第二章 最初の一日


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第二章 最初の一日


第一話

「ふう」
 鞄を机に置き、綾里はため息を付いた。
 今日から新学期。いつもであれば気分一新、気持ちよく登校するはずである。
が、今回は違った。気にかかる事があった。
 宿題が終わっていないのである。
 それがなぜそんなに気にかかるのかと言うと……
「うふふふふ、来たわね」
 後ろから聞きなれている、しかし今はちょっと聞きたくない声が話し掛けて
来た。
「ちゃんとあの日の約束は覚えてるわよねえ、綾里ちゃん」
 親友……もしかしたら悪友……の蒼井かるらである。
「も、もちろん覚えてるわよ。かるらとの約束忘れるわけないじゃない」
「じゃ、ちゃんとやって来たんだ、宿題」
 痛いところをついてくれる……。
「あれだけおおみえきってくれたんだから、やって来てるに違いないわよねえ」
「ちょ、ちょっとそのことなんだけど……」
「え、まさか、できてない? あれだけ言っといてできてない? まさかそん
 なことあるわけないわよねえ」
 これにはちょっと、むっとした。
「……いいじゃない。私が怒られるだけなんだから」
「そうよ、私はできてくれてない方がうれしいの。なんたってチョコパ食べほ
 うだいだもんね」
 失敗したなあ。心で嘆く綾里であった。

 ……時を遡ること数日。綾里とかるらは口喧嘩になった。
かるら「なんであんたは人の好意を素直に受けられないのよ!」
綾里 「今の条件のどこが好意よっ」
かるら「もしあんたが万が一、きちんと宿題だすなんてことがあったら、なん
    でも好きな物、好きなだけおごってあげるわ」
綾里 「いったわね。見てらっしゃい、チョコパをいやになるくらいおごらせて
    あげるわ」
かるら「いいわよ。でも出せなかったらそっちがおごるのよ」

 ……時は戻って、朝礼前の教室。
「で、話は代わるけど、教生が来るの知ってる?」
 かるらの口調は打って変わって、明るく親しげである。
「なによ、それがどうかした?」
 綾里の声は、まだむっとしている。
「今日、学級委員の仕事で職員室に行ったんだけどね、教生の先生が教頭と
 話してたのよ」
「そりゃ話すでしょ、教生なんだから」
 まだ、むっとしてる。
「それがね、ヒットなのよ、ヒット。もう、かっこいいの。あ、ほらほら」
 ちょうど都合よく、学年主任の神崎に連れられて教育実習性達が廊下を歩い
ていた。
「ほらほら、前から二番目と一番後ろの人。かっこいいでしょ?」
 確かにかっこいい。かるらのかっこいいはあてにならないことが多いのだが、
今回はそうではなかったようだ。むっとするのもやめて、綾里はその二人を眺
めていた。
 前から二番目の方は、ちょっと線が細いしょうゆ顔系のハンサム。一番後ろ
の方は、高い身長、濃い、しかしいやらしくない顔立ち、 そしてその美しい
……青い瞳。
 ふいに、前から二番目のかっこいい人が、教室の方を向いて、軽く手を振っ
た。かるらにむかってではない。もちろん綾里にでもない。
 手を振った、その目線にいるのは……。
「友恵ちゃん、お知り合い?」
 かるらはすでに動いていた。神名友恵、目線の先には彼女がいた。
「え、なに?」
「またまた、とぼけちゃってえ。あの教生の人と知り合いなんでしょ」
「伊部さんのこと?うん、家庭教師してもらってた」
「へえ、伊部先生か。じゃあ先生の……」
 ディンゴゥン、ディンゴゥン……
 朝礼開始のチャイムが校舎に響く。
「ちぇ、じゃ後でもっと詳しく聞かせてね、伊部先生のこと」
 まったく……。なぜ、かるらはいい男のことになると、あそこまで熱心にな
れるんだろう?
「かるら、そんなにいい男がいい?」
「もちろん。男は顔が第一よ。次にお金ね」
 席に隣同士に座る。席替えの時の偶然である……かなり疑わしいが。
「あ、そうそう」
 教師が来るまでのわずかな空白。かるらが不意に真剣な顔になってこちらに
振り向いた。
「チョコパ食べ放題。忘れないでよねっ!」



第二話


「あっ、伊部先生弁当持参なんですかぁ」
 女生徒の高い声が注目を集める。
「ん。まあね。料理は趣味の一つなんで」
「ほんとにぃ。彼女に作ってもらったんじゃないんですかぁ」
 黄色い声が教室中にあふれた。
「まあ、物理の実験と似たようなものだから簡単さ」
 無責任な言葉を返すが、誰も聞いてはいないようだった。
「……うーむ、やりにくい相手だな。普通の女子高生ってのは」
 思わずつぶやく伊部。確かに、友恵は素直で相手のしやすいほうだったとい
えた。逆にいえば、伊部自身も普通の女性にとっては扱いにくいタイプである
と言えるのだが、まだクラスの女子はそのことには気がついてはいなかった。
 この時点では表面の美醜だけに囚われ、性格面は気に止めていないのだ。そ
ういった考え方こそ伊部が理解できないものであることも知らずに。
 そして、男子生徒のほうもまた同じ勘違いを犯していた。
「ケッ。少しばかり顔がいいからって、なんだありゃ。男のくせに料理を作る
 なんざ、女々しいこった。おまけに東京弁ときた。気にいらねぇな、しばい
 たろか」
 まったく、前途多難であるようだった。
 だが……真に恐るべきは、何も口にしていないある小男であった。夏休みの
間に苦労して身を整え、二学期からはあの娘に振り向いてもらいたい、そう願っ
ていた一人の少年は、何もなしに女の子たちの……そう、彼の彼女たるべきと
確信していたあの娘も含めて……注目を軽々と集めた伊部に、理不尽な怒りを
覚えていたのだった。


 そんな仲、比較的のんびりしていたのが、この一角。かるらに綾里、そして
友恵が机をつきあわせているところである。かるらが友恵に伊部のことを聞き
たがって、こういう配置になっている。
「ねねっ、友恵ちゃん。伊部さんって料理うまいの」
 かるらが突っつく。
「うん、うちよりうまいかもしれへんわ」
 屈託無く笑う。
「ああっ、うらやましいわ。伊部先生に食事作ってもらったことがあるんなん
 て。一体どういう仲なのかなぁ」
「だからぁ、家庭教師と生徒の仲。うちが高校に入学したときに親がつけてく
 れたん」
「ほ・ん・と・に? ただの家庭教師だったのかしらん」
 かるらが、いつになくしつこい。
「もうっ、かるらったら。友恵ちゃん迷惑がってるじゃないの」
 綾里が呆れ果てたように言った、その時。視界の隅になにかがかすめた。
(これは……きのうの晩と同じ……)
 その悪寒は、先日の午後十一時とは比べ物にならないほどにふくれあがりつ
つあった。思わず口を押さえてうずくまる。
「どしたの、綾里……綾里1?」
 珍しくかるらが狼狽した様子を見せていた。かるら自身、なにかを感じてい
たのだ……。


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