小説『真鍮のドアベル』


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小説『真鍮のドアベル』

 真鍮のドアベルをからんと鳴らして素子が店内に入った。すぐ後ろに三郎が
続く。二人は学校の制服を着ていた。火曜日の午後だった。
 大輔はもう席についていた。
「いらっしゃい」と観楠が喋ると同時に素子は大輔に寄り、「仕事のほうは大
丈夫なんですか」と耳打ち。三郎は手近のハムエッグパンを取って席に座るや
その半分までを一気に口中に抛りこんだ。
 大輔は何も返事をせずただ微笑していた。けどそれは取り方によっては苦笑
ともとれる。三郎は寧ろ大輔の笑いには苦笑の匂いを多くかぎ取った。勿論そ
れは間違ってはいなかった。今頃編集担当の某氏が大捜査を行っているであろ
うの事は素子にもよく解っていた。からそれ以上問うのをやめて席についた。
 少しのラグタイムはあったが店長には「こんにちは」と返事を返しておき、
それから何か言おうとし、それを呑み込んで席を立った。
「店長さん、お茶、煎れさせて下さい」
 とここではじめて観楠の方へと顔を向けたのである。バイトが長かったから
この顔は見慣れているし、この動作も何回も繰り返してきたもののはずなのに
これをやられるたび観楠はどきりとさせられる。おおまかな分類では驚きとい
う感情に属するどきりはしかしこれでなかなか意味として深いものを持ってい
る。それが何かを考えたことは一度や二度ではなかった。が結論は出ない。あ
るいは出ないと同じ状況であるという方が正しいかも。
 必然生返事を返して観楠はカウンターの内側に入って来た素子にスペースを
提供するため自分は壁に寄り、脇にあった急須を渡してやる。
「浅井ぃ、茶ぁ」と三郎は少し緩りめに喋る。
「あ、ついでにおねがい」とこれは大輔。
 三郎にははいはいと適当に返事をしながら茶の缶に匙をいれる。
 三つのティーカップと急須を席に持って行き、順に注いだ。もちろん最後尾
となった三郎のカップには半分がたほども入っていない。でも本人は「ベスト
ドロップだけけけけけけけ」と(良く解らないが)喜んでいるのでまあこれは抛っ
ておいても差し支えは無い。素子は自分のカップを持ってカウンターの中に戻
り、またカップ一杯分の湯を急須に足した。
「素子ちゃん、最近どしてる?」
「え?」
「あ……だから、勉強のほう、その」
「あ……ああ、まあ、良いです」
「良いもんか。浅井ぃおれより前回模試の英語悪かったじゃねーか」三郎が笑っ
て口を挟んだ。「確か偏差値はえ〜と」
「数学、欠点取っといて何言う」素子の返答。
「……三郎君、欠点あるの?」と、観楠は訊いた。
「日本国成長の阻害点若しくは現代受験教育の大いなる弊害、数学に於いて」
「そ……そうなの」
「植木、前回模試で確か二百点中四十五点。学年最低だったっけ」
「正にその通り!」三郎は胸を張った。
「大馬鹿者」
「……その模試って、いつあったの?」観楠がややためらいがちに訊く。三郎
が答えていう「模試っていっても、学内のやつ。これ、一昨日あったんだけど、
今日いきなり結果でてやがんの」
「あ、ああ、一昨日。そう」ここで一寸区切る「そうだったんだ」
 観楠が良く解らない表情を出した。その表情には笑いの要素が入っていたが
それは3割の配分も持ち得ていなかった。
 三郎は観楠の表情を解しかねた。から着席のまま大輔を伺った。ふと気がつ
くと素子も大輔のほうを伺っている。
 表情の謎はしかし、呆気なく消し飛んだ。
「店長さんね、浅井さんが店に来てくれないから困ってんの」
「だ大輔さん。いや、その」
「で、来てくれなかった原因、テスト勉強だと解って安心、してんでしょ」
「い、いや、まあ、そういうわけでは」観楠は素子のほうをちらと見た「そりゃ
来てくれれば嬉しいけど。ま、その、何」
 観楠がつまると、誰も喋らなくなった。
 素子はこうなると喋れないし、三郎はよっぽど「この数日の浅井の行動たる
や云々」を釈りたいのを我慢してるし、大輔はにこにこしており、観楠は詰っ
ている。
 唐突に大輔が顔を上げる。
「そうそう店長さん、さっき焼き始めたパン、そろそろ時間なんじゃないです
か」いわれて観楠、オーブンを見る。たしかにもう秒だ。
「あ、本当だ……」
 と言葉を残して、カウンターから奥に消えた。大輔はさらに
「浅井さん、手伝って来たら」
 と。小さい声で返事を残して素子も厨房に消えた。
「……気、利きますね」三郎はにやにやと言った。大輔はそれには答えず、た
だ笑いながらこう言った。
「店長さんもナンだね。はっきりと気持ちきいちゃった方が、お互いすっきり
するのにね」
「ま、部外者としてはお気楽に見てられますな」三郎はけけけけけけ。
「まあ、確かに部外者だからこそ、理知的に冷めて、気楽に見てられるんだろ
うけどね」大輔も笑った。
 三郎はハムエッグパンの残りの半分を食い、ティーカップの茶を飲み干した。
まわりを見渡して、サンドイッチの一切れを棚から取ろうとして、動きが止ま
る。何やら考えている。
 大輔はサンドイッチを2つ取って、1つを三郎のトレイに乗せた。奢りと解
釈して三郎は食った。
「智に働けば角が立つ」三郎は突然につぶやいた。
 大輔は少し顔を上げた。三郎を見る。相変わらずにたにたとして、サンドイッ
チの残り半分を見ている。
 大輔もにやと笑って、言った。
「でも、情に棹させば流されるよ」
 三郎も顔を上げた。
「ま、兎角人の世は面白い」
 部外者2人は、さもおかしそうににやにやとしている。共通認識からくる共
同意識も手伝い、面白さは倍増する。同時に、この面白さの対象を壊してしまっ
てはいけないという認識も部外者二人の間には厳然として有り。
 がたがたとトレイを運びだす音が、奥から聞こえて来る。焼き上がったパン
を持って出て来る、前兆の音。
 真鍮のドアベルが、からんと鳴った。


著作

 阪井六郎氏の作品。



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