小説『沈黙』


目次



小説『沈黙』


 雅孝の様子がおかしい事に気付いたのは、茜だった。
「まーちゃん、この頃ぼんやりしてる」
「重傷だったんだ、仕方がない」
 この間、長谷川から連絡があったときのことを思い出して、英人はそうとだ
け言った。
 ただ判ったのは雅孝が襲われたという事だけで、それ以上のことを聞くこと
はしなかった。
 雅孝が襲われる原因に、英人も心当たりがないわけではない。
 しかし、だからといってその「原因」を排除してしまうわけにもいかない以
上、英人に出来るのは口をつぐんでいることだけだった。
 出張ついでに、雅孝のアパートに様子を見に寄る。
 看病に当たってくれている長谷川によると、まだ、眠っている時間の方が長
いということだった。
「そこまでひどい怪我だったのか」
 改めて言われると、病院に入れた方が良かったのではないかという気もして
くる。
「ああ……それと、精神的なショックだな」
「ショック?」
「……これだけは教えておこう。あいつな、食われかけたんだ」
「食われる?ライオンでも出たか」
「いや、人間だ。発狂していた」
 それ以上の説明は不要だったし、求めなかった。
 ただでさえ鋭敏な感性に、発狂し血に狂った人間に食われそうになったとい
う事が重荷であるのは判る。
 そこで雅孝が低い声を上げ、目を覚ました。
「……起きたか」
「……英人? いつ、来たんだ」
 あまり元気のない声。
「ついさっきだ。……動いていいのか」
「そこまで重傷じゃない……」
 ぎこちない動きを見れば、まだ回復していないことは良く判った。
「じゃあ、俺はこれで」
「すまんな、長谷川」
 のっそりと長谷川が立ち去った後、英人は狭い台所にある小さな冷蔵庫を開
けた。
 なにかしら、食べさせた方がいいことは判っている。
 が、雅孝は英人の作った雑炊に、ほとんど手を付けなかった。
「……悪いな、英人」
「けが人が余分な気を回すなよ。……どうしたんだ?」
「…………駄目だ、何も聞こえない」
 しばらく目を閉じ、何かに耳を傾けていた雅孝が、ぽつりと言った。
「…………それが俺の住んでる世界なんだよ、雅孝」
 事情を理解し、英人はそうとだけ、言った。


逍遥

 英人が自分の力について知っていたことは、別に驚くようなことではなかっ
た。
 驚いたのは、自分の脆さだった。
 この間の一件以来、持っていた全能力を精神空間のガードに回してしまって
いる。
 無意識にやっていることだろう、というのが英人の意見だった。危機に際し
て、本能的に自分の精神を護っているのだろうと。
 たしかに、完全に発狂し、自分を喰いたいという食欲だけで向かってくる相
手の精神に触れることは、これ以上にない苦痛だった。
 長時間触れていれば、こちらも発狂しかねなかっただろう。
 しかしシールドの中から見る世界は、存在感の薄い世界だった。
 生命があれば必ず感じられる音のないざわめきの、全くない世界。
 静かだ、と思う。
 静かすぎる。全てが姿を持ちながら、幻のように存在感だけを失った世界。
 なんとなく、苦痛だった。
 あてもなく吹利を後にしたのも、そのせいだったのかも知れない。
 出かけることを教えたのは、英人と長谷川、それに矢部の三人だけだった。
 もっとも、矢部は出かけるときに吹利駅で出くわしたから教えただけだった
が。
「まあ、いいけどね。……ちゃんと戻って来るんだよ」
 そう言って肩をすくめ、矢部は豊中の傷ついていない肩を叩いた。
 一瞬、何かが流れこんで来るような感覚はあったのだが、やはり思考は読め
なかった。
 その事を思い出して、一生、このままの世界に暮らすのはごめんだな、とふ
と思う。
 考えながら窓の外を見ると、そこはすでに夜の闇の中だった。
 いつもなら穏やかな眠りを約束してくれる優しい夜も、今はただ光を失った
だけの世界にしか見えない。
 ただ、空虚なだけの暗がりの世界。いつもなら感じられる心地よい静けさが、
今は全く消滅している。
 闇を恐れる人間が多い理由が、なんとなく判ったような気がした。
 車窓の外で、色づきはじめた木の葉が濡れていた。
 
 甲高い鉄のこすれる音が、闇に響く。
 JR釜石線の中は、ほとんど人がいなかった。
 もう、ずいぶん夜も更けている。東北本線を取り逃がす可能性は、極限まで
上昇していた。
「電車、停まってるねえ」
 呑気な声は、いくつか離れたボックスから響いてきた。
「そうですねえ。どうしたんでしょうか」
「えー、このまま停まっちゃうのぉ、それってやだぴー」
 別に心配しているようでもない、呑気な声の三連打だった。
「うーん、……あ、三鷹さん三鷹さん」
「はいなんでしょうか」
「火花散ってるよ、ほら。北沢も、ほらほらあれ」
「どれどれ……あ、ほんとだー」
 車窓の外でスパークする蒼い光。
 声につられて、豊中も窓を開けた。
 雨に濡れて落ちた木の葉に、列車の車輪がスリップして、火花を散らせてい
た。車掌らしい人影が、砂を撒いているのも見える。
「写真とっとこーか」
「いいですねえ、どうせ暇ですし」
「じゃ、わたしが撮るよ」
「えーっ、相田君も入んなよ」
「じゃあ誰が撮るわけ?」
「あそこに人いるじゃん」
 がらんとした列車の中に、三人の声だけが響いていた。
 その三人の頼みを引き受けたのも、もしかすると静かな世界に耐えきれなかっ
たせいなのかも知れない。
 請われるままに写真のシャッターを押し、カメラを返した後も、なんとなく
その三人と話していた。
「え、お泊まり先が決まっていないのですか?」
 三人の中で一番スレンダーな女性が、豊中の話を聞いて驚いたように言った。
「まあ、別に当てがあるわけじゃないですから……」
「でも、今の季節に駅で寝ると、確実に風邪引きますよ」
 これはショートカットのボーイッシュな女性。
「え、そうかなあ」
「引くって。夜は冷え込むんだし」
 ちょっとふっくらした感じの女性の言に、ボーイッシュな女性が突っ込む。
「ところで、この辺でまともな宿の取れる街って、あるの?」
 問われて、豊中は首をかしげた。
「さあ……まあ、宿が取れなくてもなんとかなるでしょう」
「宿が取れるとしたら遠野くらいでしょうか」
「遠野ですか」
「そうだ、どうせだからわたし達が泊まる宿で部屋が空いてるかどうか聞いて
みたらどう?まあ、そっちがそれで良ければ、だけど」
「先に電話をかけた方がよろしいと思いますけれど、近くの駅に電話がありま
すかねえ」
「ここにあるよーん」
 ふっくらした女性が、スヌーピーの飾りのついた携帯電話を取り出した。
「相田君のと違って、あたしの携帯だしぃ」
「おおっお金持ち。じゃあ北沢、なんか奢ってくれてもいいよね、社会人なん
だし」
「えーっ、びんぼーな郵政省職員に奢れっていうのぉ」
 言った本人を含めて、三人がこれに笑った。
 感情波が伝わってこない笑いは、ガラス越しに見ているようなもどかしさが
ある。
 が、それでも、その場の何かが豊中の口元をほころばせた。
「それはそうとして、どうなさいます?」
 スレンダーな美人、会話から察するに三鷹という名であるだろう女性が、話
を元に戻した。
「携帯なら俺も持っていますが……そうですね、番号を教えていただけますか」
 せっかくの好意を無にしたくはなかった。
 電話をかけ、宿を確保した後、かなり経ってから列車が動き出す。
 がたんと音を立てて動き出した列車に、全員が一瞬、口をつぐむ。
「なんか黙っちゃったね」
 口を開いたのは、相田だった。
「へんなの」
 北沢が笑う。
「それにしても、災難でしたねえ」
 三鷹が、別に災難でもなさそうな口調で言った。
 車内放送が、濡れ落ち葉による車輪空転が停止の原因であったことを告げる。
「なるほど、ローカル線ですねえ」
 三鷹が、妙な感心の仕方をした。



遠野にて

 翌朝、豊中が起き出したのは、朝食の出来たことを告げる声を聞いてからだっ
た。
 まだ本調子ではないようだった。
 宿を引き払った後、なんとなく駅の方に向かう。
 荷物はショルダーバッグ一つ。
 歩いている豊中に注ぐ陽光は柔らかく、すでに秋のものだった。
 このまま、列車に乗ってしまうのは惜しい気がした。
 
 コインロッカーに荷物を放り込んで、ぶらぶら歩く。
 貸し自転車屋があったが、借りてもどうせまだ、まともに乗れないだろうと
いうことは見当がついた。
 足の傷が治るまで、もうしばらくはかかるだろう。
 観光案内所で簡単な地図をもらい、バスに乗る。
 バスを降りて歩いていく途中、自転車に乗った観光客に追い越された。
 水田の中の道を歩いて、小さな橋を渡る。
 ささやかな流れが橋の下を通っていた。
 バスに乗るらしい団体観光客が、豊中の行く手から現れて、すれ違っていく。
 彼らが通り過ぎた後には、静寂が残っていた。
 どこかで鳥が鳴いているような声がしていた。
 稲の株が残るだけの水田を横目に見ながら、舗装されていない道を通る。
 いくつもの足跡だけが、ここを通った人間の存在を教えていた。
 人気のない水辺に漂う音は幽かで、淵を流れる水は澄んでいた。
 淵の傍らにベンチを見つけ、痛む足を休めるために腰を下ろす。
 そしてそのまま、眠ってしまったようだった。

 水辺に影を作っていた椎の木から、木漏れ日が落ちていた。
 昼下がりの太陽だった。
 時計は一時をさしている。ずいぶんのんびり寝ていたことに気付き、豊中は
苦笑した。
 立ち上がって、元来た道を戻る。
 朝に比べると黄色みの強くなった光が、向こうに見える山を温かく照らして
いた。
 朽ちた白木の鳥居を横目に、バス停に向かった。


旧友

 新花巻で東北新幹線に乗り換えるのはやめて、花巻で鈍行列車に乗り換えた
のに、特に理由はなかった。
 強いて言えば、新幹線のスピードが今は神経にさわると言うことだけが理由
だった。
 一関で仙台行きの登り列車に乗ったときは、すでに日は暮れていた。
 別に急ぐ旅でもない。
 そう思っていたら、黒磯で電車が無くなった。
 22:36着の下り列車から吐き出された客が、狭い待合い室でぼんやりしていた
豊中の前を過ぎて行く。
「豊中?」
 その中から声がしたのは、ほんの偶然だったろう。
 顔を上げると、高校時代の悪友がいた。
「…………佐々木?」
「一体どうしたんだ?…………と、そんなことよりも上り列車、もうないぞ」
「ああ……そうだな」
「そうだなってお前、宿はどーすんだ。俺のところ、泊まるか?」
「そうか……いいのか」
「お前はいつでも歓迎だよ。来いよ」
 背中を叩かれて、思わず声を上げそうになった。
 それに、佐々木も気がついたらしい。
「……怪我か」
「事故でな」
 それ以上は説明できなかった。
 佐々木も、口ごもるような豊中の物言いに、それ以上を追求しようとしなかっ
た。
 駅前のロータリーに、暗い色の乗用車が止まっている。
「乗れよ」
 運転席にいる女性と言葉を交わした後、佐々木が言った。
 運転していたのは、佐々木の姉だった。
 佐々木が宇都宮の大学に入学した後、父親の転勤で、佐々木家はこちらに一
家揃って引っ越したのだった。
「疲れてるみたいね」
 ミラー越しに、佐々木の姉が言った。
「事故ってからまだいくらも経ってないな?」
「ああ……半月も経ってないな、そういえば」
「まさか、病院を脱走したんじゃないだろうな」
「いくら俺でも、それはしないよ」
 佐々木のからかうような声に、豊中は微笑した。
 車は静まり返った街を抜け、新興住宅地に入る。
 不意に訪れた豊中に、佐々木の家族は別に驚いてもいなかった。
「あら、いらっしゃい」
 小太りな佐々木の母親は、豊中の顔を見るなりそう言っただけだった。
「いきなり押しかけてすみません」
「大丈夫よ、豊中君。ほら、荷物置いてきて。英昭、あんたの部屋に豊中君の
荷物入れたげなさい」
「わかってるよ」
 佐々木が階段の上を指さしたので、ついて上った。
 万年着込んでいるジャケットを脱いでいる間に、佐々木は先に階下に戻る。
 夕食はすでに仙台ですませていると伝えたので、茶と茶菓子を勧められた。
 そのあと風呂をすませ、佐々木の部屋に引き取る。
 佐々木が寝息を立て始めても、豊中は何故か寝付けなかった。
 いや、少しは眠ったらしい。
 化け物に食いつかれる夢を見て、飛び起きると夜中の二時だった。
「…………どーした、すごい声だして」
「…………なんでもない。起こしたな、すまん」
「なんでもないならいいさ」
 寝惚けながら佐々木は言い、また大の字になって寝てしまった。
 頭の下で両手を組んで、豊中は天井を眺め続けていたが、やがて目を閉じた。
 そんな自分を黙って見つめている、相棒の視線は相変わらずそこにあった。


秋雁

 東京の喧騒を離れて、列車は走り続けた。
 夏休みシーズンを外しているせいか、「ムーンライトながら」も空席が見え
た。
 かつての大垣夜行。名前は変わっても、やはり夜行列車であることは変わら
ない。
 深夜一時過ぎ、小田原を通過したあたりで、車内は静まり返っていた。
 外気で冷やされた窓ガラスに一面、露がついていた。
 窓の外は、相変わらず無機質な闇が広がっている。
 露の向こうでぼんやりと光りながら過ぎて行く明かりを、豊中はなんとなく
眺めていた。
 吹利に戻るつもりになった理由は、あまり思いつかなかった。
 還るべき場所というわけではないし、待っている誰かがいるわけでもない。
 強いて言えば大学くらいだが、それも何故「今」戻るのか、という理由を与
えるには弱すぎる理由だった。
 あるいは、考えるほどのこともないのかも知れない。
 そう思い直して、豊中は窓から目をそらし、足下の紙袋に視線を移した。
 能義家に顔を出すことはしなかったのだが、英人が昼休みを利用して届けて
くれた、叔母の心尽くしのものが入っていた。
「茜にそんな面は見せたくないか」
 英人がぼそっともらした言葉が、ふと思い出された。
 たしかに、能義家に行かなかった理由はその辺にあるのだろう。
「治ったら、顔を出せ。…………心配はしているんだからな」
 それだけ言って、英人は職場に戻っていった。
 紙袋の中には、叔母のメッセージも入っていた。
 英人は、豊中の怪我を事故だと説明したらしい。
 回復期の今が一番大事な時期だから、と書かれた紙は、薄手のセーターに挟
まっていた。
 豊中にはあまり似合いそうもない生成のそれを見て、豊中は微かに苦笑し、
少し考えてからジャケットを脱ぐと、セーターを肩に羽織った。



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