。じゃあ、また今度ね」
「おうよ。じゃあな」
  背中のほうから友恵が叱られている声がする。やれやれ。あそこのおかあさ
んは厳しいからなぁ。
  しかし……何で守り札が熱を持ったのだろうか。ゼミで教授に聞かなきゃい
けないな。そう思いつつ、私は帰途についた。


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