小説007『存在意義不鮮明』


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小説007『存在意義不鮮明』

登場人物

斧淵雨海(おのぶち・あまみ)
妖怪橋姫。バイトの事務員として働く。

本文

 駅から歩いて10分ほど。バスに乗るには近すぎ、夜女性が一人で歩くには物
騒な場所に、そのアパートはある。
 古い、木造のアパート。六畳一間に小さな台所。
 数歩前から鍵を手に握り締め、出来るだけ素早く扉を開け、すぐに後ろ手で
扉を締める。

 家。
 大体4年ごとに、家を替わる。
 2年で変わるほどに、豊かではない。
 4年以上ひとところにいられるわけもない。

 靴を脱ぎ、電気をつける。
 部屋の真中にちゃぶ台、そして壁際に本棚があるのが、せいぜい目立つくら
いのものである。
 畳の上に敷いた敷物は、妙に軽快な青の色。

 家。
 
 ふう、と一つ溜息をつく。その弾みのように、雨海はこくりと頭を前に倒し
た。

 肩が、凝る。相当肩が凝る職種だから、まあ職業病みたいなものだが、今日
に関しては、歓迎会が相当に肩に来ている。
(いつも出ないから…)
 珍しいのと、下心と。
 時折視線が、粘る。
 背筋に氷水を流すようにぞっとする。
 考えすぎ、と言えるならばありがたいことである。自意識過剰、と、多分仕
事場の女性は嗤うだろう。
『斧淵さんは、綺麗だもんねー』
 化粧をしたことは無い。髪も後ろで束ねるだけ。およそ目立たない姿でいる
筈なのだが。
『得よね、美人ってさ』
 説教の時間が、各段に短くって、と、続く。
 説教をされるほど、仕事をサボるわけではない…と、言ってしまうほどには、
雨海も職を捨てる覚悟が無い。
『羨ましいわよねー、楽でさ』

 莫迦じゃなかろうか、と思う。
 思うけれども……言える言葉ではない。
 楽なわけが無い。このままどれほどの時を、自分はこの人の中で隠れて過ご
して行くのか。
 考えると、眩暈がするというのに。

『ねー、斧淵さんこっちきなよ、課長お呼びよー』

 明るく、親切げに呼びつける…声。
 何があったって、庇うような面々ではないくせに。

 ……結局、適当なところで、貧血を装って帰った。
『え、もう帰るの、斧淵さん?』
『貧血?いけないなあ、まず食べなきゃ。もう少し休んで帰ったら?』
 大丈夫です、と言った。すみません、と謝った。

 それ以上は流石に引きとめられなかった。

 ふう、と、雨海は息を吐いた。
 
 
 人ではない筈の自分が、ふらふらと歩いていた日のことを、雨海はおぼろげ
に覚えている。闇の夜を、人柱に立てられた時の白羽二重の衣を纏い。
 夜の道で出くわした男は、当然のように手を伸ばしてきた。
 当然のように、その男を異界へと送った。その前にポケットを探ることを忘
れなかった辺り、自分も思っていたほどぼんやりしてはいなかったのだろう。

 深夜営業の店で、安物の服を買って。
 
 何故、と思う。
 何故、そのまま人の中に紛れ込んでしまったのだろう、と。
 何故、橋へと帰らなかったのだろうかと。

 ……何故。


 ぽつり、と、小さく唇を噛んで、雨海は湯船に湯を張る為に立ちあがった。

解説

『誰を待つらん……橋姫由来』と同日、その夜の風景です。
 理由無く人の世に出てくる妖怪……
 その意味を、彼女が見出せるか否か。疑問でもあり期待でもあります。


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