小説『かくも図り難き日常』


目次



小説『かくも図り難き日常』

 エピソードとして書かれたんでまさにスケッチ的ではあります。
 Invisible Tree氏の作。


本文

 いつものベーカリー楠。いつもの一番角の邪魔にならない席で美樹は大量の
本を抱え込んでいる。
「あ、コーヒーお代わり」
 美樹は、気配でウェイトレスの素子が近づいてきたのだと思い、追加注文を
出した。
 そのあいだも、「一従軍兵士の見たイタリア戦争」から目を離すことはない。
 声が聞こえたので、返事だろうと思って、再集中する。
 何か物音がした。と、同時に何かが額に当たる。
 美樹は軽く眉をしかめるだけで、やはり、本から目を離しはしない。
 肩が凝っている。本を保持していた左手を開放するために、右手に、ハード
カバーのその本を移動する。
 行間を追いながら、左手で、右肩を軽くほぐす。
 ふと、麻樹がいたらな、と思う。妹の肩もみは絶品なのだ。
 右手だけで、ページをめくる。コーヒーカップに手を伸ばす。
 心地よい重み。コーヒーの芳香が鼻腔を擽る。
 少しすするように飲む。まだ熱い。
 煎れ立てのコーヒーは何杯飲んでも良い。
 カップをテーブルに置き、左手で本を保持、
 右手でページをめくるという、体勢に戻る。
 次の本。また次の本。
 心地よい目の疲れに、少し瞼をこする。
 気がつくと他に客はいなくなっている。
 背にしているガラスの外、吹利商店街のアーケードに明かりが灯っている。
 空はもう暗い。
「美樹さん?」
「はい?」
「もう閉店時間なんですけど」
「おや、もうそんな時間ですか。いい加減帰らなくては。
 それじゃ、コーヒー代、と、パン代」
「あ、パンは試作品ですからサービスで良いですよ」
「なら、ありがたく」
「どうでした? 大根おろしパンは?」
「辛みがもうちょっと効いてたら良いかもしれませんね。あ、それじゃ」
 ベーカリー楠は、心地よい空間だ。きっと明日も来るだろう。
 アーケードの天井を見ながら、駅への道を大股に歩く。
 額に痛みを感じて、手をやると、少し切れて、血がにじんでいる。
 なんだろう…………まぁ、良いか。
 月が、ビルの影から少し顔を出した。



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