小説054『帰還』


目次



小説054『帰還』


登場人物

 狭淵美樹(さぶち・みき)	:医学生。旅に出ていた。
 狭淵麻樹(さぶち・まき)	:美樹の妹。働いていた。


本文


 夜は明けはじめている。
 細く、細く、雪片が舞っている。
 自分を嫌いであることもある。
 きいっ。きいっ。
 愛車の、フレームは少しだけ歪んでいる。
 きいっ。きいっ。
 ペダルをこぐたびに、微妙に。生理的ではない摩擦音が、ハンド
ルをペダルを介して両腕と両脚を伝ってくる。いつからこの音がす
るようになったのか、わたしは憶えていない。
 わたしの愛車の。古傷。
 厳密にいえば、気にしなければ気にならないぐらいの不具合なの
だろう。自転車屋で修理するまでもなく、また修理のしようもない、
傷痕。
 そして、わたしの胸の手術の痕。
 痛みだけ。そして、それだけが残った昔の傷。
 きいっ。きいっ。
 ハンドルを握り締めているドライバー用の軍手は汗と染み込んだ
ディーゼルの排気で真っ黒く変色して。半分、この寒さで凍り付き。
ペダルに全体重と、両腕がハンドルを持ち上げることの反作用を送
り込んでいく。
 急坂。
 トレーラーが一台、もうもうと黒い排煙を残して追い越していく。
                        エンジン
エンジンが、全力で稼働しているのだろう。わたしの心肺機関と同
じように。息を継ぎながら、昇っていく。
 一漕ぎごとに、額から、汗が絞り出される。

 峠を、越える。
 非現実と現実とを繋いでいる一本道。その最大の難所。
 この峠を越えると、吹利。

 帰らざる、友。
 帰る、自分。

 前かごの中のショルダーバッグ。
 ショルダーバッグの中の一冊の文庫本。
 古びて、血痕のついた。

 上がる。自分の身体を持ち上げる。坂の勾配に逆らって。
 昇る。コートの中の身体は汗にまみれて。
 少し凍り付いた路面の上を、滑り落ちないように、ハンドルを強
く握り締めて。

「もう、あの頃の僕ではなくなってしまったんだよ。狭淵君」

 胸の奥で響き続ける、友の…………かつて友だったものの言葉。

「わたしもまた。奈落の底に落ちてしまう日が来たなら、もう一度
はお会いするかもしれませんね………」

 わたしは彼にそう告げて、背を向けた。

 そして、今はまた、自転車を漕ぎ続けている。
 坂の頂上が、視界に入っている。
 アスファルトがそこで途切れる。その先は、曇天。

 踏み入れる。手首、肘、肩関節、脊柱、股関節、膝、そして足首。
 全ての関節を介して、ペダルが前へと押し込まれていく。

 峠の頂上は、小さな駐車場。そして、自動販売機。
 黒い、小型車。
 わたしは、緩む脚を制御しながら、道路の真ん中を横切る小さな
排水溝を越える。

「ずいぶんと小さな、三途の川だな」

 妹。

「どこにでもある、よもつひらさかですから」

 わたしは、笑む。妹が、差し出してくれるホットコーヒーの缶を
軍手を外して受け取る。開ける。飲む。無糖。ブラック。
 のどの奥を通り過ぎる熱量。

「ま。おかえり」

「ただいま、帰りました」

 まだ目覚めていない吹利の街に風が吹き抜けていくのが。見えた。

                           (終)


時系列

 1999年2月初旬。


解説

 EP885「棚卸し」の後、長い旅に出ていた美樹が帰ってくる話。



連絡先 / ディレクトリルートに戻る / TRPGと創作“語り部”総本部