小説『椅子』


目次



小説『椅子』


本編

 4人家族の能義家の食卓には、人間用の椅子が5個、ある。最後の一つは、
従弟のものだった。
 彼が去った後も、何故かどけられることなく置いてある椅子。それは、雅孝
がいつ戻ってきてもいいように準備されている場所なのかもしれない。そう、
能義英人はたまに思う。
 
 行くべき場所もなく、所属する集団もない、そんな一匹狼の従弟が能義家に
やってきたのは、8年前のことだった。他人とどうしても馴染めない、無愛想
な少年だと言うのが第一印象だった。
 だがそれ以上に何か、他の少年達と異なった点があったわけではない。たし
かに、他人の感情にことの他敏感なのは目を引いただろう。しかし後の部分は、
ごく普通の中学生だった。そう思っていない人間の方が多かったが。
 
 あの頃も、能義家には人間以外の家族がいた。
 動物好きな茜が、雛から育てたインコだった。むろん、半分以上は母親が面
倒を見ていたのだが。
 人間と接する時には刺のある表情しか見せない雅孝も、インコを遊ばせてい
る時だけは、年齢相応の穏やかな表情だった。すぐに他人の存在に気がつく雅
孝だったから、滅多に見せる表情ではなかったが。
 そう、引きとられてから半年以上たっても、雅孝は誰にも気を許さなかった。
小学生だった茜にさえ。
 
 それが変わったのは、やはりその年の冬のことだろう。
「ぴーちゃんがいない!」
 茜が、空の篭を片手に泣き声を出していた。猫の額ほどしかない庭に面した、
縁側に置いてあった篭だった。
「……勝手に逃げたんだろ」
 雅孝のぶっきらぼうな言葉に、茜の目に涙が溜り、ぽろぽろこぼれた。
「だって、鍵かけといたのに!」
「壊れてるぜ」
「なおしてくれたってよかったじゃないかぁ!」
「なんで俺がそんなことしなくちゃならないんだよ」
「だぁって!」
「うるせえんだよ、茜は」
「いい加減にしろ、二人とも。お前らが喧嘩してたって、ピーは戻ってこない
ぞ」
「俺はあんな鳥なんかどうだっていいんだ」
 ぶすっとふてくされ、雅孝は家の中に入っていってしまった。英人はため息
をつき、泣きじゃくっている妹の手から、篭を取った。
 猫や犬に襲われたわけではないようだった。勝手に篭の扉を開けて出てしまっ
たのだろう、そう判断した英人は、そこで困惑した。
 逃げた鳥を探す方法など、英人には見当もつかなかった。
「お兄ちゃんは探してくれるよね?」
 妹の信頼がこれほど恨めしかったのも、滅多にないことだった。
「……どこから探そうか」
 言いながら、とにかく篭を下げ、薄暗い冬の住宅街を歩いた。
 むろん、冬の空に紛れてしまったインコ一羽が、そう簡単に見つかるはずも
ない。
 すぐに日が落ち、暗くなった道を妹と連れ立って戻ると、夕食の席に雅孝は
いなかった。
「母さん、雅孝は?」
「いないのよ。あんた達が出ていった後、すぐに出かけちゃったきりなのよね
え」
「……茜、ご飯を食べなさい」
 いつもなら晩酌を始めている父は、今日に限って箸さえ持っていなかった。
「……俺も待つよ、父さん」
「おまえも先に食べなさい、英人。明日は一限から講義だろう」
「大丈夫だよ」
 茜は泣きながら食事を終え、母がその茜を風呂に追いやった後も、父と英人
は黙ってテレビを眺めていた。
 茜が子供部屋に追いやられた後も、3人は黙って待っていた。
 そして従弟が黙って帰ってきたのは、夜中近くになってからのことだった。
「どこに行っていたんだ、雅孝」
 英人の声に、従弟は応えようとしなかった。
 黙ったままでダッフルコートのトグルをかじかんだ手でぎこちなく外し、コー
トの下からマフラーに包んだ何かを出した。
「……」
 突き出されたそれを受けとり、開いてみると、すでに固くなったインコの遺
骸があった。
 外傷はなかったから、凍死したのだろう。抱えてきた雅孝の体温でいくらか
のぬくもりはあったが、しかしすでに死んでいることは明らかだった。
 黙って自分を見つめる3人の視線に、雅孝は黙って肩をすぼめただけだった。
 が、何もいわない3人の視線に、雅孝は伏せていた目を上げた。
「……間に合わなかったんだ」
 ポツリと言い、雅孝はまた目を伏せた。
「ご飯にしましょうね」
 母が言ったのに、従弟が泣きそうな顔でうなずいたのを、英人は忘れられな
かった。
 
 あれから八年。泣き顔の雅孝が座っていた同じ椅子を、猫が陣どっている。
「おいみゃー、そこは俺の場所だ」
 久しぶりに顔を見せた雅孝が、ぬくぬくと丸くなっていた猫を持ち上げて猫
専用椅子に移し替えていた。



解説

 中崎実さんによる、豊中雅孝の過去を、いとこの能義英人の視点から綴った
作品です。
 内容については書く必要もないでしょう。私はこういうのに弱いんです。編
集していて、涙が出ました。



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