冬の日


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冬の日


「しかし、どうにも寒いですな」
 外套の襟を元のとおり寝かしながら三彦は喋った。たった今店に入った
ばかりなので体は寒風の中で冷やされたままである。注文した一杯の茶が
来るのが八鱈に待ち遠しい。席についた三彦は店内を一通り見渡して見た
が、かなみと店長がいるだけでたいして変化のない店内の観察にはすぐに
飽きてしまった。
「店の中にいると、あんまり感じないけどね…」
「お外、すっごく寒かったよ」
「全くだ。このぶんだと今日あたり初雪かもしれんな」
「いや、それは無いよ」
 店長が湯飲みをテーブルに置いた。三彦はすぐに手を伸ばしたが、しば
らくはその暖かみで冷たくなった指先を暖め、同時に中の茶を飲める温度
まで冷やす。白い湯気がいかにも旨そうである。
「今日は降水確率0%。雨がふらなきゃ雪も無いよ」
 店長は急須の茶を捨て、中にさっと水を通している。一杯で茶葉を捨て
たことなどないので、おそらくは出がらしの葉を使ったんだろう。尤もた
だなんだから文句は言えないが。
 店内には静かな音楽がながれている。そろそろクリスマスだというのに
クリスマスソングの一つも流せばいいとは思うが、この慣れ親しんだ音楽
も悪くはない。茶を一口含んで、三彦はそう考えた。
 かなみが来ているのは珍しい。そして、三彦のほかには客が一人も来て
いないというのはもっと珍しい。いつもはいるだけで騒がしくなる客も、
いなければいないで何か鋲が抜けたみたいでものさみしい。
 三彦は朝からなにも食べていなかったことを思い出した。外の寒さは空
腹を忘れさせるのには十分だったが、一杯の茶は休止していた胃の活動を
再び再開させたものらしい。三彦は財布を取り出し、小銭入れの中を覗き
こんだ。硬貨の枚数を数えるが、一円と五円が邪魔になってよく解らない。
百円かと思えば一円であったり、十円かと思えば五円であったり、数える
のが面倒になって結論が出ないままに止めた。
「店長、挟み卵パンと巻き腸詰めパンを」
「…ああ、ハムエッグとソーセージね。その棚にあるよ。えーと、2つで
 百二十円足す百十円で、二百三十円ね」
 三彦は手を伸ばしてハムエッグパンとソーセージを取り、あらかじめ取
っておいたトレイに置いた。小銭入れを空け、百円二枚と十円3枚を引き
出し、カウンタの上に置いた。財布には10円の数がかなり多い様だ。
ハムエッグの方はまだ焼いて間が無いようで、ほのかに暖かい。三彦はど
ちらから食べようか迷った。
「さぶちゃんは、もうがっこう終わったの?」
「うむ。何やら期末試験とやらで、通常より早く帰ることができる様だ。
 試験は今日で終わりであるし、我が軍の者が何名か来ていても面妖しく
 ない筈なのだが」
 三彦はハムエッグの最後の一辺を口に抛りこんだ。ハムエッグパンには
緑茶がよく合う。かなみはする事がないのか、店内をうろうろとしてパン
が並べてあるのを興味深そうに見ている。店長の顔は緩みっぱなしだ。



 外に出て見ると相変わらず風は吹いている。三彦は再び外套の襟を立て、
ポケットから手袋を取り出し、両手に被めた。吹利駅までの長い道のりを
思い出し、余計に寒さが増したような気がした。帽子を目深に被った一人
の紳士とすれ違った。肩をすぼめて、やはり寒そうである。会社帰りのサ
ラリーマンとも思えなかったが、或は何なのだろう。
 道を行く人を見ると、誰も彼も外套にマフラーという重装備である。本
格的な冬の到来。暖冬時代以前の「平年」並の寒さ。上空に居座る寒気団。
三彦はニュースでやっていた天気予報を思い出した。雪が降るかもしれな
いと考え、その考えがつい先程打ち消されたことを思い出して苦笑する。
 駅まではまだ遠い。駅前の本屋に寄ろうかとも考えたが、この時期には
ほとんどの雑誌は立ち読みしてしまっているし、少し余計にあるかなけれ
ばならない事になるので止めた。
 道程半ば位で、自動販売機を発見した。さっと目を通してみると、右端
に紅茶が固まっているのに気がつく。Hotの文字に抗し難い魅力を感じ
る。三彦は財布を取り出し、金を数えて見た。百円硬貨は無かった。十円
硬貨が九枚、五円が一枚、一円が六枚。三彦は紅茶を諦めねばならなかっ
た。Hotに未練を残しつつ去る。
 無いと思うと余計欲しい。財布が寒ければ心も寒い、おまけに体も寒い
で益々寒くなって来た。風を遮るだけでもいい、とにかく早く駅に辿り付
くことだ。自然急ぎ足となっていた。ひときわ風が強く吹いた。風の音が
耳に残る。まだ吹き飛ばされていなかった街路樹の葉が勢いよく宙を舞っ
た。三彦は砂埃を避けつつ急いだ。電車の通過音が聞こえる。ひっきりな
しに行き来する車もどうにも寒そうだ。中の人は暖かいのだろうが。
 一端冷えると何もかも寒く感じてしまうものである。外套すら冷たく感
じられた。実際に冷たかったのかもしれない。
 前の自販機からすぐの所にもう1つ自販機があった。三彦は何気なく並
べられた見本缶を眺めていた。下半分は総てHotが占めているが、上は
総てColdである。この寒い時期、Coldの文字を見るだけでも寒く
なる。視線を前に戻そうとした時、上段の左端に60円という表示を見つ
けた。よくある輸入コーラだ。
 三彦は財布を取り出し、六十円を投じてコーラを買った。
 何故買ったのか自分でもよく解らない。もしかしたら今の自分の持ち金
で買える物があったという事が嬉しかったのかもしれない。取り出し口か
ら缶を引き出した。当然冷たい。Hotのコーラなどはあったら怖いが、
そんなことを解っていながらも三彦はコーラを買った。
 缶を外套のポケットに入れ、再び歩きだした。少し寒さはやわらいだよ
うな気がしていた。



 駅では電車の出た後だった。
 ここ吹利駅のこの時間帯には、停まる電車は20分に1本しか無い。
 三彦は空いている席を見つけて座った。3人用の仕切りの付いた椅子な
ので、肘掛けや主板が非常に冷たく感じる。反対車線に電車がつく。ぞろ
ぞろと出て来る乗客は陸橋を渡ってすぐにこちら側に来る。皆一様に防寒
装備である。三彦はマフラーを忘れたことを後悔していた。
 乗客の波が収まると、辺りはしんとなる。ただ風の音だけが響く。
 何気なく構内に入って来る客を見ていたら、その中に浅井の姿を確認し
た。向こうもこちらを見つけたらしい。
「あ…酒井…、まだいたの」
「うむ、パン屋にて待機していた。貴様はなぜこのような時間に…」
「あんたと同じ」
 見ると、脚が出ているは寒そうだと思った。尤もズボンにしてもたかだ
か薄い布一枚なので大差は無いのだが。顔が少し赤らんでいるのは同じく
寒風にさらされてきたからなのであろう。
「同じ…といっても、貴様、いなかったではないか」
「その後、本屋にいってたの」
 三彦は何か言葉を返そうと思ったが、特に何も無かったので返さなかっ
た。浅井は三彦の隣の席に目をやるが、そこに荷物が置かれているのを見
て、少し躊躇して2つ隣の席に座った。真ん中の席は二人の荷物置き場と
なった訳だ。
「あんた、歩くの疾いからねぇ…」
「帝国軍人として当然だ」
「ん」
 浅井の顔に微笑が入った。
「貴様、すると学校が終わってこのかたずっとパン屋に待機していたとい
 うのか」
「んー、そう…いうことになるかな。だいたい二時間くらいだけど」
「二時間…」三彦は店長とかなみ以外誰もいなかった店内を思い出した。
「貴様、その時は誰かいたのか?」
「…えーと、店長さんとかなみちゃんがいたよ。他には誰もいなかったけ
 ど…。…それがどうしたの?」
「いや…うむ」
 三彦は暫く考えた様子になる。
「…労働でも無いのによく2時間もいてられるな…と」
「いいじゃない、別に…」
 大体の理由は推測が付いていたが、ここでは口に出さなかった。
 浅井の顔が赤く見えたのは寒風の為ばかりでもあるまい。
 風が大きく吹いた。三彦は顔をしかめ、ポケットに手を入れた。その中
にコーラが入っていた事を思い出し、一瞬迷った後に取り出した。ステイ
オンタブを引き上げ、缶をあける。すぐに飲む気になるには缶は冷たすぎ
た。空けたまま、右手で持ったままでいる。
「手に余る愛は、毒だ」唐突に三彦は言った。
「え?」
 三彦はコーラを少し口にした。普段はコーラなどあまり飲まないので、
あまりこの甘い味には馴染みが無い。
「愛ってやつは、なければ辛いがありすぎれば毒になる。愛は全精力を奪
 っていく。頭が変になるほど苦しいが、それも自業自得だ。何かにこだ
 わって心を決められないままうかうかしていたら…身の破滅だ。その兆
 しにさえ気付かないんだから」
 風がまた大きく吹いた。音量はかなりのものだ。再び三彦は顔をしかめ
る。少し倒れかかった外套の襟をしっかりと立て直した。
「…手に終えない愛は、いつだって危険なものだ」
 三彦の表情は変わらない。元々表情の変化には乏しい人間なのだが。
 コーラをさらに口に含む。炭酸の弾ける様子を楽しむ。
「ふふっ」
 三彦は浅井の方を振り向いた。
「…まさかあんたの口からそんな言葉が出るなんて、思っても見なかった。
 軍事用語以外にも喋れる言葉はあるのね」
「俺は文化人だ」
「帝国軍人じゃなかったの?」
「帝国軍人は全員、文化人だ」
「ん」
 構内アナウンスが入った。浅井の乗る電車が来る。三彦はまだ十分近く
待たねばならないのだが。
 浅井は荷物を肩に掛け、席を立った。
「じゃ」
「うむ…」
 2,3歩歩きだした浅井に、三彦は声を掛けた。
「心を決められない…手に終えない愛は人を破滅させる。
 …最後の最後にな」
「ふふっ」
 振り返って、少し微笑を浮かべる。
「頑張るわ」
 浅井の姿は車内に消えた。
 ドアが締まり、列車は動きだす。
 降りた乗客がまた列をなして改札へ向かう。混雑と雑踏の中で三彦は右
手のコーラ缶を眺め、また少し口に含む。
 コーラは不味かった。


SW0002 坂井六郎 95/12/13



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