小説『深河底流』


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小説『深河底流』

 いー・あーるさんによる花澄の過去の話。1997.4.24に語り部メーリングリ
ストに公開されたもの。


本編

 夢を、見る。
 繰り返し、夢を、見る。

 ふと、揺らぐ足元。閉まったドアの視線の先の、きょとんとした顔。
 延ばした手は届かない。焦って手を見ると、視線の先に手は既に無い。
 足は既に崩れ、さらさらと散って行く。
 声は、出ない。
 待って、と、叫ぼうとした。息が詰まり、口が自分のものではないように重
い。

 何故叫べない。

 答は、既に自分の中にある。

 これは、己の知り得ることではない。


 昔から、変な子供だった、と親たちは言った。
 縁側、すぐ下には石段がある。いつもは一足くらい置いてある靴も、その日
は無かったという。
 縁側で寝ていた筈の子供が、石段の向こうの地面の上で相変わらずぐっすり
眠っていたことを、いまだに憶えているのだ、と母は言う。


 砂がきしむ。
 乾季はもうそろそろ終わりを告げようとしている。が、まだ、この地には雨
が降っていない。
 痛いほどに強い陽射しも、花澄の肌を焼くことはない。
 歩いても歩いても、逃れられない。逃れる術も無い。

 ふと。
 歩みが止まった。

「……どうして?」
 かすれたような声が、それだけを告げた。

 
 ふわりと足を払う風、転ぶ前に体は支えられ、周りの人も異常には気がつかない。
 そこまで気を使っておいて。
 どうして言わなかったのだ、どうして教えてくれなかったのだ、と

 責める言葉は、浮かぶ。
 ただ、それを言う資格は、自分には無い。
 助けたのは向こうの勝手。助けられた自分にはそれを振り払うだけの力も無
い。振り払えば自分も巻き込まれていただけのこと。
 どちらにしろ彼女は救えない。
「……どうして?」
 それでも、問いは繰り返される。
 そして問いは、渦を巻く。


 町角、昼下がり。
 何ということのない午後。何ということのない学校帰り。
 丁度来たバスに、友人は乗り込み、自分は乗り損なった。
 そして、夢が始まった。 


 きし、と音を立てて、足元の砂が崩れる。
 紫の砂、紫の山。本来ならば火傷をするほどに熱せられている筈なのに、足
にはその痛みは感ぜられない。
 現実感の欠落。
 唇を切れるほどに噛み締めて、花澄は歩き続けた。

 扉が閉まる。
 振り返った友人は、ちょっときょとんとしていた。
 当然かもしれない。一緒に乗ったと思った相手が、バスの外で立ち尽くして
いるのだから。
 ただ、それでもそれは、高々バスに乗り損ねたくらいのことだから、彼女は
すぐ、笑顔になって手を振った。口元が「またね」の形に動く。
 それを見つつ、花澄は背中の辺りに冷たいものが溜まってゆくのを感じてい
た。形の無い、ぼんやりとした、しかし確かな不安。
 バスを追って、だから走ろうとした。手足には力が入らず、風が向かい風と
なって引き止める。それでも、そのままのろのろと歩いた。
 二つ目の信号を越えたところで、爆発音が届いた。


 そこから先は、本当に夢のようにゆらゆらと頼りない。
 振り返った瞬間、目を灼いた窓ガラスからの反射光。ざわざわと人が振り返っ
てゆく様。どこからか現れるまだ若い兵士達。高い声で何かを罵るような女の
人。
 振り仰いだ空には、煙が昇っていた。

 テロによるバス爆破。犯人は自爆。
 運が良かったのだ、と友達は言った。本当に良かったね、と泣き崩れた人も
いる。
 その全てが、夢の中のようにぼんやりとしていた。

 そして、その夜から、あの夢を見た。


 砂漠の中で、路をそれる。
 それがどれほど危険かは、花澄もよく知っていた。水も持たず、食料も勿論
手元に無い。自殺行為だといわれることを、自分はしているのだ、と。
 それでも。
 夢が、覚めない。

「……手を放してはくれないんだ」
 それでも流石に、疲れは感じる。ぺたんと座り込んで、花澄は呟いた。
「どうして?」
 日中、影ひとつない場所。風は熱風の筈だし、座っているだけで熱射病にか
かっておかしくない筈なのに。
 すべて、「筈」の一言で終わっている。
「……どうして?」
 真綿で包んで、風一つにも当てないかのように。
「……どうしてっ!」
 守られていると知っていた。何故だろう、何で自分なのだろう、と不思議に
思いもした。本人に何があるわけではなく、ただの幸運のようなものだとも知っ
ていた。
「……どうしてっ……」
 問いは、それ以上には進まない。
 答えは、分かっているから。

 これは、己の知り得ることではない。

『どうすれば、良かったのか』
 何度もそう訊かれた。ざわざわと揺れる葉の音に。台所でひねった蛇口から
ほとばしる水の音に。
『どうすれば、良かったのか』
 彼女を助けたかった。自分と一緒に助けてくれればよかった。
『お前を、助けたかった』
 自分勝手だ。言いかけて、口をつぐんだ。自分が今望んでいることと、
 どれほどの差があるのだ。
 ただ、彼らには自分を助ける力があり、自分には彼女を助ける力が無かった。
 ただそれだけのことに打ちのめされていることを、自分は知っている。

「死ぬつもりはないから、少し、手を緩めてみてくれない?」
 呟くと同時に、風が熱を帯びた。だん、と熱気がぶつかる勢いに、花澄は砂
上に横倒した。
 ああ、こういうことなのだ、と納得した。
 同時に笑いが込み上げてきた。

『どうすれば、良かったのか』
「さあ、わかんない」
 風は既にその熱気を失い、彼女のまわりを取り巻いている。
『では、どうして欲しいのか』
「手を、放して欲しいの」
 返事は、無い。
「今のままでは、全部が上げ底だから。上げ底のまま終わるのは
 口惜しいから」
『四大神の秘蔵っ子』といわれたことがある。そうやって今まで
 丁寧にくるみ込まれて育ってきてしまった。守られていることにすら気付か
ないほど丁寧に。
「これからは、私が強くなりたい」
『何の為に』
「私が、助けることが出来るように」
 返事は、無い。
「手を、放してくれないかな」
『人は脆い』
「知ってる」
『死にたいのか』
「死ぬ気は今のところ無いけど」
 ふわり、と花澄は笑った。
「危険は避けるようにする。妙なことには出来るだけ首を突っ込まない。
 それでもまだ不安?」
『不安』
 即答されて、彼女は一つ、溜息を吐いた。
「それならば、ここで消え失せるのみ」
 しん、と風が止まった。
 呼吸、二つの間。
 そして急に、世界が五感を埋め尽くした。

『手を放そう。手から放とう』
 その声は、慟哭に似ていた。
『だが、目は離さぬ。離す術を持たぬ』
 大地が揺らぐ。
『だから、問え。願え。理全てを曲げても答えようほどに』
 女の声のようにも、男の声のようにも聞こえる声。
『声を待とう。それまでは待とう』
 何よりも確かな約束として。


「でもさ、そこで開き直れないものかね、普通」
「普通じゃなくていいもの」
 胸を張って答えると、野枝実はふうん、と肯定するとも聞き流すともつかな
い声を上げた。
「それにしても、それって御大が馬鹿だよね。友人だけが死んで
 あんたが生き残るなんてことしたら、誰より落ち込むってことわかってない
なんて」
 そのことは、花澄も幾度か考えている。
「分かってたのかもしれない」
 それを糊塗するゆとりさえなかった、と言うことか。
「じゃあ、それだけ花澄が危なかったってことだね」
 すっぱりと、野枝実が言う。咎めるように鬼李が低く鳴いた。
「だって、本当のことじゃない。案外花澄の命運、そこで尽きてたりして」
「お前って奴って、ほんとに」
「いいところつく」
 笑い混じりの声に、鬼李は不本意げに黙った。
 自分の代わりにバスに乗ったのは誰だったのか。身代わりにされたのか。
 それも、もう考えた。
「でも、命運足してくれたんだったら、後は私が貰う」
「何だか勝手なこと言ってるな」
 野枝実がぶつぶつ言う鼻先にグラスを差し出す。はいはい、とお代わりを入
れてくれながら、野枝実は一つ溜息を吐いた。
 と、鬼李が顔を上げた。
『花澄』
「なあに?」
『うんと強くなるといい』
 花澄は黙って、鬼李を見返した。
『うんと強くなって、うんと優しくなって、そして
 いつか自分を許してやれるといい』
「……うん」
 それだけ言って、花澄はグラスの中身を飲み干した。


 夢は、やはり今でも見る。
 友人にあえるのだ、と思うことにしている。

 卑怯なのかもしれない、と自分でも思う。



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