エピソード『相棒』
文化庁文化財課分室。その正式名称が「特殊文化財室」であることを知るものは、この庁舎の中にも滅多にいない。
湿っぽいコンクリートの壁が剥き出しになった部屋の、一番奥のデスクには、小柄な初老の男がついている。その前のリノリウムの床に、大柄な筋肉質の男が一人、居心地悪そうに立っている。
殺風景な部屋に窓はなく、壁を隔てて、機械室の低音の唸りが響いてくる。
立っていた男が、苛立たしげに口を開く。
- 松崎
- 「……でさ、へーちゃん。いきなりこんな、滅多に使って
ない部屋に呼び出して、一体何の用なわけ?」
室長を含む職員が、この部屋に姿を見せるのは、報告書を提出するときくらいだった。どうせ使わないから、機械室脇のタコ部屋を宛てがわれているのである。
- 室長
- 「あのねぇ、松崎君。昔はともかく、今の上司に向かって
へーちゃん呼ばわりはないんじゃないのかね?
まあそれはいいとして。突然で悪いが、今年から、君には新人とコンビを組んでもらうことにしたからね」
- 松崎
- 「新人? へー……じゃなくて室長。いつからうちは、新
人教育に人員を割けるほど、人材豊富になったんだ?」
- 室長
- 「教育? 馬鹿言っちゃいけないよ。彼には、最初から前
線に出てもらう。
『使える奴は最前線へ』……僕の方針を知らないわけじゃなかろう?」
- 松崎
- 「へえ。よっぽど有能とみえるね、その新人さん」
- 室長
- 「かなり、ね。いま引き合わせよう」
室長は机の上の内線の黒電話を取って、何やら短い指示を出す。幾らも待たないうちに、重い鉄のドアをノックする音がした。
- 声
- 「お呼びに与りました田能村です。入ります」
- 室長
- 「どうぞ。次からは、ノックなしで入ってきたまえ」
錆びた蝶番が軋んで、ダークグレイのスーツに身を包んだ男が入ってくる。一見しただけでは齢は判らないが、少なくとも40歳は超えていないだろう。肉の削げ落ちた腕の関節が、スーツの袖の上からでも浮いて見えた。
- 室長
- 「田能村駿一。彼が、君のこれからの相棒だ。
ことし博士に入ったばかりだから、こっちの仕事はまあ、一種の兼業でやってもらうことになるがね」
- 田能村
- 「はじめまして、松崎さん。今年度からお世話になる田能
村です」
あくまでも、慇懃な態度。細い目は、入ってきたときからずっと、穏やかに微笑んだままだった。
- 松崎
- 「ああ、どうも……
(声を潜めて) なぁへーちゃん、こんなの前線に出して、本当にだいじょぶなのか?」
- 室長
- 「大丈夫でなければ君とは組ませんよ。こっちから大学に
出向いて、わざわざ呼んできたくらいの人材だ。
田能村君。松崎君に、ちょっとデモンストレーションでも見せてやってくれないか」
- 田能村
- 「しかし……宜しいのですか?」
- 室長
- 「構わないよ。この程度でどうにかなるようなら、松崎君
の能力不足だ。好きにやってくれたまえ」
- 田能村
- 「はい」
頬に貼りついた微笑が、僅かに変質する。
変質の意味を頭で理解する前に、咄嗟に机の上のファイルを翳して顔を護る。田能村の、広げた掌のあたりから発した無色の塊が、向こう側の風景を屈折させて、一部はファイルの表面を滑り、残りは覆い損ねた頬をかすめて弾けた。
- 松崎
- 「うわっと、何しやがる」
- 田能村
- 「惜しいなあ。お腹を狙えばよかった」
屈託のない、しかしそれゆえに、邪悪な笑み。
裂けた頬には構わずに、硬質ボール紙のファイルをその腹に叩き込む。身を折って倒れ伏すはずの田能村は、現実味のない動きでそれを躱して、松崎の背後、室長の机に、まるで重さがないかのようにふわりと飛び乗る。机の面を吹き抜けた風に、そこに載っていた書類が一斉に飛び散った。
- 室長
- 「デモはそこまでにしときなさい、田能村君。あと、自分
の辞令に靴跡をつけないように」
- 田能村
- 「大丈夫ですよ。ほら」
机の上に立ったまま、上体を屈めて、田能村は自分の靴の下からするりと辞令を抜き取る。指先でかるく弾いたその表面には、幾つかの砂粒の他には何もついていない。
吹き上げる気流に硬い前髪を靡かせて、田能村は机の上、数ミリの空中に浮いていた。
- 室長
- 「今の言葉には、机から降りろ、という意味も含めたつも
りなんだが?」
- 田能村
- 「それは理解不足でした。いま降ります」
足元の室長に軽く頭を下げて、まだファイルを手にしたままの松崎の前に飛び降りる。
- 松崎
- 「風使いか……てめぇもとんだ芸当の持ち主じゃねぇか」
- 田能村
- 「お褒めに与って光栄です。あなたに怪我をさせるつもり
はなかったのですが……すみません」
- 松崎
- 「こんななぁなめときゃ治る。しかしなぁ、室長」
- 室長
- 「なんだね?」
- 松崎
- 「こいつだけは、敵にしたかねぇやなぁ」
- 室長
- 「それくらいの実力があるのは、君の脳筋でも判……」
- 松崎
- 「違うよ。本当にヤバいのは、性格の方だ」
手続を終えたあと。庁舎の薄暗い廊下を松崎と並んで歩いていた田能村が、ぽつりと話しかける。
- 田能村
- 「あの……松崎先輩」
どこにでもいる、自信のなさそうな、学生の顔。
- 松崎
- 「先輩はよせって。で、何だ」
- 田能村
- 「その傷……ご自分で、なめられるんですか?」
- 松崎
- 「(呆然)……(苦笑)……(爆笑)」
戸惑っている田能村の肩をばしばし叩いて笑いながら、松崎には、室長が彼を他の誰でもなく自分と組ませた理由が、何となく判るような気がしはじめた。
文化庁特殊遺物室にて、冒険野郎な考古学者、松崎渾(まつざき・こん)と風騎りの田能村駿一(たのむら・しゅんいち)がコンビを組む込みとになる、その発端の話です。
時間的には1996年あたりのことでしょうか?
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