エピソード『凶鬼(まがおに)』


目次


エピソード『凶鬼(まがおに)』

血に、渇いていた。
  肉に、飢えていた。
  脳裏に浮かぶのは、それぞれの痛み。
  裁ち落とされた、左腕。
  えぐられた、右目。
  焼き焦がされた、右脚。
  痛みは身を灼き、咽を炙る。
  渇きを癒やすには、
  血。
  失いし身体を取り戻すには、
  肉。

承前

……ここは、どこだ。
  身体中を苛む、灼熱感。
  ……俺はどこにいるんだ。
  時折粗くなる唸り声、血の匂いで麻痺した臭覚。
  ふと、遠くなる意識。
  唇に時折伝い落ちる、血の雫。
  冷たく刃が煌めいた。血潮がはじけた。
  四人の人影のうち一人が腕を落とされ、倒れた。
  「てめぇ! よくも良照を!」
  「将威! 駄目よ、逃げるわ、分がない!」
  「……行け」
  「良照さん!」
  「柊也! 逃げるのよ!」
  再び剣が閃く。ばらばらと切り落とされた細い指が落ちる。
  押し殺した叫び。
  星明りが幽かに追撃者を映し出す。刀身に青ざめた女の顔が浮かぶ。
  「……逃げるんだ、柊也」
  端正な顔を腐葉土に落とし、痩せぎすの男は呟いた。
  「そうは行かない。外法の輩にこの吹利で動いてもらうわけには行かないからね」
  その声には楽しむような響きがあった。
  腕を落とされた男-衣盾良照-は、絶えず押し寄せてくる苦痛を押し固め、残ったもう一つの腕に集めた。意識がその掌のなかに凝り固まり周囲の空間を歪める。
  「独学は悲しい。君の想念操作は余りに自分の「掌」にそのイメージを依存してる」
  ふと、香が薫った。衣擦れの音が聞こえる。
  掌が白刃に貫かれ、腐葉土に縫いつけられる。
  声にならない叫び。苦痛によるものではない。絶望と怒りの叫び。
  『我が君、よろしいのですか?』
  「ああ、『朧月夜』構わない。眠らせてやるんだ、この哀れな鬼を」
  再び、声。そして、
  刀身が赤く染まる。周囲から撃たれた打根が腿、肩、胸、首に突き刺さる。
  「ようやく、捕まえたぜ……」
  「遅かったな」
  男は剣を抜こうとする。だが大胸筋が刀身を捉えている。
  「この剣だけでももらってゆく……」
  「あまり自分を過信しないほうがいい」
  すっと、目が細くなる。滑らかに刃が滑り、身体を断ち切ってゆく。
  鬼-廚川将威-の目が驚愕に見開かれる。
  「歴史は繰り返す、神代の昔に破れたお前達が今になって勝てる筈もない」
  腕が敵を求めて伸びる。
  怜悧な表情はぴくりとも動かない。
  血だらけの掌が仇の首を狙う。そっとたおやかにさえ見える指が無骨な掌を退けた。
  「なぜ、俺の前に出てきたのだ? 俺の前に出てこなければ死なずに済んだのに。鬼の力は亡びにのみ結びつくものだ」
  そして、鬼の身から剣は抜かれ、血潮はその刃に曇り一つ残さなかった。
  「真砂さん、しっかり!」
  林の中には蒼い光が差し込んでいた。男女の二人連れはその光を恐れるように、影から影へその歩みを進めた。
  「吹利に行けば、たどり着きさえすれば。匿ってもらえる場所があります! だから!」
  「……そこが……あいつらに……ばれてないって保証は……あるの?」
  まだ幼さを残す声が、胸を突かれたように押し黙った。
  「くっ……」
  男は女の手を握り締めた、指が落とされた掌は力なく男の手を握り返す。
  「……すみません」
  「馬鹿、謝ったってしかたないのに」
  「吹利に行けば、そこに行けば薬が手に入ります。うまく行けば医者にだってかかれるかもしれない。だから、もう少しです。頑張って!」
  二人は肩を預けあいながら歩いた。
  林に積もる落葉が歩みにそって音を立てた。
  下生えを踏み行く音だけがしばらく聞こえた。
  「……ねぇ、柊也。あんた幾つだっけ?」
  「こんな時に、なんだってんです!」
  「話してなきゃ、寝ちゃいそうだから、さ」
  ぞくりと男の腹が冷えた。
  「寝ちゃ、駄目です。意識をはっきりさせて!」
  その瞬間、男は足を止めた。
  頭を巡らせて女が呟いた。
  「囲まれてるのね」
  輪は狭まりつつあった。二十人ほどの人の輪だった。
  「(引き付けて、あたしが止めるから。あなたは行きなさい)」
  「……そんな!」
  「(簡単な算数よ、揃ってここで死ぬ必要はないわ)」
  再び夜風が剣風に引き裂かれた。
  落葉は不意の夕立に赤く染まり、その日の朝靄には血の匂いが混じった。
  明け方近く、折り重なって倒れる二人の男女を、足元に見下ろす男達の姿があった。
  「被害は」
  手に鞘袋を下げた青年が、詰問する。
  端正な表情に、今は怒りの色が濃い。
  「二人が、惑わされて自分の胸を貫き、仲間を撃ちました」
  「生死は?」
  物憂げにもう一人が問う。怜悧な面にはなんら心の内を読み取れはしない。風に吹かれたのか、さらりと伸ばした髪が揺れ、瓔珞が音を立てた。
  「一人が死に、三人が重傷です」
  「馬鹿が!」
  青年が怒鳴った。
  「なぜ、我々を待たなかった? 手負いとはいえ、陸奥の鬼を数だけで何とかなるとでも思ったか!」
  「……申し訳ありません」
  「死んだ者は手厚く葬れ。縁者にはできるだけのことをしてやるがいい。繰り返すな。お前達は我らの力だ。死んでは意味がない」
  そっと、髪が揺れ、青年は刀を持つ肩に手をかける。
  「次の仕事に取り掛かる前に休んだ方が良い。後始末は、彼らに任せよう」
  目を開こうとする。
  だが、なお目に見えるものは暗闇だった。
  口元にこぼれ落ちるものがあった。
  舐める。
  馴染深い味だった。
  血だ。
  「……目、覚ましたんだね」
  声がした。エンジンの音に消えてしまうくらいの、小さな、囁き声。
  「……真砂さん?」
  舌がひりついた。喉が燃えるように渇いている。身体中をかんかんと燃え立つ炭火で炙られているようだった。
  頬に自分のものではない肌の感触、血の匂いの中から微かに匂う髪の匂い。
  「ざまぁ、ないよね。みんな、つかまっちゃ」
  「みんな?」
  「あたしの下に、良照と将威の身体があるわ」
  辛そうに女は言葉を紡ぎ、そして続けた。
  「もう、冷たくなっちゃった」
  「そんな……目が、目が見えないんです……。真砂さんはどうなんですか……」
  「目が見えないなら、好都合よね。見せられたもんじゃないわ」
  「目だけじゃないです、身体も、熱い! 灼けそうに……」
  「見ない方が、いいわよ。きっと。お互いに」
  「今、何とか、動きます」
  身体を揺する。タイヤの鳴る音が聞こえ、一際大きく揺れる。その時、男は理解した。
  馴染みある感覚が消え失せていた。左腕と右足の感覚が消え失せていた。
  「あんた、幾つだったっけ……」
  「こんな時に、なんだってんです」
  ふと、意識が途切れそうになる。
  「さっきのとおりよ。話してなきゃ、寝ちゃいそうだから、さ」
  やけに遠くに言葉が聞こえる。
  「21です」
  ふうんと女は頷いた。若いね、とも言った。
  ごふりとくぐもった咳の音が聞こえ、血の塊がびしゃりと男の顔に降り注いだ。
  「真砂さん!」
  「大丈夫。まだ、生きてる……から。でも」
  女はそこで言葉を切った。
  「悔しいなぁ」
  「なにが、ですか」
  「あんたが、仲間だったってことがさ」
  「仲間じゃなきゃ、どうする気だったんです」
  「誘えたのに、さ」
  男は答えなかった。
  女の頬に雫がこぼれた。男の涙だった。
  「いまさら……。ひどい……、真砂さん」
  「そう、かもね」
  「知ってたんでしょう?」
  「うん」
  「なら、いまさら言わなくたって」
  「寒かったから」
  軽く吐息。
  「こんな時ぐらいは、私のこと好きでいてくれる男の腕の中にいるって、確認したかったから」
  「ずるい……。僕は、僕はどうすればいいんです? 僕はまだあなたの気持ちを……!」
  唇を唇がふさいだ。
  血の味がした。
  涙が溢れた。
  触れた唇が離れ、そっと泥と血に混じった涙を吸った。
  「馬鹿、こんなことぐらいで……」
  囁きながら、女は男を抱き込んだ。
  男はおずおずと唇を這わせる。美しかった瞼にたどり着いたとき、男は女に何が起きたか悟った。常に挑みかかるような光を湛えていた瞳はそこにはなかった。
  ざらついた血の塊と、虚ろな眼窩の感触だけがあった。
  「真砂さん……」
  慰めるような、聖女のキス。
  ぺろりと女は男の鼻を舐めると、耳元に囁いた。
  「あたし達を食べなさい」
  ぼんやりと男はその言葉を聞いた。
  「あたしと、良照と、将威を食べて、そして逃げなさい」
  「僕は、あなたを連れて行く……」
  「無理……。鬼の血を流しすぎたから……、そうしないとあなたは目を覚ませなかったから……」
  男のまとまりのつかない意識では、自分に注がれていた血の意味、源を知ることはできなかった。
  ただ、これ以上女を困らせるわけには行かないのだなと言うことだけはわかった。
  悲しかった。
  女を失うことが。
  守ってくれた仲間達を失うことが。
  そして、それ以上に疎ましかった。
  その屍を喰らわねば生き延びられぬ自分が。
  そうすることでしか、役に立てない自分が。
  あさましく思わずにいられなかった。
  「僕はあなたを喰らって生きるのですか?」
  女の耳朶をついばむ唇が呟く。
  「……他に道はないから」
  男の瞼を女の舌がそっと掃く。
  「あたしがただの肉になる前に、あたしを食べて……」
  再び、唇があわせられ、男は唇を首筋に滑らせる。
  そして、
  歯を立てた。
  男は泣いた。
  流れる涙が、血糊で固まった瞼をとかし、残った瞳が女を捉えた。
  闇中に美しく女の喉があった。男は音を立てて、それを噛み破った。
  最後の鬼の血が、男の喉に流れ込んだ。
  女の顔が見えた。
  血塗れの眼窩のまま、
  彼女は微笑んでいた。
  聖女の微笑みだった。
  吹利プリンスホテルの一室。
  電話が慎ましやかに鳴る。
  シーツの上、しどけなく横たわる青年が受話器をとる。
  二三言葉を交わしたのち、切る。
  シーツを身体に巻き付け、身体を起こす。
  髪にからめた瓔珞がすずやかに鳴った。
  青年はシャワールームに呼びかけた。
  「鎬、鬼達はまだ息があったようです。死体をのせたバンが河に飛び込みました」
  「どこだ」
  鎬と呼ばれた青年は、シャワーを止めて尋ねた。
  「吹利ですね」
  「そうか」
  「どうします?」
  「足はつけておけ、女御もだ」
  「わかりました、選んでいただけますか?」
  長い髪を束ねると、青年は枕元から和綴の書籍をとった。
  「霊、宿、動」
  呟き、息を吹きかける。
  と、そこには目にも彩な十二単の女御達がかしづいていた。
  シャワールームからでてきた鎬は身体を拭う女御から一人を選んだ。
  「あの時、鬼の一人に止めを差したのはお前だったな」
  『はい』
  「もう一度だ」
  「そういうわけです、『朧月夜』。いってきなさい」
  微かに頷くと、女御はそのまま吹利を見渡す窓の外に消えた。
  鎬は裸のまま、吹利の夜景を見据えていた。
  その表情は堅く、厳しかった。
  背中に体温がそっと寄り添う。
  「何が見えるんです?」
  「今、それを見極めている」
  眼下には光の大河があった。だが、その光よりもなお暗い闇がそこにはあった。
  そして、鎬にはわかっていた。
  その闇の中に、かつて歴史のなかに埋もれていた陸奥の鬼達が息づいていることを。
  そして、この吹利に住まう別の鬼達がいることを。
  闇は果てしなく暗く、光は目映いばかりに輝く。
  吹利の街はいずれ来る戦いを知らず、今は静かに夜を営んでいた。

参道に続く道を歩く、かすかな音が聞こえてた。

南三條
「わざわざあなたが出るほどのものですか?」
十束
「不満か? 清火」
南三條
「いえ、あなたのなさることですから」
場違いな二人は、参道で低く言葉を交わしていた。十束は生地も仕立ても良い、ダークグレーのスーツ姿。南三條は清楚なシルクブラウスに、簡素ながらも上品なタイトスカート。そして、目に見えぬ式が彼らに付き従っていた。
若紫
『上様、”かしこきもの”が参ります』
式が、告げた。
南三條
『”五月蠅なす悪神”?』
若紫
『いえ、おそらくはカミの名にも値せぬヌシ程度かと』
参道の砂利を、誰かが踏む音がした。
南三條
「あれね」
十束
「人に、憑いている、か」
つまらなさそうに呟き、十束は右手に気を籠めた。南三條の手が、十束の前を遮るような形で伸ばされる。
南三條
「やめておかれた方がよろしいかと存じます」
十束
「彼のもののためにならん、悪縁は斬り去ればよい」
南三條
「けして、あなたの力を疑うわけではありませんが」
南三條が、伸ばしていた手を引く。足音が停止し、テンポを上げて遠ざかり始めた。
十束
「気付かれたか」
南三條が、式に低く命じた。参道入口の、車止めの辺りで、若い男の声がした。
豊中
「冗談だろう、おいっ!?」
式に足止めされ、結界に行く手を阻まれた男を見て、十束はほんの少し意外そうな顔をした。
十束
「悪縁に関わるような者では、そもそもあるまいに」
豊中
「……どうでもいいが、出してくれないか?」
コットンジャケットにブラックジーンズの、どこにでもいそうな若者だった。ヌシさえいなければ、普通の人間のように見えた。
十束
「その悪縁、いつまでも関わっておればお前のためにならぬ。 切捨てた方がお前のためだ」
豊中
「悪縁?」
十束
「低劣な神、神の名に値せぬ神など、宿しておけばお主のためにな らぬ」
豊中
「……‥大きなお世話だ」
低いが、きっぱりとした声が返ってきた。十束は答えず、右手に籠めた気を放った。若者がとっさに横に飛び、気の塊を避けた。
十束
「……ただの人間、ではなさそうだな」
豊中
「……‥殺し合いか、趣味じゃないな」
十束
「もう一度聞こう。その、ヌシは清めねばならぬ。邪魔立てするな らば、お前とて無事には済まぬぞ」
豊中
「結構、やってもらおうか」
若者が、ジャケットを脱ぎ捨てた。南三條が、ふと笑う。
南三條
「十束様、このものには餌になってもらいましょう」
豊中
「……餌?」
餌と言われた若者が、けげんそうな顔をした。
豊中
「何を釣る?」
南三條
「別に組織のものを一人使っても良いのですが、そういうや り方はあなたが嫌いますからね」
南三條は、若者の言葉を完全に無視した。
十束
「このものもただでは済まない」
南三條
「十束様に盾突いた時点で、同じことです。 所詮はまつろわぬ者、いずれ我らによって清められる者であれば、その前に一仕事してもらうのも一興かと」
豊中
「なら、バイト代よこせよ」
十束
「鬼は、このものを我らの仲間と思うか?」
にやりと笑って減らず口を叩いた若者を、ちらっと横目で見ながら、十束も言った。
南三條
「方法はございます」
南三條は笑って、軽く印を結んだ。豊中が身構える。それに、式が襲いかかった。
南三條
「スタンガンで、式は倒せませんよ」
若紫が、若者をその背後から抱き抱えるようにして、動きを止めた。力で振りほどける相手ではない。若者の肘打ちも、式相手には通用しなかった。そこに、ふぅっと、南三條は息吹いた。若紫が離脱した直後、豊中を気の塊が襲った。抵抗しようとあがき、しかし失敗して手近の木に叩き付けられる。背中をぶつけたまま立ち上がれず、地面にへたり込んだ豊中に、南三條は柔らかく微笑んだ。
南三條
「仕上げが必要ですね」
かがみこんでほっそりした指を伸ばし、豊中の額にそれをあてがう。
南三條
「せめてもの慈悲です」
遠くで、何かが吠えたのを、十束は聞きとっていた。
若紫
『上様、参ります』
南三條
「数は」
若紫
『一つ』
十束
「一人だけでは意味がない。今は目印を付けて泳がせておく」
南三條
「わかりました」
南三條の唇から、吐息に似た音が洩れようとした瞬間、へたり込んでいた豊中が南三條の手を払い除けた。
豊中
「化けものの餌はごめんだ……」
若紫
『近くに参っております』
南三條
「そう。では、食われる己をしっかり見ておきなさい」
南三條は笑みを浮かべたまま、すっと十束に寄り添うように立った。四対一-----呼吸を整える。体を流れる力の流れを制し、感覚を研ぎ澄ます。青い瞳に淡い光が帯びる、鬼を見つめる澄んだ瞳。荒い息が四つ聞こえた。頭に一つ。膝に浮かぶ顔は牙を軋らせ、グロテスクな笑みを浮かべる。手のひらから時折滴るのは唾液だろう、ならあの舌なめずりも。
友久
「『四人』いる……か」
心を済ませ相手の心を感じとる、荒れ狂い己を見失った四つの心。あるのはただ……鬼としての嘆きの声。鬼面を宿した身体の持ち主、その表情は見に浮かぶ鬼面とは異なり、とまどったような、悲しみのような、やりきれない表情をしていた。飢えている、故に喰らう。そのことを悲しんでいるようにも見えた。が、
友久
「あるべき己の心を見失ってる……」
甘いな……思わず自分自身に舌打ちする。こいつ、殺したくない……だからといって状況は変わるはずもない、今、奴は鬼だ。しかし……それでも、自分を変えられない。致命的な、心の甘さ。
友久
「殺しはしない、いくぜ」
瞬間、鬼面に獰猛な笑みが浮かんだ。むかってくる。ならば敵。ならば、倒して、良い。くらって、良い。四つの鬼面が歓喜の叫びを上げた。戦いは相手を理解したとき、負ける。その意味に置いて、明らかにその時、友久は負けたのだ。一瞬の攻防において、殺すつもりの打撃と制するための打撃では重みが違う。まして、柊也は友久を殺すつもりすらなかった。ただひたすらに飢え、渇き、喰らうために動いているのだった。峻烈な動きになるのは当然だった。土がはじけた。目の前から鬼の姿が消えた。飛んだのだ。友久は、とっさに転がった。頭を守り、すぐさま立ち上がる。さっき立っていたところに鬼が降り立つ。はずだった、が。姿はない。枝が鳴った。
友久
「まだ上にいる!」
視認せずに、頭上の空間を砕く。肉片の代わりに、枝葉が降り注ぐ。そして、一拍遅れて、鬼が降り立った。ざん。たてがみのような髪を振り、鬼が面を上げた。悪夢のような顔だった。額の皮を突き破り、角が生えていた。人の唇を裂き、鬼の牙が生えていた。見開いた瞼から絶えず血が流れていた。そして、その右目。いや、右目があるべき所には、嘘のようにこぎれいな女性の面があった。その眼が見開かれた。鬼と目が合う……右目が赤い光りを帯びる。
友久
「!」
友久の顔に驚愕の表情が浮かぶ。赤い瞳と目が合った瞬間、遠くへ飛んでいってしまったかのような妙な感覚を覚えた。そして、脳裏に大写しで浮かぶ姿。鬼が倒れた男にのしかかり腹に顔を埋めている。くちゃ……くちゃ、身の毛もよだつような音がする、鬼が人を喰らっている……鬼が顔を上げた。口に何かを咥えている……赤黒い血を滲ませた……肉片。口のまわり、首、両手……あたりかまわずこびりついた血。さらに倒れた男の体に喰いつく、鋭い牙が鍛え上げた筋肉組織を切り裂き、肉をひきちぎる。血を滴らせながら鬼の口へと消える肉片、くちゃくちゃ……と、たまらない音を立てて飲み込まれる。絶命し、倒れてる男。短い黒髪、硝子玉のような青い双眸……喰われているのは……自分? 
友久
「うっ」
襲う嘔吐感。背筋を突き抜ける……喰われることへの畏れ。たまらず口を押えてしまう。それを見ているのは友久だった、にもかかわらず、友久の腹部に感触があった。腹腔を内側から舐めあげ、肉をはがし、臓物をすする感触。時折、肋に当たる牙の感触さえも。これは……暗示、もしくは心理操作? 理性では理解はできる、できるのだ。ただ、襲うのは生ける者としての恐怖。おまえを喰らい尽くしてやる……。強烈な意識だった。とぎすまされた鉈の意識だった。ガードもへったくれもない。なまじ感情に依らない、生に直結した意識故に、強い意識だったそして、鬼は動いた。
友久
「しまっ」
つかみかかる身体をよけ得たのは、喰らわれるものが喰らうものに対して持つ武器、恐怖のおかげだったかもしれない。かすめた爪が友久の二の腕に傷を付けた。その時、身体が動いた。今までに気の遠くなるほど繰り返した動きだった。入りにあわせ入り身、脇に相手の腕を抱え込みつつ、肘を決める。力ではない。鬼の力を僅かにずらしただけだ。一瞬、鬼の身体が伸びる。その顎を、下から掌底が突き上げる。そのまま、喉笛に矢筈を当てて倒す。後頭部と、舌骨を砕く。はずだった。もつれ合うように倒れた。極められた鬼の左手が、友久の右腹を食い破っていた。捕まれているのではない。手のひらに浮かんだ顔が歯を立てたのだ。そして、肩口にも。ぞぶり……と鬼の牙が友久の腹に潜り込んだ。
友久
「うぐっ」
火がついた様に熱い。腹に潜り込む牙、噛み締め、肉を食いちぎる鬼。意識がはじけ、青い瞳がまばゆく輝く。
友久
「うああああああああっ」
咆えた。生けるものとしての本能の絶叫だった。軋むような嫌な音を立て、鬼の周囲の空間が急速に歪み……そして……はじけた。おおおおぉぉぉぉぉぉぉぉんんんん鬼のこの世のものとも思えない絶叫が響く。鬼の右肩が軋む空間ごと粉砕され、ごろりと腕が転がった。肉片があちらこちらに飛び散り、はじけた傷口から鮮血がほとばしる。あたりは飛び散った血しぶきで真っ赤に染まっていた。口から真っ赤な血を滴らせた鬼がその場に崩れ落ちた、が、まだ生きている。
友久
「この……」
同じく膝をつき、肩で息をしている友久。腹部からとめどなく流れる血……喉に血の味がする。激しい嘔吐感が襲い、目眩が襲う。友久の脳裏にはすでに最初の覚悟はなかった。やらなければ喰われる。既に判っていた。鬼は傷口を啜っていた。懸命にのばした舌で、あふれ出る血潮を少しでもすくい取ろうとしていた。膝の顔が地面をはい回る右腕をくわえた。立ち上がる前に立ち上がる。そうしなければ、死ぬ。友久は、腹を押さえた手を離した。圧迫をはずされ、血がどんどんにじみ出す。構わず、友久は手を伸ばした。手のひらに鬼を捉える。今なら、砕ける。前髪の下から、女の鬼面が気づいた。鬼は面を上げた。鬼の左目に青く鋭い光が宿った。赤く輝く右目とのコントラストが恐ろしいほど美しい。
友久
「なっ!? ……魔性の瞳!」
同時に鬼の周りの空間が歪む、鬼の姿が歪みの中に消えていく。
友久
「こ……の……」
能力を奪った? 食われた時に? あいつ……ただの鬼ではない。
友久
「くっ」
今更ながら、食いつかれた腹部が……燃えるように熱い。血のあふれ出る腹を押え、歯を食いしばる。奴を取り逃がしてしまった。自らの甘さの為に……
友久
「畜生っ!」
地面に拳を叩き付ける。皮膚が裂け、血が滲み出す。それでも……
友久
「畜生……」
追わなければ、追わなければいけないのに……体が思うように動かない。なんとか懐にある癒しの呪符を貼り、渾身の力を振り絞り空間を渡る。あの男。次に会った時は……殺す。必ず。捕獲-----
柊也
(肉……肉が欲しい)
追手をまいたとはいえ、肉体の破損は簡単には治らない。再生能力の発現のためにも、柊也には生き物の肉が必要なのだ。
真砂
「はやく、何か食べなさい」
柊也
「わかっている……」
真砂
「あら? その陰に猫がいるわよ」
柊也
「わかった」
一つの影が、暗い路地へと入っていく。だが、そこには先客がいた。
中原
「……どうしたんですか? 怪我ですか?」
柊也
「うるさい……」
真砂
「あたしが追い払うわ」
柊也の左目が、妖しく、紅い光を帯びる。
真砂
「さあ、今すぐ出ていきなさい」
中原
「……そうおっしゃられましても。まだ、この猫達に餌を 与えていないのですが」
真砂
「! 効かない?」
中原
「……いえ、聞いていますが?」
柊也
(ちっ……こいつも能力者か。今やりあうのは得策じゃない な……)
中原
「なんにせよ、怪我人は職業柄も見捨てるわけにもいきま せん。手当しませんと」
柊也
「うるさい、あっちへ行け」
中原
「ダメです。怪我の手当が先です。そっちに私の車があり ますから、乗って下さい」
柊也
(……この場は逃げた方がいいな)
中原
「わがままな人ですね。仕方ないです」
柊也
(なんだ……? 急に、眠気が……)
中原
「お休みなさい」
柊也
(しまった……あいつの、じゅ……つ……)
柊也の意識は眠りについた。

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