小説011『給料日の千切りキャベツ』


目次


小説011『給料日の千切りキャベツ』

登場人物

斧淵雨海(おのぶち・あまみ)
妖怪橋姫。アルバイトの事務員。
諸橋 直(もろはし・すなお)
雨海の勤め先の正社員。雨海に気を使う。
村上細雪(むらかみ・さゆき)
日本刀の化身。

本文

 お給料は数えたって増えないけれども。

「あー助かったあっ」
 やっぱりそれはそれで皆、今日は機嫌が良くって。
「ゲーム買うのっ」
「…ゲームぅ?」
 どちらにしろ、贅沢が出来るようなお給料では無い。
「あ、ねえ斧淵さん」
「はい?」
 ふと気がつくと、諸橋さんが前に立っている。
「今日、夕ご飯一緒しない?」
「え……」
 諸橋さんは、正社員で。給料だのなんだのは安い、と言うけれども、それは
やはり一介のバイトよりも、貰っているのは確実で。
「あ、別にそーんな高いとこじゃないの。というより結構安いとこ見つけたん
で……」
 ぱたぱたと手を振って、諸橋さんは笑う。
「そんな高いとこ、あたしだって行けないもの」
 それがからんと自然だった。
 だから思わず頷いた。
「…はい」
 さんきゅ、と笑うと、諸橋さんはまた自分の席に戻っていった。


「こっちを…えーと、ここを右」
 背広の肩のあたりのくたびれたサラリーマンや、高いパンプスが如何にもし
んどそうなOLの間をかいくぐって諸橋さんが連れてきてくれたのは、居酒屋
と食堂が並ぶ一角だった。
「あ、ここだわ」
 店の外には、埃の被った見本が並んでいる。
「生姜焼き定食…かな。この前あたし食べたの」
「それが美味しかったんですか?」
「うん。それになにより」
 そこでふと諸橋さんは言葉を止めて…そしてく、と、小さく笑った。
「千切りキャベツがね」
「………千切りキャベツ?」
「入ってみよ、ほら」
 がらり、と引き戸を開けて、入る。
 たたたたた、と、綺麗な連続音。
 それが、ふ、と止まった。

「……ぁ……いらっしゃいませっ」

 調理場との間に、カウンターがある。そこから店員さんが頭を出した。
 お客は他に二組。そろそろくだを巻きかけているサラリーマンが三人と、隅
の方で皿の上を突ついている男が一人。
「そちらにどうぞ」
 店の中には充分過ぎる間がある。他の客から離れたところへ、店員さんが手
のひらで誘導する。
「どうぞ」
 お冷とお絞り。そしてメモを手に持って。
 もしかして、この人が一人で全部やっているのだろうか。
「えーと、生姜焼き定食……で、いいよね?」
「あ、はい」
「はい、じゃ、それ二つっと……あ、斧淵さん、日本酒呑める?」
「え、あ…はい」
「じゃ、冷酒一本。お猪口二つと」
「はい、生姜焼き定食二つに冷酒一本ですね」
 書き止める手元におっかぶせるように、
「千切りキャベツ、つけてください」
 諸橋さんが付け加える。と、店員さんが少しだけ笑った。
「はいかしこまりました」
 最後に一度、ぺこりと頭を下げて、店員さんは足早にカウンターの向こうに
戻る。
「今日ぐらい呑もうよ、ね?」
「……はあ」
「もし、気が進まないなら…付き合って?とりあえず一杯」
「あ、はい」
「もしかして嫌い?日本酒」
「いえ、好きです……」

 生きているうちは、とてもではないが口には入らなかったような酒。
 今の世では…私のような者でさえ飲むことができるというのに。

 と……

「千切りキャベツです」
 わさ、と。
 諸橋さんとの間の空間に割り込んだ……薄緑色の。
「あと冷酒です」
 お皿一杯の千切りキャベツと冷酒。そして取り皿とお猪口が二つずつ。
「どうも」
 さりげなく、テーブルの上のソースを手前に引いて……つまりこれを掛けて
食べろということなのだろう……店員さんはまた奥に戻る。
「びっくりした?」
 千切りキャベツの向こうから、諸橋さんが笑う。
「びっくりしました」
 ふわりと、皿一杯のキャベツの千切りは、見事に揃っていて、それも細くて。
「これがね、甘くて美味しいの。切り方が上手いのよね」
 食べよ食べよ、と、弾むように言いながら諸橋さんは箸を手渡してくれた。

 偶然だった、と、諸橋さんは説明してくれる。
「最初にここに来た時に、本当に人が居なくって…あたしも一人で来てたから、
カウンターの席に座ってたの」
 確かに、カウンターの前には三人分くらいの席がある。
「そしたら、店員さんが注文とって……まな板の上のキャベツを片付けてたか
ら、そのキャベツメニューに載ってませんね、って咄嗟に言っちゃって」
 一瞬、向こうは変な顔をしたのだという。
「注文したら駄目ですか、って聞いたら、これくらいならどうぞ、サービスし
ます、って言われて」
 言いながらも、二人でキャベツの山を突き崩していく。キャベツは本当に見
事な千切り状態で…甘い。
「これにソースで、充分美味しいでしょ」
「はい」
「はい、生姜焼き定食2つです」
 頷いたところで、そう声が掛った。

 生姜焼き定食も、やはり美味しかった。

「結構、穴場でしょ?」
 お勘定は割り勘……と言ったのだけれども、日本酒の分は諸橋さんが頑とし
て譲ってはくれず、結局彼女に払わせてしまった。
 生酒……もう一本、追加したのは私のせいでもあるのに。
『あらっ。美人にお酌してもらっただけで、あたし元取ったわよ』
 いつも一人で飲むもん、と笑って言われてしまうと……言葉が無い。
「はい」
「千切りキャベツ美味しいし」
「本当に」
「……っても、それって、聞くだけだとさ、何だかとことん貧乏くさいね」
「え?」
「だって」
 ころころと、笑いを含ませながら。
「給料日に千切りキャベツ食べましたーって」

 ……言われてみれば、そうである。
 つられて笑い出すと、諸橋さんもまた笑った。

「それに店員さんが、また美形で」
「……え?」
「え?」
 進めかけた足を、ぱたりと止めて諸橋さんが振りかえる。
「気がつかなかった?」

 店員さん。
 …………どんな人だったろう?

 しばし、立ち止まって思いだそう……として…………
 ぷっと吹き出す声に、遮られた。
「あーやだやだっ」
 ころころと、諸橋さんが笑う。
「聞かせてやりたいよね、斧淵さんに向ってああのこうの言う連中にさ」
「え?」
「斧淵さんってば、美形の店員さんの顔さえ覚えていない人なんですよ、まし
て同じ職場のたまーにしか顔を合わせない人をどやって覚えますかってさ」
 呆然としながらも、その言葉のどこかがひどく荒々しいことは聞き取れた。
 だから……本当なのだろうと思った。
「……あの……」
「気がついてなかった?」
 すとん、と。
 気がつくと、諸橋さんはこちらを見ている。
 恐いような、目で。
「……はい」
 そう言うと、彼女はほんの少し黙ったままこちらを見ていた。
 そして……最後に、にっと笑った。
「気がつかないなら、それに越したことは無いわね」
 そう言うと、さあかえろっか、と、諸橋さんは一つ伸びをした。

 人の世の。
 人の世の錦の糸の、昔から変わらぬこの玄妙怪奇な文様の。

 ……触れるも愚かしき。


「じゃ、また明日ね」
「はい…ありがとうございました」
「ううん、こっちこそ」
 見なれた通りの、右と左に分かれる。
 ばいばい、と手を振って、諸橋さんはそのまま右に行く。
 私は左に行く。

 お給料日に、千切りキャベツ。
 それなりに……味わいは深かった気がするのだけれども、どうだろうか。

解説

ある夏の給料日の風景です。
 いいんです、千切りキャベツでも(なんだかなー)
 実は、店員さんがやはり妖怪なんですが……
 気がつかないですね、雨海も。


連絡先 / ディレクトリルートに戻る / 語り部総本部