小説003『稲荷……禁足地』


目次


小説003『稲荷……禁足地』

登場人物

斧淵雨海(おのぶち・あまみ)
妖怪橋姫。人の世で隠れて過ごす。

本文

 こぉぅん……しゃん
 こぉぅん……しゃん


 遠く伸びる鳴き声と、手元に戻すような鈴の音。


 こぉぅん……しゃん
 こぉぅん……しゃん


 呼ばれるように。
 呼ばれたように。


 稲荷神社。
 雨海のアパートから、歩いてどれほどだろうか。決して広くはない境内、朱
色の剥げた鳥居。
 人気の無い道を曲がって、しんとした生垣の並ぶ道を過ぎて。
 神社の入り口に色あせた幟が一つ、午後の日を浴びている。
 既に、そこにある文字さえ読めない。


 小さな境内にずらりと並んだ焼き物の狐は、雨風に晒されて、既に白茶けた
塊に見えた。
 顔に施された、かつては鮮やかだったろう朱と緑の岩彩の隈取。

 雨海は、そこで立ち止まる。

 眷属のように、小さな焼き物の狐を従えて歩いてゆく。
 ……それは、想像。
 けれども、ふと心が和む想像でもある。

「……動けたら良いのにね」

 小さな一体を手に取り、そっと撫でながら呟く。
 狐の尻尾は天を指している。
 ふとこころづいて、指先で埃を払ってやる。もともとは白の胡粉で塗られて
いたのか、存外あっさりと埃は落ちた。

 釣りあがった目、それをより強調する隈取り。
 それでも目は、笑うようにこちらを見ている。
 

 こぉぅん……しゃん
 こぉぅん……しゃん


 微かに。
 まるで夢の欠片のように届く音。
 
 これは幻聴だ、と、誰かが言う。
 幻聴で構わない、と、誰かが答える。
 静かに。
 静かに。

 きりきりと、引き絞る弓のように気を張り詰めて歩くこと。
 それが普通である生活。
 癖になってしまったように、いつも息を潜めている状態。


 こぉぅん……しゃん
 こぉぅん……しゃん


 手の上の狐が、ほろりと笑う。

(姉様、疲れている)
(姉様、疲れてしもうている)

「……うん」
 答えた途端、ぽろぽろと涙がこぼれて。
 朱の隈取が、柔らかくよじれて。

(疲れてしもうたね)
「……うん……」

 気がつくと、いつのまにか狐の人形達が、てんでんばらばらに立ちあがって、
彼女の周りを跳ねている。
 ととと、と、小さな足音が、まるでやわらかな波のように。

(疲れてしもうたね)
(すこうし、おやすみ)
(すこうし)

 白地に朱色と緑の波。
 
「……うん」

 静かな。
 霧のような、波………


(疲れてしもうたね)
(穢土に、おるのやものね)
(すこうし、おやすみ)
(すこうし)

 こぉぅん……しゃん
 こぉぅん……しゃん


 やはり夢を抜けてくるような、ぼんやりとした…………


 かたん、と、耳元で音がして、雨海は目をあけた。
 開けて初めて……自分が眠っていたことに気がついた。

「…あ」
 手の中には、小さな狐。
 白と朱と緑の、切ないように鮮やかな。

 釣りあがった目は、やはりすこうし笑っているようで。

「…………ありがとうね」
 そっと、手の中の人形を撫でて、元の位置に戻す。
 狐の人形はてんでんばらばらな方向に、澄ましたような顔のまま立っている。
「ありがとうね」

 境内の木の影は、ゆっくりと長く伸びつつある。
 肩にかけていた袋を、もう一度かけなおしてから雨海は立ちあがる。


 こぉぅん……しゃん
 こぉぅん……しゃん

「ほんとうに」
 ほんとうに、疲れてしまったら。
「また、くるね」
(またおいで)
(ほんとうに、つかれてしまったら)

 それは幻聴。
 それは空耳。

「……ありがとうね」

 小さく呟いて、雨海はゆっくりと歩き出した。

解説

斧淵雨海の風景です。
 妖怪達が、ほんの暫らく安らぐ為の土地が、禁足地です。
 常に張り詰めた糸が、ほんのひととき安らぐような場所なのでしょう。


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