血に、渇いていた。
肉に、飢えていた。
脳裏に浮かぶのは、それぞれの痛み。
裁ち落とされた、左腕。
えぐられた、右目。
焼き焦がされた、右脚。
痛みは身を灼き、咽を炙る。
渇きを癒やすには、
血。
失いし身体を取り戻すには、
肉。
……ここは、どこだ。
身体中を苛む、灼熱感。
……俺はどこにいるんだ。
時折粗くなる唸り声、血の匂いで麻痺した臭覚。
ふと、遠くなる意識。
唇に時折伝い落ちる、血の雫。
冷たく刃が煌めいた。血潮がはじけた。
四人の人影のうち一人が腕を落とされ、倒れた。
「てめぇ! よくも良照を!」
「将威! 駄目よ、逃げるわ、分がない!」
「……行け」
「良照さん!」
「柊也! 逃げるのよ!」
再び剣が閃く。ばらばらと切り落とされた細い指が落ちる。
押し殺した叫び。
星明りが幽かに追撃者を映し出す。刀身に青ざめた女の顔が浮かぶ。
「……逃げるんだ、柊也」
端正な顔を腐葉土に落とし、痩せぎすの男は呟いた。
「そうは行かない。外法の輩にこの吹利で動いてもらうわけには行かないからね」
その声には楽しむような響きがあった。
腕を落とされた男-衣盾良照-は、絶えず押し寄せてくる苦痛を押し固め、残ったもう一つの腕に集めた。意識がその掌のなかに凝り固まり周囲の空間を歪める。
「独学は悲しい。君の想念操作は余りに自分の「掌」にそのイメージを依存してる」
ふと、香が薫った。衣擦れの音が聞こえる。
掌が白刃に貫かれ、腐葉土に縫いつけられる。
声にならない叫び。苦痛によるものではない。絶望と怒りの叫び。
『我が君、よろしいのですか?』
「ああ、『朧月夜』構わない。眠らせてやるんだ、この哀れな鬼を」
再び、声。そして、
刀身が赤く染まる。周囲から撃たれた打根が腿、肩、胸、首に突き刺さる。
「ようやく、捕まえたぜ……」
「遅かったな」
男は剣を抜こうとする。だが大胸筋が刀身を捉えている。
「この剣だけでももらってゆく……」
「あまり自分を過信しないほうがいい」
すっと、目が細くなる。滑らかに刃が滑り、身体を断ち切ってゆく。
鬼-廚川将威-の目が驚愕に見開かれる。
「歴史は繰り返す、神代の昔に破れたお前達が今になって勝てる筈もない」
腕が敵を求めて伸びる。
怜悧な表情はぴくりとも動かない。
血だらけの掌が仇の首を狙う。そっとたおやかにさえ見える指が無骨な掌を退けた。
「なぜ、俺の前に出てきたのだ? 俺の前に出てこなければ死なずに済んだのに。鬼の力は亡びにのみ結びつくものだ」
そして、鬼の身から剣は抜かれ、血潮はその刃に曇り一つ残さなかった。
「真砂さん、しっかり!」
林の中には蒼い光が差し込んでいた。男女の二人連れはその光を恐れるように、影から影へその歩みを進めた。
「吹利に行けば、たどり着きさえすれば。匿ってもらえる場所があります! だから!」
「……そこが……あいつらに……ばれてないって保証は……あるの?」
まだ幼さを残す声が、胸を突かれたように押し黙った。
「くっ……」
男は女の手を握り締めた、指が落とされた掌は力なく男の手を握り返す。
「……すみません」
「馬鹿、謝ったってしかたないのに」
「吹利に行けば、そこに行けば薬が手に入ります。うまく行けば医者にだってかかれるかもしれない。だから、もう少しです。頑張って!」
二人は肩を預けあいながら歩いた。
林に積もる落葉が歩みにそって音を立てた。
下生えを踏み行く音だけがしばらく聞こえた。
「……ねぇ、柊也。あんた幾つだっけ?」
「こんな時に、なんだってんです!」
「話してなきゃ、寝ちゃいそうだから、さ」
ぞくりと男の腹が冷えた。
「寝ちゃ、駄目です。意識をはっきりさせて!」
その瞬間、男は足を止めた。
頭を巡らせて女が呟いた。
「囲まれてるのね」
輪は狭まりつつあった。二十人ほどの人の輪だった。
「(引き付けて、あたしが止めるから。あなたは行きなさい)」
「……そんな!」
「(簡単な算数よ、揃ってここで死ぬ必要はないわ)」
再び夜風が剣風に引き裂かれた。
落葉は不意の夕立に赤く染まり、その日の朝靄には血の匂いが混じった。
明け方近く、折り重なって倒れる二人の男女を、足元に見下ろす男達の姿があった。
「被害は」
手に鞘袋を下げた青年が、詰問する。
端正な表情に、今は怒りの色が濃い。
「二人が、惑わされて自分の胸を貫き、仲間を撃ちました」
「生死は?」
物憂げにもう一人が問う。怜悧な面にはなんら心の内を読み取れはしない。風に吹かれたのか、さらりと伸ばした髪が揺れ、瓔珞が音を立てた。
「一人が死に、三人が重傷です」
「馬鹿が!」
青年が怒鳴った。
「なぜ、我々を待たなかった? 手負いとはいえ、陸奥の鬼を数だけで何とかなるとでも思ったか!」
「……申し訳ありません」
「死んだ者は手厚く葬れ。縁者にはできるだけのことをしてやるがいい。繰り返すな。お前達は我らの力だ。死んでは意味がない」
そっと、髪が揺れ、青年は刀を持つ肩に手をかける。
「次の仕事に取り掛かる前に休んだ方が良い。後始末は、彼らに任せよう」
目を開こうとする。
だが、なお目に見えるものは暗闇だった。
口元にこぼれ落ちるものがあった。
舐める。
馴染深い味だった。
血だ。
「……目、覚ましたんだね」
声がした。エンジンの音に消えてしまうくらいの、小さな、囁き声。
「……真砂さん?」
舌がひりついた。喉が燃えるように渇いている。身体中をかんかんと燃え立つ炭火で炙られているようだった。
頬に自分のものではない肌の感触、血の匂いの中から微かに匂う髪の匂い。
「ざまぁ、ないよね。みんな、つかまっちゃ」
「みんな?」
「あたしの下に、良照と将威の身体があるわ」
辛そうに女は言葉を紡ぎ、そして続けた。
「もう、冷たくなっちゃった」
「そんな……目が、目が見えないんです……。真砂さんはどうなんですか……」
「目が見えないなら、好都合よね。見せられたもんじゃないわ」
「目だけじゃないです、身体も、熱い! 灼けそうに……」
「見ない方が、いいわよ。きっと。お互いに」
「今、何とか、動きます」
身体を揺する。タイヤの鳴る音が聞こえ、一際大きく揺れる。その時、男は理解した。
馴染みある感覚が消え失せていた。左腕と右足の感覚が消え失せていた。
「あんた、幾つだったっけ……」
「こんな時に、なんだってんです」
ふと、意識が途切れそうになる。
「さっきのとおりよ。話してなきゃ、寝ちゃいそうだから、さ」
やけに遠くに言葉が聞こえる。
「21です」
ふうんと女は頷いた。若いね、とも言った。
ごふりとくぐもった咳の音が聞こえ、血の塊がびしゃりと男の顔に降り注いだ。
「真砂さん!」
「大丈夫。まだ、生きてる……から。でも」
女はそこで言葉を切った。
「悔しいなぁ」
「なにが、ですか」
「あんたが、仲間だったってことがさ」
「仲間じゃなきゃ、どうする気だったんです」
「誘えたのに、さ」
男は答えなかった。
女の頬に雫がこぼれた。男の涙だった。
「いまさら……。ひどい……、真砂さん」
「そう、かもね」
「知ってたんでしょう?」
「うん」
「なら、いまさら言わなくたって」
「寒かったから」
軽く吐息。
「こんな時ぐらいは、私のこと好きでいてくれる男の腕の中にいるって、確認したかったから」
「ずるい……。僕は、僕はどうすればいいんです? 僕はまだあなたの気持ちを……!」
唇を唇がふさいだ。
血の味がした。
涙が溢れた。
触れた唇が離れ、そっと泥と血に混じった涙を吸った。
「馬鹿、こんなことぐらいで……」
囁きながら、女は男を抱き込んだ。
男はおずおずと唇を這わせる。美しかった瞼にたどり着いたとき、男は女に何が起きたか悟った。常に挑みかかるような光を湛えていた瞳はそこにはなかった。
ざらついた血の塊と、虚ろな眼窩の感触だけがあった。
「真砂さん……」
慰めるような、聖女のキス。
ぺろりと女は男の鼻を舐めると、耳元に囁いた。
「あたし達を食べなさい」
ぼんやりと男はその言葉を聞いた。
「あたしと、良照と、将威を食べて、そして逃げなさい」
「僕は、あなたを連れて行く……」
「無理……。鬼の血を流しすぎたから……、そうしないとあなたは目を覚ませなかったから……」
男のまとまりのつかない意識では、自分に注がれていた血の意味、源を知ることはできなかった。
ただ、これ以上女を困らせるわけには行かないのだなと言うことだけはわかった。
悲しかった。
女を失うことが。
守ってくれた仲間達を失うことが。
そして、それ以上に疎ましかった。
その屍を喰らわねば生き延びられぬ自分が。
そうすることでしか、役に立てない自分が。
あさましく思わずにいられなかった。
「僕はあなたを喰らって生きるのですか?」
女の耳朶をついばむ唇が呟く。
「……他に道はないから」
男の瞼を女の舌がそっと掃く。
「あたしがただの肉になる前に、あたしを食べて……」
再び、唇があわせられ、男は唇を首筋に滑らせる。
そして、
歯を立てた。
男は泣いた。
流れる涙が、血糊で固まった瞼をとかし、残った瞳が女を捉えた。
闇中に美しく女の喉があった。男は音を立てて、それを噛み破った。
最後の鬼の血が、男の喉に流れ込んだ。
女の顔が見えた。
血塗れの眼窩のまま、
彼女は微笑んでいた。
聖女の微笑みだった。
吹利プリンスホテルの一室。
電話が慎ましやかに鳴る。
シーツの上、しどけなく横たわる青年が受話器をとる。
二三言葉を交わしたのち、切る。
シーツを身体に巻き付け、身体を起こす。
髪にからめた瓔珞がすずやかに鳴った。
青年はシャワールームに呼びかけた。
「鎬、鬼達はまだ息があったようです。死体をのせたバンが河に飛び込みました」
「どこだ」
鎬と呼ばれた青年は、シャワーを止めて尋ねた。
「吹利ですね」
「そうか」
「どうします?」
「足はつけておけ、女御もだ」
「わかりました、選んでいただけますか?」
長い髪を束ねると、青年は枕元から和綴の書籍をとった。
「霊、宿、動」
呟き、息を吹きかける。
と、そこには目にも彩な十二単の女御達がかしづいていた。
シャワールームからでてきた鎬は身体を拭う女御から一人を選んだ。
「あの時、鬼の一人に止めを差したのはお前だったな」
『はい』
「もう一度だ」
「そういうわけです、『朧月夜』。いってきなさい」
微かに頷くと、女御はそのまま吹利を見渡す窓の外に消えた。
鎬は裸のまま、吹利の夜景を見据えていた。
その表情は堅く、厳しかった。
背中に体温がそっと寄り添う。
「何が見えるんです?」
「今、それを見極めている」
眼下には光の大河があった。だが、その光よりもなお暗い闇がそこにはあった。
そして、鎬にはわかっていた。
その闇の中に、かつて歴史のなかに埋もれていた陸奥の鬼達が息づいていることを。
そして、この吹利に住まう別の鬼達がいることを。
闇は果てしなく暗く、光は目映いばかりに輝く。
吹利の街はいずれ来る戦いを知らず、今は静かに夜を営んでいた。
参道に続く道を歩く、かすかな音が聞こえてた。