初雪


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初雪


「じゃ、失礼します」
「うん、また今度お願いね、浅井ちゃん」
 師匠のアトリエから出ると、素子は手を頭の上で組みかるく伸びをした。火
照った体に冷気が心地好い。久々の徹夜で疲れてはいるが、なぜか眠たくはな
い。眠気覚ましを飲んだせいかもしれなかったが、それ以上に気分が高揚して
いるからだろう。
 素子はバッグを肩に掛けなおすと、古ぼけた赤茶の階段を一気にかけ降りた。
 少しでも早く行きたかったから、観楠の待つあの場所に。


 街はもうクリスマス一色だ。店の軒にはツリーが飾られ、街路樹にはイルミ
ネーションのための電灯が取り付けられている。流れて来るBGMはもちろん
クリスマスソング、今は山下達郎のそれが控え目に流れている。
 街を行く人々はまばらで、出て来ている人はそろいもそろって厚手のコート
を羽織っている。例年通りの寒さ。しかし素子の感覚では、暖冬こそ例年通り
の寒さであって、今年のそれは異常な寒さである。夏の間は冬の方がましだと
思っていたが、実際に冬になった今、夏の暑さが恋しい。
 素子は手袋の上から手に熱い息を吐きかけた。手袋の網目をすり抜け、暖か
い息が手を暖める。しかし、かじかんだ手は少し痺れただけで、あいかわらず
冷たく、痛い。
 素子は手袋をはめたままの手をコートのポケットに突っ込むと小走りに通り
を横切った。
 本屋やゲームセンターによって行こうかとも考えたが、今はただ観楠の顔が
見たかった。早く暖まりたかった。


 からん、ころん
 ベーカリーの扉を開くと、そこには当然のように観楠がいる。別にとりたて
て自然でも不自然でもない光景なのだが、なぜだか非常に心が落ち着く。
「あ、素子ちゃん、今日は……」
「今日はお客です、店長」
 観楠が目の前にいて、私に微笑みかけている。それだけでどんな暖房機具よ
りも、体の芯……心から暖かくなっていくように素子には思える。自然に微笑
が浮かんで来る。
 今日はめずらしく常連客の姿が見えなかった。いつもは狭く感じる喫茶に観
楠一人しかいないと、妙に広く感じ、不自然な気さえする。
「あれ?今日はかなみちゃん来てないんですか?」
「望くんと遊びに行ったよ」
 観楠の顔がほんのわずか渋い表情になる。やはり父親として何か思う所があ
るのだろう。娘が少しずつ自分の手から離れて行くのは、寂しい物があるのか
もしれない。でもかなみが観楠の手を離れる事は、無いような気もする。いや、
観楠がかなみから離れられないのかもしれない。
「くすっ」
「ん、どうかした?」
 思わず声に出して笑ってしまった素子を、観楠が不思議そうな顔で眺める。
「いえ、なんでもないです、くすくす」
 観楠は、どうも腑に落ちない、といった表情を浮かべていたが、やがてどう
でも良くなったのようだ。どうせ自分のことだろうと納得したのかもしれない。
「それじゃあ、ご注文をどうぞ」
「うーん。今日の店長のおすすめは?」
「なにかな……いわしパンとししゃもパンかな」
「遠慮しときます」
「皆、そう言うんだよなぁ……おいしいのに」
「くすくす」
「ん、ふふっ」
 観楠が微笑み、素子も微笑む。素子が微笑み、観楠も微笑む。素子の心は暖
かく……熱くなっていった。陳腐かもしれないが、この瞬間の永遠を望んだ。
観楠が私に微笑んでくれれば、他になにもいらないとさえ思えた。
 からん、ころん
「あ、酒井君いらっしゃい」
 不意に扉を開け現れたのは三彦だった。羽織っていたトレンチコートを脱ぎ、
カウンターのストゥールに腰掛ける。
「店長、いつもの奴を頼む」
「はいはい」
 観楠は三彦に「いつもの」を出すため、厨房の中に入っていった。
 ここで煙草を取り出したりすれば絵になるだろうな、などと素子が三彦を眺
めていると、ふいに三彦が素子の方に首を向けた。
「む、浅井も来ていたのか」
「そうよ。酒井も学校終わったってのに、よく来るわね」
「それはお互い様だろう」
 寒空の下から暖房の効いた店内に入って来たせいか、三彦の顔は少し赤らん
でいた。相変わらずの無表情の軍事マニア。しかし今は三彦の顔を見ると、あ
の吹利駅での事がまっさきに、いや、嫌でも思い出される。
「どうかしたか」
「ん、ううん。なんでもない」
 あの時の三彦の台詞、
「手に余る愛は毒だ」
 あれが素子の頭からどうしても離れなかった。あの台詞の真意がどこにあっ
たのか、それは素子にはわからなかった。しかしあの言葉自体に素子にとって
重い意味があった。
 しかし……あの言葉を認める事は素子には出来なかった。認めたくなかった。
この暖かい場所を失うようなことは決して認められなかった。
 素子はこれ以上この事を考えたくなかった。
「む、どこに行くのだ」
 不意に立ち上がり、コートを羽織った素子に三彦がたずねる。
「帰るのよ。店長によろしく言っといて。じゃね」
 素子は扉をくぐり、ベーカリーから離れた。三彦の顔を見ると、自分が惨め
になっていくようなそんな気がしたから。
 頬が、痛かった。



「あ……雪……」
 重く垂れこめた冬の空から、はらはらと今年初めての雪が舞降りて来る。掌
で受け止めると、すぐに溶けて消えてしまう。しかし、その一瞬に見える氷の
結晶が、はかなさも付け加わってか、なんともいとおしく美しく思えた。
「手に余る愛は毒だ」
 三彦の言葉が耳の奥で響いている。素子自身もわかっていることだ。報われ
ない愛、かなわぬ恋に固執していても、自分自身に枷をはめる結果にしかなら
ないことは。そう、報われない愛、かなわぬ恋だと認めたくないばかりに。
 でも、……と素子は思う。この愛は報われない、この恋はかなわない、それ
が解っていても、人にはその愛や恋を捨ててしまうことなど−−人を好きにな
ることが自分の意志ではどうにもならないのと同じように−−できないのでは
ないか。
 あきらめたと思っていても、本当には−−あきらめてしまえば、その後にす
る愛や恋が偽りの物に思えてしまうから−−あきらめきれないのではないか。
 赤や茶の木の葉が風にあおられ、空を舞う。風は本当に冷たい。ぴんと張っ
た冬の大気が、頬を赤く染めていく。
 もし、あの暖かい場所のために自分の意志でそれを放棄することができたと
しても、恋は誰にもあきらめきれない。それのためにこの寒空の下、あの暖か
い場所を抜け出すことも素子にはできはしない。だから、……もう少し夢を見
ていようと素子は思う。もし三彦の言う通りだとしても、希望は−−たとえそ
れが盲目の希望だとしても−−捨てない。私はいつも自分らしく、夢を見てい
こうと。
「私……この恋だけはあきらめない……今の場所は壊さない……」
 上を向いた素子の顔を、初雪が優しく濡らしていった。



浅野砂沙美



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