お腹が鳴った。
だけど、その音を合図に何かが劇的に変化することもない。
お腹の鳴る音は、お腹の鳴る音だ。単なる胃のぜん動運動。
自分以外には、聞こえようもない。
「中国・四国・近畿地方に大雨警報」
昼。近鉄吹利駅前の小さな電光掲示板が告げたとおり。
雨。
ここん所の雨続きに、持っていたまともな傘は全部なくなってし
まっている。
結局、手元に残っている傘は、この、いい加減古びて骨の部分に
錆が浮き上がっていて、肝腎の中央部分に指が三本楽にはいるほど
の穴が空いたコンビニ350円傘だけなのである。
ないよりはまし。
まぁそういう事だろう。少なくとも、路面から盛大な飛沫を巻き
上げているこの雨の中歩くのであれば。
ジーンズは、一見変色した様子は見せていない。それというのも、
既に腰の部分にまで水が染み通ってしまっているから。
もうすぐ夏至。だから、まだ明るい。
きっとこの空のどこかにはまだ太陽が見えているのだろう。
夕方の7時だけれども。
ハーブショップ・グリーングラスの店の前の路上も、既に水深1
cmほどの川となっている。
目の前を、電気バスが通り過ぎていく。バスのあげた飛沫がかか
っても、さほど気にはならない。これ以上濡れることなど出来ない。
本を……置いてきてよかった。
そんな事を考えている。研究室の自分の机の上に、いつも持ち歩
いているショルダーバッグは置きはなしてきている。防水素材で出
来ている筈のショルダーバッグも、縫製部分から破れ掛けて、水か
ら内容物を守るという役にはまったく立たなくなっているのだから。
Gジャンのポケットに突っ込んだままの左手を少しだけ、動かす。
サリッと音がする。ラッピングの上から、かぶせたポリエチレン
の袋の音。内ポケットの中で時を待ち続けている。
いつもなら、まだ開いているはずの時間だったのだ。
閉店間近のグリーングラス店内へと入って、誕生日のお祝いの言
葉を一言。
そして、これを渡して、帰る。それだけの筈だったのだが。
やはり……どなたか。いらっしゃるのかもしれませんね。誕生日
を、共に過ごす、どなたか。
可能性の問題。
だけれども、どう動くのかが自分にとってもっとも有利なのかと
かそういう風に考えたくはない。
待って、みましょう。
いつかは、帰ってこられるはずですし。わたしは、単に誕生日の
贈り物を届けに来ただけなのですから。
眼を閉じる。
左頬に、鈍い痛み。まだ少し腫れている瞼。雨の冷たさが、心地
良いと感じてしまうのも、怪我のせいかもしれない。
痛みは、熱。水は痛みを消す。浄化の水。天より降り注ぐ、聖水。
眠ることさえ出来ないほどの痛みも、雨の中、ゆっくりと癒され
る。形だけでも。
鼻の奥が、むずかる。来る。
それを感じる間もなく、出る。くしゃみ。ポケットティッシュを
用意する間もない。顔が、雨に打たれる。すっかり湿気て閉まって
いるポケットティッシュで、雨と粘液を拭き取る。
一息つこうとした瞬間に、咳。肺の奥の方からわき上がる咳。連
続して、横隔膜が痙攣して。何かを、絞りだそうとする。
絞ったところで、何も出てきそうもないのに。息が続かなくなる。
胸を押さえながら、しゃがみ込む。頭にかかる水流が強くなる。傘
が、落ちた。
咳の連続の中から、呼吸の種を見つけてゆっくりと育てていく。
少しずつ。無理はせずに。やっと、まともに呼吸が出来るようにな
ってくる。雨を、遮ることよりも、呼吸を回復することの方が優先。
だから、雨に打たれている。酸素不足のせいで、思考が惚けている。
空き缶。
車道の隅を流されていく。誰が投げ捨てたのか。水流の中、奇跡
的に潰されもせずに。
アスファルトに付いてしまっていた、腰を上げる。傘を取りに。
あんな傘でも、ないよりは、マシ。
一歩踏み出す。屋根の端から落ちてくる水流に、頭を突っ込んで
いる。そのせいで、またよろける。
もう一度立ち上がりなおして、頭を振る。
一応、多少は整えてきた髪も、台無し。まぁ、いまさら格好を付
けるもなにもなくなってはいるのだが。
少し、まだ足元がふらつく。傘は、雨と風に打たれながら少しづ
つその位置を変えていく。
追うようにして掴まえる。傘の骨の先を掴む。引っ張り寄せる。
その拍子に、足がもつれる。街路樹へと、手をつく。咳。自分で
はどうしようもない、咳の連続。かろうじて瞼を開く。傘の破れ目
が、ひどくなっている。
まいったなぁ、これは。どこか、意識の隅っこでそんな風に思っ
ている。まだ、脳が酸欠のままだ。
ふと、何かの陰に入る。暖かい、感触。雨が途切れている。
何が起こったのだろうと見上げる。
「大丈夫ですか?」
女性の声。
その女性が、大きな傘を差し掛けてくれていることに気がつくま
で数秒の時間がかかる。
「あぁ、失礼……ありが」
礼の言葉の途中でまた咳が出る。一昨々日、変なところで寝たせ
いで、引いた風邪。
「本当に、大丈夫ですか?」
差し掛けてくれる、傘が。ユラさんの物だったら。一瞬、そんな
事を思う。思ってしまう自分がいる。
「あぁ、ぜんぜん大丈夫ですよ。ちょっと咳こんでしまっただけで
すし」
そのせいか、慌てて弁解のように、女性に応えている。罪悪感。
深呼吸。ゆっくりと呼吸を自分の物に戻していく。
「どちらかに、行かれるのでしたら、お送りしますけど」
その言葉に、やっと、女性が知った顔であるという事に気がつく。
確か、無道邸の……前野氏のご縁のご姉妹の……妹のほうの方。確
か、名前は……煖(なん)さん。火遍の、暖かさ。
「いえ。人待ちなんです。ここで」
わたしは、起き直る。自分の、破れた傘を煖さんの暗いオレンジ
の傘に重ねて、自分の傘の方に移る。
「あっ……」
煖さんが、何か慌てたように声を掛けてくる。
「どうかされました?」
中央部に開いた傘の穴から漏れた水は、傘の柄を伝って腕を濡ら
していく。今さら濡れることなんて気にもならないが。
「いえ、なんでもないんです。……それより、どなたを待っておい
でなんですか? こんなひどい雨の中」
煖さんが、心配だという視線でこちらをみている。
どう説明するべきなのか、困る。困ったまま、彼女の顔を見る。
あまり、人に話すようなことでもない。
雨の中。警報すら出る風雨の中。非常識めいているという事は判
っているのだが。待つという事は、そういう事だ。わたしはそう理
解しているから。
「約束は、ないんですけどね。こちらからの、一方的な、用件で。
待ってるんです」
そういう風にしか、言えない。
閉じたままのグリーングラスのシャッターに、もたれ掛かる。肩
甲骨とシャッターとの間で逃げ場を失った水が鈍い悲鳴を上げる。
煖さんは、なぜか、わたしの横でシャッターにもたれ掛かる。
服が汚れますよという一言が、なぜか口に出来ない。
「待たされているんでは、ないんですか?」
煖さんが、ぽつりと尋ねてくる。
ちゃんと、わたしの耳に届く音量で、尋ねている。
「いえ。わたしが。わたし自身の、酔狂で、待っているんです」
応えている。そうとしか、答えようがない。
約束なんてない。想いは、想いのままで空回りしているのやもし
れない。そんな事は百も承知の上なのだ。それでも。想いは、それ
だけで力だから。
雨は、モノトーンに降り続いている。いつのまにか、街の空は闇
にとって代わられている。雲の向こうで、太陽が地平線に隠れ去っ
ている。
わたしは、ユラさんを待っている。
煖さんは、わたしの80cm隣で雨を傘で避けながらシャッターに
寄り掛かっている。わたしは全身ずぶぬれで。彼女はほとんど濡れ
ていない。
「待って……いらっしゃるんですね」
沈黙を破るように、煖さんが呟く。
わたしは、どう答えるべきなのか。
「待たなくちゃ、ならないんです」
口を突いて、出ている言葉。
「待つと決めてしまいましたから」
言葉を補うように……言葉を口にする。
雨は、相変わらずわたしと、世界を濡らしている。
「吹利駅までなら、お送りしますけど?」
近鉄吹利駅。だけれども、駅から下宿までの電車代は、財布の中
にはない。
「いえ。まだ待ちますし」
送ってもらったところで。なんの解決にもならない。少なくとも
自分には。
街路樹は、降りしきる雨に歪んだ街灯に照らされて。
「お心遣い。感謝します」
慌てて付け足す。煖さんの厚意を無にする事。それに対する詫び
の言葉の一つもすぐに出てこない自分。それだけ、視野が狭くなっ
ているということだ。自己嫌悪。
誰も通らなくなっている道。車とバスだけが飛沫を上げて通り過
ぎていく。街灯がなければ、既に真っ暗なのだろう。時折、自分の
咳が、単調な時間の合間を刻む。時間だけが、流れる。
……時間?
生活防水しかしていない腕時計。この雨じゃ、水が入ってしまっ
たかもしれない。腰のベルトに下げているそれを、左手の人差し指
で持ち上げる。指先がふやけていることに、初めて気が付く。水滴
が、街灯の光を乱反射するので、文字盤が読みとりづらい。親指で、
文字盤を拭き取る。九時半。雨粒は、すぐに、文字盤の上を再び占
領して。
「帰らなくてよろしいんですか?」
尋ねる。若い女性が一人歩くには、もう充分すぎるほど遅い時間
帯。前野氏は、モラリストですから。そろそろ心配なさってらっし
ゃるかもしれない。いや、心配しないはずがない。
心遣いが足りなかったか。今頃になって悔やむ。少しでも早めに
言い出すべきだったのだ。
「え?」
煖さんが、振り返る。
「前野さんとか……ご家族が心配なさりませんか? もう、こんな
時間ですし」
説得力のない台詞。自分で言ってて、自己嫌悪に陥る。
「そう……ですわね」
眉をひそめる顔。
「わたしのような酔狂に、つき合うことはないですよ」
苦笑いしてみせる。うまくできたかは、自信が持てなかったが。
「わたしも酔狂なんですけど」
煖さんが、シャッターにもたれ掛かっていた身体をしなやかに起
こす。こちらを向き直っている。猫を思わせる瞳によぎる影。
「わたしなら、大丈夫ですから。これでも待つのは得意なんですよ」
待つのは得意だ。待たれることよりも、ずっと。
今度の苦笑は、さっきよりもずっとうまくできたような気がする。
煖さんの、真顔が崩れる。
「わかりました。帰ります、じゃあ」
傘ごと、半回転した煖さんの顔は見えない。
わたしは、後ろから声を掛ける。
「すみません、お送りすることができなくて」
煖さんの姿はそれきり振り返る事もなく、路上を包む闇の中へと
消えてしまう。
怒らせてしまったかもしれない。厚意を無にするような無神経な
発言で。
煖さんが立ち去ったあとの店先は、また一段階強くなったような
雨にかえって静けさが増している。歩道に敷き詰められている透水
性というふれこみのカラーブロック。その上を雨水の層が滑り続け
ている。水流。時間も、滑り続けている。
わたしは、内ポケットから風邪薬の錠剤の入った小さな瓶と、香
草茶を詰めたミニペットボトルを取り出す。風邪薬を3粒。香草茶
を一口。これで、風邪薬は今日一日の限界量。室温の香草茶を、も
う一口。口腔内の隙間を流れる。呑み込む。少しだけ、気分が良く
なる。太陽の香り。香りの力。
内ポケットの内容物を確認するように、ポケットに突っ込んだ左
手を動かす。
まだ、ユラさんの誕生日は終わっていない。誕生日のうちに渡せ
ればいいのだが。
傘をくるりと回転させる。破れ目があって点対称でない傘は、少
しだけ水を弾き飛ばす。前髪を手櫛でかき上げる。髪の間に溜まっ
ていた水が飛び散る。前髪の先から鼻先へと滴り続けていた流れが
止まる。
背筋から、寒気が来る。出そうになるくしゃみを寸前でこらえる。
持っているポケットティッシュの量はそんなに多くはない。少しで
も使い控えるに越したことはない。濡れてしまったポケットティッ
シュでさえ、この夜には重要な資源だから。
傘を固定し直す。濡れるのは、もうどうしようもないにしろ、雨
に打たれ続けるのは良くないのは確実。気化熱は別にしても、流水
は確実に体温を奪うのだから。
目を閉じる。目を閉じたまま、自分の呼吸を数える。時間の針を
進める。耳だけを澄ましている。足音を待ち続ける。
不意に気配を感じて目を開ける。
「煖さん?」
帰ったのではなかったのか?
不意を付かれているわたしに、煖さんは微笑む。
「どちらのお店でも、傘が売り切れてまして」
そう言って、彼女はわたしに真新しい傘の柄を差し出す。コンビ
ニのラベルは付いているが、ビニル製の安物ではない。ちゃんとし
た傘。
「お貸ししますわ。それなら受け取っていただけるでしょ?」
読まれているのを感じる。この厚意ならば、受け入れられる。
「ありがたく、お借りしましょう。後日、必ずお返しに伺います」
わたしは、その傘の柄を受け取る。煖さんは、ちらりと遠くへ振
り向いてから、こちらを向き直る。
「ちゃんと返しに来て下さいね。それでは。がんばってくださいね」
その言葉を残して、煖さんは去る。
一本取られたのかもしれない。
まぁ、それにしても、ありがたいのは事実だ。わたしは、黒いそ
の傘の止め金を外して開く。
傘の真下に、本当に雨がない空間が生まれる。わたしは、その中
へともぐり込む。一息つく。雨に打たれる緊張感が、緩む。
わたしはベルトの腕時計を見る。11時15分前。まだユラさん
は、帰ってこない。
傘は、しっかりと握っている。しっかりと柄を握ってさえいれば、
傘をとばすほどひどい風ではない。
雨の方は止む気配もない。爪先。一年以上前に廃棄処分になって
てもおかしくないスニーカーの中で、足の親指を上下動させる。自
分に足があるという事を何時間かぶりに感じている。防水などとい
う言葉とは縁のない靴の中は、きっと自分の体温と水でどろどろに
なっている。爪先が伝える感触がそれを肯定する。足首の腫れ上が
った青痣を、濡れた靴下が少しだけ冷やしている。
髪の毛の中に住み着いた水分が気化熱を奪っていく。体温を奪っ
ていく。時を停めて、聴覚を麻痺させて、水流は落下し続ける。
ポケットティッシュの袋をGジャンの右の内ポケットから取り出
す。何もせずとも、水が滴り落ちる。袋ごと絞る。わずかに濁った
水が指の隙間を伝う。慎重に解体する。一枚だけ。破らないように、
そっと取り出す。
濡れにくい場所にあってすら、これだ。シャツの内側まで濡れて
いる。川に飛び込んで1キロ泳いだのと大して変わらない濡れよう。
湿り気を持ってはいるが、まだ水を吸えなくもないティッシュの
一枚を、顔の皮膚に当てる。拭き取る。汗と、雨と。少しだけ、マ
シになったかもしれない。
格好悪いよな。
自己評価。率直な自己評価。
格好良いとは、絶対に言えない。
こんなに格好悪い男からの誕生日プレゼントは。迷惑だろうか?
そんな事も考えてしまう。
迷惑なのか……。受け取ってもらえるのか?
煖さんがいるときに、言ってしまった言葉。酔狂。
恋、だと思うのだ。だから酔っている。だから狂っている。
この贈り物一つを。受け取ってもらえるかどうかということに。
自分自身を賭けている。
物思いの重さに、傘が揺らぐ。決して、右肩の傷が痛むからでは
ない。傘を、立て直す。雨を遮断する領域を、自分の身体に可能な
限り合わせている。
ろくな服も持っていない。ずぶぬれの、着古したジーンズとGジ
ャン。腕っ節で護れるというわけでもない。それが出来るほど強く
もない。他人を殴れるほど優しくもない。
彼女の微笑み。
もしかしたら。このプレゼントで、彼女が微笑んでくれたら。そ
れだけで暖かい気持ちになれる。だから、渡さずにはいられない。
渡さなければ、ならない。自分自身に対して生じた義務。
神を信じないわたしにとって。言霊を信じるわたしにとって。最
大の誓約。狭淵美樹。自分の名をもってする、心の内の誓約。
ふわりと、宙がまわる。右脚を、反射的に踏み出している。膝関
節が悲鳴を上げる。外界を再認知する。
身体が、平衡を取り戻す。前のめりに倒れそうになっている身体
を起こす。シャッターに寄り掛かり直す。店の前には、ユラさんが
雨の前に店内に収容したのであろうプランターの跡。
雨が降り出す前に来れていれば。
もう少しはスマートに。何気なさをふくめて渡せていたかもしれ
なかったのだが。
否定する、自分の思考。
アルバイトが終わって、給金を手渡されたのが午後四時。無理を
言って、取って置いてもらった店にその給金をそっくりそのまま残
金として支払ったのが四時半。後渡しのラッピングされたプレゼン
トを手にしたのが、五時。京阪吹利駅に着くのが六時。どうやって
も、これ以上早くは、プレゼントを持ってここに立っていることは
出来なかった。
過去の仮定を想っても仕方がない。
その通り、と相づちを打つように咳が出る。季肋部を押さえる。
感覚脱失を合わせ持つ、いつもの傷口が暴れる。咳が、止まらない。
痛みが、治まっていかない。足がもつれる。両足に力を込めようと
する。
「あれ?」
目の前で、世界がまわる。まっすぐに立っているはずの街路樹が
横倒しに回転する。
膝と、腰に、力が入らなくなっている。膝が、路面に衝突する。
咳が出続ける。涙が出る。
左手で、かばっている。ユラさんへのプレゼント。右から肩と、
側頭部に迫ってくる水流に被われた透水性カラーブロック。
水なら染み込んで終わりだよな。
なに莫迦なこと考えてんだか。
二つの考えと、歩道の路面が衝突する。
咳は出続けている。左胸の痛みは体幹部の筋肉をのたうちまわら
せている。それを傍観している。右肩から下の感覚がなくなってい
る。ユラさんはまだ来ていないのに。
混乱。
倒れるはずはない。まだ渡していないのだから。
咳が、浅い呼吸が、脳血流中の酸素を低下させている。そのせい
だ。動けないのも、体がいう事をきかないのも、まともに考えられ
ないのも。咳が止まらない。判っているのだ。
咳が止まらない。痛みは既にどうという事もない。咳が止まらな
い。咳が止まらない。ユラさん。咳が止まらない。
咳を止めさえすればユラさんが。咳が止まらない。ユラさんが。
息を出来るだけ、吐き出す。反射的に吸う息が、次の咳を誘発し
ている。だから、吸わない。横隔膜の痙攣を、ブロックする。咳を、
無理矢理止めていく。
倒れたままの姿勢で、呼吸を落ち着かせていく。浅く速い呼吸な
がら一定のペースの呼吸へと移行させていく。
雨混じりの酸素が前頭葉へと流れ込んでくる。
そんな事を考えながら、右腕を動かす。さっきと違って、自分の
思うように動く。起き上がろうと、体重を支える。力を込めた瞬間
に、路面で打った肩から痛みが走る。この間の傷口が開いたのかも
しれない。あとで消毒のし直しだろう。
「美樹さんではないですか」
聞き覚えのある男の声。目を開けて、首をねじ曲げる。頭上に立
っている影。街灯を背に受けて、顔が見えないが。
「おや、大家さんではないですか。どうなされました? こんな真
夜中に」
松蔭堂の大家氏。……訪雪氏。光を背に受けて、顔は影になって。
こんなにも、大きかっただろうか? 下から見上げているせいか。
それとも。
「美樹さんこそ……どうなされました?」
脱色された髪の毛が、街灯の光を通して、光っている。和紙の傘
が、シルエットになる。
差し出された大家氏の手につかまって、体を起こす。濡れた地面
の上を少しだけずれて、シャッターに凭れる。気管支の過敏反応は、
もう治まっている。
「すみません」
そう答える。答えになっていないことに気が付く。信頼の出来る
人物。確かに、何故と思われても不思議ではない天気。
頭の上。大家氏の影になっている顔に、苦笑を浮かべてみせる。
「いえ、小滝さんに、誕生日の贈り物をお渡ししましょうかと思い
まして。待ってるんです」
酔狂。あるいは、やはり変わっていると思われるのだろうか。
「そうですか。しかし、この雨では……まだ、お帰りではないんで
すか? 小滝さんは」
いつもの調子。いつもの大家氏。何かを解している風流人。
「まだお帰りではないみたいなんで……待ってるんです」
当たり前のことしか言えない。当たり前の言葉を、当たり前に重
ねることでしか何かを表現できない自分。まだ、わたしは風流には
遠いのだろう。
ふと気付く。いつもはとらえどころのない大家氏が。何かにとら
われて。輪郭が、シャープになっている。
「ふむ。そこまでして……渡したい、贈り物なのですね?」
尋ねられた言葉。
そうかもしれない。そういうふうに解釈されるのかもしれない。
実はそうなのかもしれない。
「渡そうと、決めたものですから」
左手を、Gジャンのポケットに入れたまま、内ポケットのプレゼ
ントの輪郭をなぞっている。
渡そうと決めたから、渡す。そういう事だ。
返事をして。その言葉に、自分自身が得心している。
わたしの言葉に、大家氏が息をもらす。笑っている? とらえど
ころのない、いつもの大家氏。
「そうか……決めましたか」
わたしは、笑む。笑むことによってその言葉を肯定する。
大家氏が街灯の方向からずれる。大家氏が、少しだけ複雑そうな
笑みを浮かべているのがようやく見て取れる。
「美樹さん、立てますかな?」
わたしは大家氏の手に掴まって、立つ。開いてしまったのだろう、
肩の傷口が痛む。グリーングラスのシャッターにうつ伏せるように
もたれて、少しだけ休む。
足元に気をつける。まだ、足元が完全に定まったわけではないが、
立つぐらいなら充分。
ゆっくりと振り返る。
大家氏が、拾い上げてくれたわたしの傘の柄を差し出してくれて
いる。やはり、大家氏がそんなに大きいわけがなかった。わたしよ
り、5cmは低い。
「すいません」
うけとる。受け取って、気付く。いつの間にか雨は、もうずいぶ
んと小降りになっている。それこそ、ちょっとの距離なら大して気
にせずに歩いて行けるほどまで。
「雨の後は、ずいぶんと静かになりましたな」
大家氏が、独り言のように漏らす。確かにそうだ。雨上がりの夜
の街は、静かだ。遠くを、まだ路面に残った水を飛沫に上げながら
走る自動車の音が聞こえるほど。
パシャ。
水音。水たまりを構わずに駆ける、人の足音。わたしは顔を上げ
る。見慣れた……待っていた、影。足元の、マヤ。
背中で反動をつける。シャッターが鳴る。前へ足を踏み出してい
る。背中で、大家氏が何か言おうとしているのが判る。
「……美樹さん、それにほ……小松さん?」
ユラさんが、立ち止まる。驚いた顔。それとも、困惑だろうか?
わたしは数歩前へ出る。雨は完全に止んでいる。プレゼントを、
渡さなければならない。右手をGジャンの内ポケットに入れて、持
つ。今まで時を待っていた物を、引っぱり出す。
「小滝さん、日が変わってしまいましたが……」
誕生日おめでとうございますという言葉を発しようとした瞬間に、
左脚が、わたし自身の制御下から離れている。足と、手と、口を一
度に動かそうとしたのが間違いだったのかもしれない。自分の左脚
を右脚が蹴っている。躓いている。
「あっ」
「美樹さんっ!」
さっきと違うことは、自分が転びかかっているのが判っていると
いう点だ。まったく。今日はよく転ぶ日だ。そして、来るはずの衝
撃に備えて目を閉じている。前に一歩だけ左脚を放り出している。
一瞬だけ転ぶのが遅れるだけ。次の一歩は間に合わない。
やっぱりわたしは格好悪いですな。目を閉じたまま、転びながら
そんな事を考えている。こんな時に考えるにしては莫迦なこと。
「きゃっ」
柔らかい物にぶつかる。そのまま倒れる。柔らかい物がわたしの
顔とアスファルトの間でクッションになる。暖かい。
落下の法則が仕事を投げ出したのを感じて、目を開ける。
顔の下の柔らかい物。路面に転がっている白い球体……ふくろう?
一瞬の混乱。
「美樹さん!」
大家氏の声に、認識が戻る。
「す、す、すすすいません、ユラさん!」
慌てて起き上がろうとして、失敗する。今度は、ちゃんと(とい
うのもおかしい話だが歩道のカラーブロックの上に身体が落ちる。
「すいませんっ! ユラさん! 服、濡らしちゃいまして!」
全身ずぶぬれの男がぶつかって、雨上がりの路面に倒れたのなら、
ユラさんの服が濡れないはずがない。
いや、そうじゃなくて。自分でも、訳が分からなくなっている。
「それから、えと、どこか怪我とかはないでしょうか、あの、えと、
とにかく……すいません! ユラさん」
混乱している。混乱して自分でもなにを言っているのか訳が判ら
なくなりかけている。自分が起き上がったりとか何かするひまがあ
ったら何かすることがあるはずなのだがと考えている。
「美樹さんの方こそ、大丈夫?」
ユラさんは、怒ってはいない。心配そうに、わたしを見ている。
安心できる。
「わたしは、ぜんっぜんらいじょうぶですから」
呂律がおかしい。それに、よく考えたら、口以外の身体が、動か
ない。ユラさんが、長細いちいさなポリ袋でグルグル巻にした物を
拾い上げながら立ち上がる。地べたに付いたところを払う前に、わ
たしに手を差しのべてくれる。
「本当に大丈夫なの?」
ユラさんの手に、プレゼントがある。よかった。
「こりぇっくらい、大したことありませんって」
何故か、霞む視界。語尾の辺りの発音が不明瞭になっている。
「ちょっと、美樹さん、美樹さん?」
肩が、揺すられている。意識が、飛ぼうとしている。飛んでしま
わない内に、言わなきゃならない言葉。
「ユラさん、誕生日、おめでとうござーます……、それ、誕生日の
贈り物れすから、受け取っていたらけるとうれしい……」
嬉しいですという所の語尾がちゃんと伝わったかどうかがすごく
気になる。気になるんだけれども。知覚が、混乱している。
「ちょっと、訪……」
「早く……」
ユラさんと、大家氏との声。意味が、取れない。
でも、ユラさんの手にはちゃんとプレゼントがある。
なんか、いろんな方々に、迷惑かけてしまいましたが。
ユラさん、Happy Birthday to You……
(おわり)
1998年6月18日夜 小滝ユラの誕生日
小滝ユラの誕生日に、美樹がプレゼントを渡そうとする話。
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