暗い淵の中からゆっくりと浮かび上がってくる感覚。
悪夢からの解放。自分が誰かを傷つけてしまう悪夢。自分が大切
にしているものが、壊れてゆく悪夢。
だからわたしは、目を開けるとすぐに自分のいる位置を確認する
のだろう。それとも。
床を埋める本。その隙間から覗く濃青のフローリング。微かな雨
音。自分の下宿だ。
故障したままのヴィデオデッキへと視線をやる。午前6時32分。
遅くはない。早くもない。いつも通りの朝。
「おはようございます」
頭上から、声を掛けられる。
「あぁ、おはようございます、ふみさん」
朝の光の中で、ふみさんは眼をこらさないと見えない。
二人の幽霊に朝の挨拶をするようになって、もう何カ月になるの
だろう。頬まで被っている布団を脇にずらして、上半身を起こす。
「おはようございます、琴さん」
見えないが、いる筈の琴さんに挨拶。
「おっはよぉ。ねぇ、美樹。今日も雨だよ」
わたしは、声のする方向へ振り向く。琴さんは、朝は特にみえに
くい。光の射してくる方向にいればなおさら。
首筋の後ろを掻く。開け放したままのベランダ向きの窓。無彩色
の空。涙を流しているベランダの手すり。
「雨ですか……」
書物が濡れることがないのなら、雨もそんなに悪くはないのだが。
「なぁんか、じめっとしてやな感じぃ」
琴さんは雨が嫌いらしい。
「梅雨ですからね。仕方ありませんよ」
ふみさんが取りなす。
「まぁ、そういう季節ですからね」
頭上の物干し竿にかけっぱなしにしている洗濯物の中から長袖の
ワイシャツを一枚引っ張り落とす。半袖のTシャツの上に羽織る。
少し考えて、肘まで袖をまくる。梅雨寒むにも、動いたあとの蒸し
暑さにも対応できるように。
「痛ぅ」
左眉をしかめる。左胸の手術痕が突然に疼き出している。ワイシ
ャツの上から、押さえる。今回は、一番中央の痕。胸郭に開いた三
つの手術痕は天候の不順に不満を漏らすように交互に痛みを訴える。
「大丈夫?」
琴さんの声が耳元でする。
「えぇ……」
わたしは、無理に笑みを作る。卵の宮がこちらをじっと見ている。
「心配はありません。いつもの奴ですから」
痛みが引いていく。鈍く存在感だけ主張し続ける手術痕。
「美樹さん、香草茶が入りましたよ」
台所からふみさんがティーポットとティーカップを運んでくる。
香りが、痛みを和らげる。ユラさんに調合していただいた香草茶。
わたしは昨日履いていたブルージーンズを拾い上げ、足を通す。
ベルトを締める。ベルトに通してある腕時計の位置を調整する。靴
下を履く。
その間に、ふみさんが朝のお茶の用意をしている。今日は一階の
猫達は訪問してこない。自分のあごを撫でる。ザラリとした感触。
お茶のあとに、ひげを剃らなくては。
「はい、美樹さん」
わたしの前に、良い香りを立ち昇らせているティーカップが置か
れる。
「ありがとう」
わたしはふみさんに礼を言う。ふみさんは手際よく、四人前のお
茶を配置する。
「いただきまーす」
琴さんが嬉しそうにお茶を飲む。
わたしも唇を火傷しないようにゆっくりと鶸色の液体を口に含む。
「?」
少し、いつものとは味が違う。口を付ける部分の脇の縁がわずか
に欠けたティーカップを見つめる。香草はいつもの香りだから、ふ
みさんが何かしたのだ。
「水、ですか?」
ふみさんに尋ねている。
「えぇ。先日麻樹さんがもってらっしゃった、伊吹の水で煎れてみ
たんです」
すっきりとした味で入っている。いつもの、下鴨神社の水とはま
たひと味違う。自分の中にその味を表現する言葉が不足しているの
をもどかしく感じる。
「美味しいですね」
結局はそんな言葉しかでない。
雨音が、急に強まる。
「あら」
ふみさんが外を見やる。
ベランダに並んだゴミ袋を雨粒が打つ軽い音。わたしは、最後の
一滴をのどの奥に流し込む。そろそろ七時になる。
目覚まし時計が鳴り出す前にベルのスイッチを切る。椅子に掛け
てあるGジャンの内ポケットから手帳を引っぱり出す。今日の欄を
チェックする。
「今日はどうなさるんですか?」
ふみさんが、お茶の後かたづけをしながら尋ねる。
「今日は、研究室に行ってから大阪の方を廻ってきます」
まず、研究室に行って夏の学会の発表の準備。昼から、紅雀院大
学の屋代助教授に頼まれていた書籍を渡してバイト代を受け取らな
くてはならない。ユラさんの誕生日は来週だから、何を贈るか検討
しなくてはならない。とか言っても、誰に相談したものやら。まぁ、
取りあえず空いた時間をベーカリーで潰しながら考えるとしよう。
夕方から、大阪。神大SF研の中田氏と、次の合同読書会の打ち
合わせをかねて古書市巡り。帰るのは、10時過ぎというところか。
「そうですね。10時過ぎぐらいには帰ると思います」
そう告げながら、ユニットバスへと入る。
鏡の中からは、自分が見つめる。安い安全剃刀を軽く水に湿す。
左手に水をつけてひげの生える部分をなぞる。あごの骨の上の薄い
皮膚。生え掛けの無精ひげ。一度だけ、伸ばしてみたこともあるが、
今は剃っている。五本で百三十八円の安全剃刀の最後の一本。刃の
表面に錆が浮きかかっている。いい加減に、新しいのを買って帰ら
なくては。
剃り味の悪い剃刀をあごに沿って、走らせる。一本一本を切ると
きに引っかかる。下顎骨の縁。喉。もみあげ。上唇の上。
順序よく剃り終えて、コップに水を取る。少量の水を含んで、口
の中全体を湿して洗面台へと吐き捨てる。歯ブラシを、コップの中
に突っ込む。マッチ棒の先ほどの歯磨き粉をつける。歯磨き粉のつ
けすぎは歯の寿命を短くする。磨く。前歯、奥歯、前歯の裏、奥歯
の裏、いつもの手順通りに歯ブラシを動かしていく。もう一度コッ
プから水を含む。口の中をゆすぐ。洗面台へと吐き捨てる。白濁し
た液体。何度か口をゆすいで、コップの中で歯ブラシを洗う。
水道の蛇口をもう一ひねりする。水圧が少々高すぎるので、かな
り微妙な操作で水量がずいぶん変化する。自然と、洗面台の汚れが
流れ落ちる。コップと歯ブラシをゆすぐ。飛沫を上げる水を両手で
掬う。顔を洗う。二度、三度。寝癖にも、水をつけて直して。
タオル掛けに下げっぱなしのバスタオルで顔を拭く。
一応、鏡を見る。いつもながら……我ながら、締まりのない、さ
えない顔だ。まぁ、別に問題があるというわけではないが。
ユニットバスから出て、換気扇以外の電気を切る。
Gジャンを取りあえず羽織る。
使い古した……いい加減に壊れ始めたショルダーバッグを左肩に
掛ける。
狭い玄関で、一つ一つの汚れはもう目立たないほどぼろっちくな
ったスニーカーに両足を突っ込む。コンビニで買った三五〇円傘を
左手で掴む。
「それじゃ、いってきます」
ふみさんと琴さんと卵の宮に告げる。
「いってらっしゃい」
ふみさんが代表して送り出してくれる。
扉を開ける。一歩外に出る。外は雨。スニーカーの紐を結び直し
ているうちに金属製の安っぽい扉は自然に閉まる。
ベルトからポケットの中へと伸びている細い鎖を引っ張る。その
先には鍵セットが付いている。幽霊とぬいぐるみが留守番をしてい
る家でも、一応鍵だけは掛ける。
そして、階段を降りる。
一日が始まる。
(終わり)
1998年6月 小滝ユラの誕生日の前週
いつもと変わらない休学中の美樹の朝。
それでも、何かの予感はあるもので………
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