その日は雨だった。
雨は気にくわない。気にくわないと言うと必ず、まぁ、農業関係
者の方々には恵みの雨ですから、なんて言う奴がいる。そういう奴
がいるから、余計に雨は気にくわない。
その日が特別忙しかったと言うわけではない。俺は特別じゃなく
ても忙しい。研修医ってのはそういう身分だ。別に好きでやってい
る。文句を言うつもりもない。
今にも死にそうだった患者が死んで、反省会でこってりと絞られ
て、死亡診断書書きに遺族への説明への立ち会いに、遅れまくった
回診を済ませて、検討会、検討会、検討会。
私物置き場の愛車「ぼろぐるま11号」の運転席のシートに腰を
突っ込んだのが午前三時ってのは別にいつものことだった。
いろんな理由があって、患者が死ぬ。原因の一つが、俺の修行不
足だ。今の仕事はその原因を潰すためにやっている。毎日それを潰
している。だから忙しい。
死んだ患者の事など考えたせいで一瞬ぼけてた。
吹利市街の下宿まで帰る事とこのまま眠る事。天秤に掛ける。天
秤に掛けているうちに眠気が差す。寝ることにする。シートを倒す。
目を閉じる。
目を開ける。携帯電話を取る。
「はい。狭淵」
短く告げる。容態急変なら、そのまま院内に戻ればいい。車は仕
事場の駐車場にいる。
何も聞こえない。気のせい。あるいは夢。
留守電には一件。眠る前にはなかった。
聴く。下宿の大家だった。
隠居の方ではない。若大家。日本趣味の変人。
夜中に掛けてきただけあって、緊急の用だった。よりにもよって、
莫迦兄貴が街中で倒れやがった。
エンジンを生き返らせながら、ハンドブレーキを降ろす。ワイパ
ーを止める。
走り出させる。
うるさい曙光にサングラスで対抗する。
濡れっぱなしの路面は好きなわけがない。
ハーブショップグリーングラス。
吹利の街中の薬草屋だ。
漢方は苦手だったから多少苦手意識がある。親父の腕を越えたら
その事は忘れるだろう。
莫迦兄貴が喜んで飲んでいた香草茶。悪いものじゃないが、オリ
ジナリティーが強すぎる。腕はいい。
理由なく、むしゃくしゃする。
莫迦兄貴のせいだ。そういう事にする。
シャッターが降りている店の前に車を止める。医者と名が付く職
についている奴の所有車は、駐車違反の切符を切られないことにな
っている。登録してあればだが。俺は登録している。
降りる。空き缶を踏みつぶす。
外側に階段がある。
昇る。
扉がある。明かりがついている。
《小滝ユラ》
確認する。
ノックする。
返事がある。
自分の名を告げる。
扉が開く。女性。
これが、小滝。漢方師の匂い。健康体だ。
首の後ろを掻く。
「うちの莫迦兄貴が面倒かけまして」
他に言いようがない。
救いがたい莫迦兄貴のせい。
小滝は頭の悪くない人間だ。その話から、医学知識のない大家の
留守電では判らなかったことが判る。
生命に問題なし。
上等。
勧められるのを待ち、上がる。
部屋に一つのベッドを占領している莫迦兄貴を診る。
気が出鱈目。水(すい)が不足、血が欝。
莫迦には相当の報いと診る。
確かに、死にはしない。道端に野ざらしにでもしてればどうかは
知らないが、まともに寝かせてまともに喰わせてまともに適当な薬
の一つも飲ませて消毒さえ忘れなければ一週間±二日で完治。
ベッド脇の濡れたジーンズを取る。
左の尻のポケットの財布。
29円。
右の尻のポケットのカード入れ。
郵便局。旭銀行。
カードに一々巻いてある最新の明細。
日付は昨日。残高は0円。
俺が渡してやった、俺の口座の共用カード。
五百万がとこ入っている筈が、一回も使った形跡がない。莫迦が。
「死ぬ前に使えと言ったはずだが」
口に出している。
本当の、莫迦だ。
(本当に死にそうになったら、ありがたく使わせていだたくよ)
そう答えて受け取ったからと言って安心していた俺も莫迦だった。
莫迦だからと一発殴るわけにいかんのが余計莫迦だ。
「……」
何か、莫迦兄貴のうわごと。
「ユラさん……」
呆れる。ついでにあてられる。
振り返る。小滝も困った顔をしている。それはそうだ。
忘れていたが、大家も小さくなっている。
莫迦兄貴だけが勝手に幸せそうな顔して寝てやがる。
善後策を考えるのが莫迦らしくなる。
要するに、兄貴とはこういう奴だ。おかげさまで貴重な睡眠時間
が吹っ飛んだ。
(おわり)
1998年6月19日の夜明け前
小滝ユラ嬢に誕生日プレゼントをわたしに行こうとしたあげくに、ぶっ倒れ
た美樹を迎えに行く妹の麻樹の話。
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