小説006『猫又……雪風のお銀』


目次


小説006『猫又……雪風のお銀』

登場人物

お銀(おぎん)
猫又。

本文

 最初に感じたのは、頭痛に酷似するほどの激烈な怒りだった。

 ごく自然に、身内と縁が無い人間がいる。何か非常な悲劇と引き換えに、と
いうより、緩やかな流れの中で身内を亡くしてゆく人間が。
 寒風沢水華というのは、そういう人間の一人だった。ごく小さい頃に両親が
離婚し、その両方とも他の縁を結んだ。水華はどちらの縁にとっても邪魔であ
り、そのまま母の両親……彼女の祖父母が引き取った。大学を出た年に祖父が、
それから二年後に祖母が亡くなった。父も母も一人っ子であり、他に親戚らし
い親戚はいない。
 そう述べてしまえばある意味非常に寂しい境遇なのだが、案外本人は幸せに
育ち、幸せに暮らしている、と思っていた。両親から別れたのがまだ幼い頃だっ
たこと、祖父母がはっきりと親代わりだったこと、金銭的にも不自由を味わう
ことが無かったこと、など。
「まあ、お前がいるからね、お銀」
 偶にそれでも、酒が過ぎたときには、水華はそう言った。早くから晩酌を覚
えた娘は一人になる頃には相当の酒豪となっていたから、そんな機会はあまり
無かったのだが。
「お前がまだいるからね、お銀」

 お銀と名前を付けられた時のことを、実はお銀もよく覚えていない。
 本当にまだ、ふわふわの毛の塊状態だった時に水華が道で拾ったものらしい。
箱の中にはお銀を初めとして猫が4匹。そのうちで生き残ったのがお銀だけだっ
たから、確かに余程に運が良かったのだろうと、お銀も思う。
 真っ黒な毛と琥珀の目の子猫に、何故か水華はお銀と名づけた。どうやら当
時、祖父と一緒に見ていた時代劇の中の誰かの名前らしいのだが、とりあえず
お銀には文句は無い。


 大学を出て4年後、ふとしたきっかけで水華は本屋を経営することになった。
 名前は、雪風。せつふう、と読ませる。寒風沢の店が雪風、てのは出来すぎ
だよな、と友人からは笑われたらしいが。
 そして5年。
 どれだけの苦労と、どれだけの辛抱を重ねたかを、お銀は水華の横で見続け
ている。中小の店にとって、とても楽とは言えない状況の中で、本を選び、客
層を見極め、彼らに要求される本の品揃えを行う。
 5年。
 雪風は、その品揃えに偏りこそあるものの……その程度の小さな本屋なのだ
から仕方が無い……ふっと思わぬ本がある本屋、として知られるようになった。
常連もつくようになった。大学生や院生、そして教授達。彼らの探す本を見つ
け出し、届ける。その細やかさがやはり常連を増やした。
 その苦労と、辛抱と、頑張りと。
 お銀は水華の隣で見続けてきた。

 だから。
 だからこそ。

 …………何てことだ…………と…………

 朝には単なる風邪でしかなかったのだ。店を一度は開けもしたのだ。けれど
も、顔色のあまりの悪さに常連客が休むように言い、そして水華もそれに従っ
た。何だったら医者に行くかい、とも言われたが、水華は笑って首を横に振っ
た。こうやって一日、布団敷いて寝ていれば治るでしょう、と。

 治るでしょう、と。

 その夜、彼女は冷たくなっていた。


「残念だなあ、ねえお銀」
 本当に、一体どういうことだったのだろう、と、お銀は今でも考える。まる
で雪がそっと溶けるように、水華はその生命を身体の内から流し出してしまっ
た。
「ねえ、ようやく雪風も上手く行き出したのにね。一緒にお刺身も、お酒も呑
めるようになったのにね」
 手が、伸びる。一日のうちにげっそりと力を殺ぎ落とされてしまった手。
「ようやく……ようやく、手がのばせるな、って思ったのにね。ここまで頑張っ
て頑張って、雪風をやってきたのにね」

 ここは、あたしのお城なのだ、と、よく水華は言って笑った。
 あたしにはもう守るものなんてない。でもこのお城はあたしの守るところだ
からね、と。

 働いて、苦労して、これから、というときだったのに。

「……ふふ」
 苦笑が浮かぶ。
「そんなものかもね、でも」
 のばした手を、お銀はなめた。
「ふふ……」
 それでも笑い声は、最期まで同じで。
「お銀、あんたがいてくれて良かったなあ……」
 ぽろぽろと泣きながら、やはり笑い声のまま。
「一人で逝くなんて、さびしいもの。誰も見ていてくれないってさびしいもの」
 指先が、最期までお銀の短い毛に絡まって。
「あんたがいてくれて良かったなあ…………」

 つう、と、とろけ、こぼれるように。
 そのまま水華は冷たくなっていった。


 座りこんだお銀の腹の中から、じわじわと染み出すように湧きあがってきた
もの。
 悲しみでもなく、憐憫でもなく。
 怒り。
 その正体を知った途端、怒りは音も無くお銀の中で弾けた。
 
 どうして、と思った。
 それが運命であり、そんなもの、で済まされることならば。
 赦すものか、と思った。

『ここまで頑張って頑張って、雪風をやってきたのにね』

 その雪風を、水華の手からもぎ取るのが運命ならば。
 その雪風を、運命の手からもぎ取り返す。

 お銀は、一度目を閉じた。
 そして、もう一度目を開いた。
 
 猫とは思えない咆哮が一声。
 そして……そのまま、音は虚空に溶けた。


 翌日、雪風はいつものように開店した。

「おや店長、元気かい?」
「ああ、元気だよ」
 水華という人間が、もともと見たところの愛想が無いほうだったのが、お銀
にしてみればありがたかった。あ、いらっしゃいーと、にこやかに迎えるよう
なのが自分の手本だった日には、運命に打ち勝つのもこの双倍はしんどかった
ことだろう。
「それは何より」
 それでもいつもと違う、と首を傾げる常連には、猫が死んだからと告げた。
 相棒のようなものだったからね、と、あっさりと納得された。

 人の腕、人の顔、人の身体。
 その見てくれは、正確に水華をなぞって。


 雪風を、水華の手からもぎ取るのが運命ならば。
 その運命から、あたしは雪風をもぎ取ってやる。

 水華の城だった雪風を。


 商店街の外れのあたり、ちょっと本でも覗こうか、という辺りにその本屋は
ある。硝子戸は手で開ける引き戸、からからと懐かしい音を立てて開いた戸の
向こう、レジの前には長い髪をひっつめにしたきつい顔の女が立っている。

 書店雪風。
 不思議と常連のつく本屋である。

解説

想い一つで猫又になった、お銀の誕生話。
 鍋島でも、海を越えた世界でも、何故か猫は可愛がってくれた人の仇を討つ ようです。それも案外成功率が高い。
 このお銀は……どうなんでしょう。


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