小説035『葉桜の下で』


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小説035『葉桜の下で』


本文

 春の陽射しが、照りつけている。鳥の声が耳を和らげる。視線で
追う。黒白のくっきりした奇麗な小鳥。
 こういう時に鳥の名を憶えておけばよかったと思うのだ。
 河原脇にかたちだけ造成された遊歩道。かたちだけだから、逆に
自然が残っている。
 葉桜になりかかった桜並木から時折花弁が風に紛れて舞っていく。
足元には踏みしだかれた桜の花びら。日一日と濃くなっていく緑。
 関西に来てから、7回目の春だ。
 同期に入学した連中の大半は卒業式を迎えて去っていった。
 そしてわたしは……
 天蓋を振り仰ぐ。白濁したような青空に、航空機が飛行機雲を曳
きながら二条の測地線を描いてゆく。先端部に眼を凝らす。四発機。
おそらくは民間機。
 犬連れの若い女性が、ジョギングウェア姿でわたしとわたしの自
転車の脇を駆けていく。ずっと向こうで子供たちが水遊びをしてい
るのが見える。
 水辺へと降りる階段。その階段脇に自転車を止める。Gジャンを
掴む。コンクリの階段を一歩一歩踏みしめるようにして下る。
 河原に生えているのはちょっと伸びすぎた菜の花。そして中州に
も数本。
 ハモニカの音。わたしは耳を澄ます。あまり上手ではない旋律。
練習中なのか、何度もつっかえては少し前からやり直している。
 平らそうな所にGジャンを敷く。その上に腰を下ろす。陽射しが
眩しすぎて、ちょうど良い。直射日光に飢えている身体には、この
ぐらいの自然光が必要だ。
 蟻が、何か糸のような物を喰わえて運んでいる。体長の数倍もあ
るその物体は何度も何度も周りの草などにつっかえる。
 ゴロリと寝そべる。天空と、堤防に生えている桜の枝。そして、
小さな歩行者橋しか視界には入ってこない。
 さっきから聞こえているハモニカの音。ふと、それが「ふるさと」
のメロディーであることに気付く。
 一陣の風が吹く。葉桜から更に花びらが舞い散る。
 枕になる物がなくて、首の心地が悪い。
 わたしは、肘を突いて起き上がる。
 桜の花びらが水面を滑るように流れ去る。この桜はたぶんソメイ
ヨシノ。日本でもっともありふれた、桜。一斉に咲き、一斉に散る。
 両親の、そして親族会議に集まった親戚一同の顔が一瞬だけ脳裏
をよぎる。
 それは、少しだけ苦痛。心の臓に突き刺さる言葉。
「兄貴、いつまで学生やってるつもりだ?」
 吹利で就職先を見つけた麻樹の顔。
 わたしはソメイヨシノではないのだろうな。
 そんな事を思っている。
 手頃な石を見つけて寝転がったときにちょうどよくなるような位
置に置く。もう一度寝そべる。今度は、石が頭の後ろにきっちりと
当たる。思惑通りの石枕。
 少しだけ、瞼を降ろす。瞼を閉じている方が、陽光を身体で感じ
られる。
 秋に病気で倒れてから、研究室にもあまり顔を出していない。
 吹利に行く積極的な用事がなくなり、自然、吹利の連中からも少
し遠ざかっている。
 連中、わたしが休学したって言ったらどんな顔をするだろうか?
 いろんな事をやっている連中だ。きっと、あるがままに受け止め
てくれるに違いない。そういう風に、わたしは連中を理解している。
 それに、休学のことだったら、わたしより先に麻樹の口から連中
に伝わっている可能性も大きいか。そのことに思い至って、しばら
くベーカリーに顔を出していなかったことをばかばかしく思う。
 そうか、こだわっていたのは自分自身だったか。
 わたしは自分自身に吹き出しそうになる。
 物にこだわらないふりは出来ても、本当にこだわらないでいるこ
とは難しいものだ。
 さっきから聞こえているハモニカが、もう一度、「ふるさと」の
最初のフレーズにまで戻る。
 高校生の時の記憶を辿る。唇をそのメロディーに合わせる。慎重
にハモニカに合わせて口笛を吹き始める。
「ふるさと」低音部。
 わたしの故郷は、どこなんだろうな……
 今はまだ、帰りたくない故郷を思って口笛を続ける。
 今は遠き故郷 帰り難き故郷……
 ハモニカと、口笛の稚拙なハーモニーはゆっくりと終わる。
 なれない口笛に、少しだけ酸欠気味になっている。このまま眠り
に落ちそうだと思った瞬間に、頭上を影が覆う。瞼を開ける。
 少女。左手に、ハモニカを。右手にハモニカ入れを。
 寝そべったままでは失礼に当たるかと思って、起き上がる。
「この辺りの方なんですか?」
 少女が声をかけてくる。
「えぇ、すぐそこに下宿している大学生です」
 わたしは思わず笑みを浮かべながら答えている。
「ハモニカ、聴いて下さって、ありがとうございました」
 少女がはにかんだように、頭を下げる。少女の髪に桜の花びらが
一枚くっ付いている。
 それを指摘するべきかどうか一瞬迷っているうちに、少女はその
まま簡単に手を振って、走り去っていってしまった。
 わたしは何となく取り残されたように、少女が居た空間に小さく
手を振り直す。
 ふみさんたちと、部屋で桜ティーでも頂こうか。
 そう思いつく。
 立ち上がって、Gジャンを拾い上げる。砂をはたく。コンクリの
階段を今度は一段とばしで昇る。自転車の前かごに、Gジャンをぐ
るりと巻いて突っ込む。
 自転車のストッパーを外そうとして、ふと視線を止める。さっき
は気付いていなかった、まだ新しい小さな石地蔵。頭の上に桜の花
びらが乗っかっている。そして、その前には花束とハモニカ。
 わたしは、少しだけ複雑な笑みを浮かべている。
「もしかしたら、ですね」
 そう呟いて、頭の上の花びらをちょいと除けてやる。それから、
自転車のストッパーを外して、再び歩き始める。
 明日は、吹利の研究室にも顔を出そう。そう考えている。そして
その帰りに、グリーングラスで足りなくなった香茶を補充しなくて
は。最後はいつものコース、ベーカリー楠。コーヒーでも飲みなが
ら、ベーカリーの店長と常連達にこの話でもしてやろうか。
 わたしは足を止めないまま、もう一度葉桜を大きく振り仰いだ。

                            Fin.


時系列

 1998年4月某日


解説

 身体を壊して休学を決めたばかりの美樹とハモニカを練習する少女と。しば
らく休んでいたなにかが動き出す予感と共に。



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