某日。
カーテンを半開きにした花澄の部屋に、日の光はゆったりと流れ込んでいる。
光の軌跡の中程にてんと座り込んで、譲羽が本を開いている。
本といっても、ただの本ではない。恐らく譲羽本人よりも重いだろう、本。
広辞苑。
盛り上がったページに肘をついて、譲羽は何やら読んでいるようである。
時折、本からはいずり降りて、傍らに置いたA5版のノートを開き、
鉛筆を両手でしっかと握り、何やら書き込んでいる。
そして、やはり時折そおっとページの端を持ち上げ、やはりそおっと
ページをめくる。
その、繰り返し。
「何だゆずの奴、まだ飽きずにやってるのか」
「……言い出したのは兄…店長でしょうに」
睨んだ目を軽く無視して。
「で、どんな言葉選んでるんだ?」
「結構面白い言葉選んでる。水天一碧、とか、濃染月とか、五虫とか」
「へえ」
「ゆずは一所懸命なんだから。本人に向かって『飽きずにやってる』なんて
絶対言わないでよ」
「そりゃ言わないよ」
そこまで言うと、今度は店長のほうが花澄を見やった。
「でも、一所懸命になった原因は、お前だろう」
「それはそうかもしれないけど……あ、いらっしゃいませ」
いまいち不毛な兄妹喧嘩未満を、花澄はその一言で打ち切った。
で、原因は何かというと。
『ことのはってなあに?』
……これだったりする。
「ことのは?」
『ことのはってなあに?』
夜十時過ぎ。瑞鶴閉店後、片付けを済ませて、の帰り道。
流石にこの時刻だと、譲羽が袋から出て花澄の腕の中に移動していても、
見る人もいない。
「ことのは……言の葉?」
『わかんない』
ぢい、と一声あげて、木霊の少女は首を傾げた。
「どこで聞いたの?」
『……わかんない』
おいおい、ってな返事である。
「言の葉、なら、言葉のことだけど?」
『ことのはって、葉っぱって書くの?』
「うん…後ろの字は、そうね」
『何で葉っぱ?』
答えるに困る質問である。
「……そうねえ」
『言葉って、人の話す、ことば、だよね?何で葉っぱ?』
突っ込まれると、尚更わからなくなる問いである。
……少なくとも花澄にとっては。
「それは……何でなのかな」
小首を傾げた花澄を見やって、譲羽もやっぱり小首を傾げる。
二人して考え込みながら、歩いてゆく道を。
さあさあと、風が吹き渡る。
段々と秋の深まる中、風も鋭く尖ってゆく。
昼間のうちに落ちた葉が、風にころころと吹き飛ばされてゆく。
小刻みに跳ねながら。
『あれも』
「ことのは、かな?」
指差した木霊の少女と、抱えた花澄と。
不意に、花澄が笑った。
「ああ、そうね。言の葉は、やっぱり葉っぱよ」
『え?』
「ほら、葉っぱが木から落ちるでしょ」
『うん』
「落ちる前の葉っぱは、口に出す前の言葉」
承前の一句。そんな言葉を思い出す。
「で、落ちてしまった葉っぱは、口に出した後の言葉」
『どうして?』
「一度口から出せば、あとはどこへ行くか分らない」
そして、そのまま朽ちてゆく。
朽ちた後にそのまま消えるか、土へと還るかは……わからない。
『ふうん…』
半分以上は胸中の呟きに消えてしまった花澄の言葉をどこまでわかったのか
譲羽はこっくりと頷いたが、不意に手をぽん、と叩いた。
『ゆず、言の葉増やすの』
「え?」
『ゆずも、言の葉、うんと増やすの』
……唐突は譲羽の特性かもしれない。
「って、何で?」
『ゆず、葉っぱうんと増やすの』
「…うん」
返事の仕様が無くて、取りあえず一つ頷くと、譲羽は金色の目で
花澄を見上げた。
『あのね、花澄』
「なあに?」
『ゆずの木ね、大きかったの』
ゆずの木。
譲羽が、譲羽という名を持たなかった頃のこと。
ほんの、つい最近までのこと……
花澄は小さく息を呑む。それを、ほんの少し心配そうに見上げて、譲羽は
しがみついた手に力を入れた。
『ゆずの木ね、大きかったの。だからゆずもね、大きな木になるの』
「え?」
『ゆずもね、言の葉うんと増えて、うんと大きな木になるの』
大きな金の目が、花澄の目を捕らえて離さない。
『ゆずもね、言の葉の繁る木になるの』
ひとが、言の葉を繁らせる木であるのならば。
「……そうね」
ふわん、と花澄は笑って、譲羽を高くさし上げた。
「ゆずは、言霊の幸う国の子、だものね」
言霊の幸う国の、深い緑が育んだ子供……木霊。
『ゆずも、大きな木になる、かな?』
「なるわよ、必ず」
笑いながら言うと、木霊の少女もぱたぱた手足を動かして笑う。
「ね、ゆず」
『なあに?』
「今度いつか、ゆずの木、見てみたいな、私も」
『……ほんと?』
「本当に」
『……帰れって、言わない?』
心配そうに聞かれて、花澄は苦笑した。
「言わない」
安心したように、木霊がぢい、と鳴いた。
『したら…教えたげるね、花澄』
「ありがとう」
で。
「言の葉?ああ、要は、語彙を増やしたい訳だな?」
「ぢい」
「なら、辞書引け。面白そうな言葉は抜書きしていくと、語彙なんてそのうち
増える」
「ぢい」
いつもは喧嘩の相手である瑞鶴店長の言葉を、神妙に聞く譲羽である。
「辞書…何がいいかな、やっぱり広辞苑かな」
「ぢ?」
「……お兄ちゃん、うち、広辞苑ないんだけど」
湯気の立つ鍋をテーブルに置きながら、花澄が口を挟む。
「じゃ、買え」
「……高いんですけど」
「娘の教育費と思えば安いもんだ。何だったら給料から天引きしとくぞ」
「…………」
溜息と一緒に、花澄は取り箸を差し出した。
「ただいま」
『おかえりなさいっ』
ぢいぢいと手を振り回して迎えてくれる木霊の少女の頭を撫でる。
「どれくらい溜まったの?」
『こんだけ』
大得意で見せてくれたノートには、一ページあたり二、三個の単語が
書き付けられている。のたくったような字は、しかし、彼女の体格と
鉛筆の大きさを考えれば上出来の部類に属する。
「へえ…星槎、ねえ……」
「ぢい」
星槎。星の海にのり出した筏。
『言の葉、一杯溜まるよね』
「そうね」
ゆっくりと。
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