エピソード282『ベーカリーでの緑のバイト』


目次


エピソード282『ベーカリーでの緑のバイト』

第一の客

観楠
「じゃ、とりあえず……レジ、お願いしようかな。操作と か、わかる?」
「はい……あの、でも……」
観楠
「今の季節だと、お客さんも少ないからさ(苦笑) のんび り覚えてくれればいいよ。あと、接客応対は元気よくね(笑)」
「は、はい……」

(からんころん)

「い、い、いらっしゃいませっ!!」
観楠
「緑ちゃん、落ち着いて(苦笑)」

今日は大変気分がよい、というのも切片標本の免疫発色がこの上なく上手く行ったからだ。
 その上機嫌のまま、美樹はベーカリーの扉を軽く押し開ける。

美樹   
「あ、どーも、お久しぶりです。店長」

店長のとなり、カウンターで妙にぎこちない笑みを浮かべている女の子に気付く。

「い、いら、いらっしゃいませ」
美樹
「……水島さんでしたっけ? あ、店長、新しいバイトさ んですね」
観楠
「ええ、素子ちゃんもやめちゃいましたし、先週から入っ てもらってるんですよ」
美樹
「あぁ、よろしくおねがいします。あ、店長、いつものコー ヒーで。それから、何か試食する物がありましたら、それも」

そう言って、美樹はいつもの窓際の席に座り込む。
 図書館で借りてきたばかりの「モンゴロイドのhug頻度」を広げる。
 文字列が脳にじんわりとしみこんでくる。
 コーヒーカップと、妙な香りのパンが、コピー論文の脇に置かれる。

美樹
「ダンケ……(小さい声で)ルク」
「は?」
美樹
「いや、何でもありません」

コーヒーを一口すする。パンを口に運ぶ。キムチの香りが口中に広がる。文字列は、楽しい。
 心地よい時間。常連はまだだれも来ていないようだ。とても平和である……。

次の客が訪れた……

出来るだけドアベルのからんの音をたてないように、ゆっくりと注意深く、しかし迅速にやや落ち着きを欠いてドアが開かれた。彼は自分の発案したレトリック通りにドアを開けることが出来たことを身体後方への3度の傾斜角でもって誇りとして表現しながら店内に突入した。が、レジ方面を占拠せる人物が平時とはいささかの差異を持つという事実を発見したことによる驚きで、後方3度の傾斜は前方へ2度ばかり修正された。さらにその人物の発せる言葉にいわく「いら……」の意味の見当が皆目つかず、彼は真相探求の念に駆られたためさらに身体を4度ばかり前方に倒した。ここで初めて彼の傾斜角は前方3度の位置を保持し得たのである。
 彼は数秒のうちに2,3度「いら」というシニフィアンの対応するシニフィエを模索しつづけたがそんなものは彼の辞書からは見つからない。のみならず最高級日本語FEPであるATOK7の上においても「いら」は「苛」以外の変換候補を出さず、ただ空しくビープ音を中空に投げ付けるのみだったのである。彼はつづけて「いら」の構造分析を続行せんと試みた。まず彼の頭に浮かんだのは
 「いらん」「イラン」という同音異議の2語だった。彼はこの2語を比較対照し、そしてこのどちらを取っても現状に適応する言葉としてはふさわしくないという結論に達し(もっとも「いらん」と取ればそれは関西弁における拒否の意を表すシニフィアンということになり、すなわち彼がこのベーカリーに不要の存在であるということになる。また「イラン」と取ればこれはカスピ海南岸の国家の名前を指すことになり、その場合の意味としては「イラン人と誤解した」などが考えられる)、そしてさらなる構造分析の続行を試みた時、異質なるレジの支配者はもう一度さきほどの台詞を繰り返したのである。
 「いらっ……」かろうじてそこまでは聞き取れる波形を保ち得たか細い音声も、真相究明の遂意に燃える三郎が石をも穿たん眼光にて当該女性を凝視したる故をもってその3音を最後に途切れる以外の道は無くなった。「……もう一度御願いします」「え?」「いや、さっきの台詞ね、もう一度」「は……はい…………いらっし……」詰め寄る三郎に出かかった言葉も再びひきもどる。端から見ればこれは完全なからかいか、あるいは単に女性を脅迫しているか何かにしか見えない。「……まだよく解らない……もう一度」「え……ええ……え……ええ…………と……いら……い……いら……いら……っ……」「……すいませんが、語尾ん所強くしてもう一度」「い……え……い……らっ……いら……いい……いら……」三郎は必至に聞き取ろうとして、今や泣きかねない顔になった緑を凝視した。どこからともなく店長があらわれ、そんなことをしてはいけないと言った。
 三郎はまだ「いら」もしくは「いらっ」の意味を理解出来ていないままに席につかざるを得なくなり、財布の中には56円ばかりしか残っていない事を思い出したのも手伝い、茶を呑むことに決定した。
 そこでいつものように「あれちょーだい」とふぬりふぬりと語ったのであるが、ただ一ついつものようではない緑は三郎の発せる言語の意味を解することができず、店長に視線を流し救援を乞おうとしたが店長はあらぬ方向へと思想を向けており、仕方がないので「あれ」を緑茶と解析して茶筒を取り出した。正解である。ところでその時点で「緑ちゃん大変やね」と突然声を掛けられることになるとはまさか想定していようはずもなく、はずもないので状況はさらに悪しき方面へと加速がつく。茶匙を入れた茶筒を取り落としかけ、それをあわてて受け止めた左の手で急須がゆらゆらと踊り、おどろいてそれを抑えたらついに支持を失った茶筒が倒れた。が幸いにして茶葉がこぼれるなどの実害は皆無であった。
 「は……はい」
 とようやくそれだけを答え、残りの返事に当てべき時間のほうは事件の事後処理にまわすことにして、とりあえず茶筒を立て直した。
 「さっきの……もしかして『いらっしゃいませ』をいおうとしてたとか」
 「あの……そういった……つりも……な……んですけど……あの」
 こういう喋り方の原因はいろいろと想定される、と三郎は思った。吃音症はまず無いとしても、それ以上に可能性が強いものとしては内向的性格があげられる。他にも政治家性一時吃音症、外人性吃音障、このことを喋ったら命はねえぜ吃音症、その他、その他が考えられるが、やはりこの中では内向的性格に起因する吃音……というよりは言語過度選択症もしくは難発声症とする見方が一番現実味を帯びている。解決が比較的簡単なものだ。
 「……なんで人前で上がってしまうんやと思う?」
 「え……だって」
 「恥ずかしいから、やろ」
 「……は……はい」
 「販売会社社員研修においては、その恥ずかしさを打開する訓練法を多数あみ出している。是非やってみるよろし」「え……」「まず海に向かって叫ぶ方法。早口言葉などを10分くらい叫びつづけるやつ」「……」「つぎに落語のマスター。50人くらいの前で高座でネタ2つ3つ喋れたら合格」「……」「さらにまだ続くのだが」「あの……」「ん?」「それ……やるんですか……」「うん」
 「……私が……」「うん」「……」三郎は緑に詰め寄った「最後に究極の研修。ラッシュ時の吹利駅前に立って大声で自己紹介をする。これを一時間続ける」
 「ひぇ……」「この3段構えでもうアガることは無くなる。ぜったいに」
 「……ぃえ……でも……」「どや、一回やってみんか」「……で……でも……そ……私……その」「え? 何やて」三郎は聞き取りにくい緑の発話を一語たりと聞き漏らすまいとして、顔を真っ赤にした緑を突き刺すように凝視した。どこからともなく店長があらわれ、そんなことをしてはいけないと言った。

観楠
「三郎君……なにしてんの(汗)」
三郎
「いや、どーにも声が聞えなくて」
「……す、すいま……せん……(かぁぁ)」
観楠
「緊張するのはまぁ、仕方ないから(苦笑) そのうち慣れ てくるからね。三郎君もあんまりいじめちゃだめだよ」
三郎
「常にいらん事考えていてこそ文士です(?)」
観楠
「……ま、まぁ他人に害が及ばなければいいんだけど。で もね。入ってくる時はやっぱりベルの音がほしいなぁ(苦笑)」
三郎
「では次回から突撃ラッパを吹くです」
観楠
「欲しいのはベルの音だってば(汗)」

唐突にベーカリー楠に響きわたる目覚まし時計のベル音。

観楠
「それは……目覚まし時計ですね(何でそんな物持ち歩い てるんだ?)」
美樹
「判りました。次からは、これを鳴らしながら入ってくれ ばいいんですね」
観楠
「あの……」

次の日

観楠
「昨日の……三郎君の言ったことは気にしなくていいから 落ち着いていこう(笑) 応対の基本は明るくはっきりと誠実に、だからね。これさえ押さえてりゃ、多少言葉がまずくても大丈夫だから(笑)」
「……もぉ口説いてんのか? 彼氏(片山慎也)おってもお かまいなしやな(笑)」
観楠
「違うわいっ!」
美樹
「さすが店長さんですねぇ(笑)」
観楠
「だから、違うってば」
「で、素子さんとどっちにするねん?」
観楠
「なななななんでいきなりなにをっ?(真っ赤)」
美樹
「はぁ、私がいない間にお2人はそんな関係になってたん ですか」
「バイトに女の子しかとらへん理由がわかった(笑)」
観楠
「……お前の思ってることはぜぇぇぇぇったい違うから な(汗)」

数日後

影跳&寧&環
「こんにちはー」
「いら……」
影跳
「なに?」
「いらっしゃいって言ったんじゃない?」
「確かこの子僕ん所の学校の子だよ」
観楠
「いらっしゃい。このこ、新しくバイトに来てくれた緑ちゃ んって言うんだ。まだちょっと仕事になれてないから少々の失敗は大目に見てあげてね」
「あ、あの、よろしくお願いします(真っ赤)」(ぺこり)
影跳
「こっちこそよろしくね(^^)」
「よろしくね。ところでお姉ちゃん。ここのてんちょうさ んって手がはやいらしいから、きをつけてね(子供口調)」
(真っ赤っか)
「寧さん、店長さんは素子って人とラブラブなんだって。 それにこの子にも好きな人がいるらしいよ(寧にささやく)」
観楠
「キミタチ、真顔でそーいう事を言う物じゃない(汗)」
美樹
「なるほど。いつのまにか、そういうことになっていたん ですねぇ。うんうん。世の中って奥が深いですねぇ。
あ、お嬢ちゃん。そういう噂は楽しいからどんどんしましょうね。そのうち尾鰭が付くのが何とも面白いんですよ」
(それを高感度の聴覚装置が聞く)
手の施しようがないほど真っ赤っか)

端の席で誰にも気付かれずにメロンパンを食べる喬。

「(無意識の指向性聴覚で話をキャッチ)ふーん、そうなの か。うむうむ」
影跳
「とりあえず、これとこれとこれ、頂戴」
「僕はこれとアイスティー」
「私はこれとこれとレイコ」
「あの、レイコって?」
「関西でレイコって言ったらアイスコーヒーのことだよ」
「あ、はい」

2、30分して食べ終わる

影跳
「緑ちゃん、おあいそ」
「……」
影跳
「聞こえないよ。金額ともらったお金とおつりはちゃんと 相手に聞こえるように言わないと」
「す、すいま……」
影跳
「ま、俺も初めてレジ打ったときはそんなんだったから気 にしなくても良いよ。
そのうち慣れたらちゃんと出来るだろうし……ねっ」

後日談

観楠
「そーいや竜胆ちゃん、ラーメン屋でバイトしてて、おに ぎり作るのが上手だって、この前言ってたよね」
竜胆
「パン屋でおにぎり売ってどうするんですか(笑)」
観楠
「いや、そうじゃなくって、もしかして、接客上手いんじゃ ないかなって……」
竜胆
「……あたしはバイトしませんよぅ。客でくる方が楽しい し」
観楠
「そーじゃなくって。緑ちゃんに教えてあげられたりする かなって……ほら、僕がやると朝とかがからかうから」
竜胆
「接客ですか……ううっ、接客にはいや〜んな思い出が」
観楠
「ヤな客でもいたの?」
竜胆
「ええ。それはもうチョムカーで、さいてーなおやぢが。 あ〜なんで、おやぢってああも独善的でうっとーしくて、ついでにバカでスケベなのかしら、信じらんない! ギモンだわ!」
観楠
「じゃあ、あまり接客は得意じゃ……」
竜胆
「っていうか、そーいうことがあったから、接客はしたく ないんです……ごめんなさい」
観楠
「いや、謝らなくてもいいって(汗)……僕が教えるしかな いか……」
竜胆
「そーいうのが店の偉い人の大事な仕事でしょ?」
そのまた数日後。観楠の緑改造化計画が始動する---------------------------------------------

観楠
「あー……緑ちゃん。時間、いいかな?」
「は、はい」
観楠
「ちょっと、イメージトレーニングしてみようと思うんだ」
「はぁ」
観楠
「まず、目つぶってね」
「こ、こうですか?」
観楠
「で、今から言うことをアタマに思い浮かべてみよう。ま ず、緑ちゃんはいつも通りレジにいる」
「(えーと、私はレジにいて)」
観楠
「で、表のベルが……(おもちゃのベルを鳴らす)」
「(びくっ)」
観楠
「鳴ったらもう緊張しちゃうのか(苦笑)」
「す、すいません……」
観楠
「(こりゃ……こまったぞ。いきなりコケてしまった)」
「あ、あの」
観楠
「(めげてる場合じゃないな) う、うん。じゃ、ベル無し にして、お客さんが入ってきたところからやってみよっか。僕がお客さんやるから、応対してみて」
「はい。お、おねがいします……」

突然ドアを蹴り破って一人の男が現われた!

「はははははははははははは! 今からこの天才、正様が 注文してやるから覚えろぉ! アンパン4つウグイスパン5つクロワッサン3つアップルパイ3つカレーパン2つチョコパン6つ2色パン5つレモンパイ2つタルト2つメロンパン1つ食パン3つレーズンパン4つショートケーキ3つジャムパン4つコッペパン2つカニパン4つチョココロネ4つにアンなしのアンパン5つだぁぁっ!」
「え、えーっとアンパンが40個で……」
観楠
「ち、ちょっと正さんっ! 何ですかいきなりドアを蹴り 破って!」
「何と言われても注文しただけだが」
観楠
「注文って言ってもですね、アンなしのアンパンって一体 何ですか! それに途中でショートケーキなんか入ってるし!」
(凄い! 店長さん覚えてる!)
文雄
「あとは扉の改装費の寄付をしたいのですがという注文を したわけだな(扉のほうほ指差す)」

その後……

(カランカラン)

美々
「あろー(笑)」
「あっ、美々さん」
美々
「バイト頑張ってる?(笑)」
「それが……ダメなんですぅ(泣)」
美々
「え、なんで?」

(かくかくしかじか)

「で、知らない人に挨拶するだけでドキドキして(泣)」
美々
「うーん(笑)」
「……やっぱり無理なのかなぁ」
美々
「そんなことないと思うけど。 でも、『いらいら』しか 言えんっていうのも難儀やねぇ(苦笑)」
「……(泣)」
美々
「うーん……」

(相談タイム)

美々
「あっ、いいのがあるで!」
「?」
美々
「ほら、よく言うやん。 人前で緊張する時には、周りを カボチャや何かに思えってヤツ。 アレでいけば、緑ちゃんでもなんとかなるんとちゃう?」
「ええー、なりませんよぅ。 そんな、いきなり人をカボ チャに思えって言われても……(泣)」
美々
「だいじょぶ、だいじょぶ。 そのために、あたしがいる ねやんか(笑)」
「?」
美々
「じゃあ、ちょっと目ぇつぶってや……」
「?」(ギュッ)
美々
「……はい、目ぇ開けてええよ」
(パチッ)「……え、あれ?」
美々
「はい、あたしの顔が何に見える?」
「……目鼻のついたカボチャ?」
カボチャ美々
「じゃあ、あっちにいる店長さんの顔は?」
「やっぱり、カボチャ……」
カボチャ美々
「向こうの席でトランプしてる兄さんたちは?」
「カボチャ……」
カボチャ美々
「ほら、よかったやん。 皆がカボチャに見えるなら、緊 張することもないんとちゃうの?」
「ん、んぅ……(悩)」
カボチャ美々
「これで新しいカボチャさんが店に来ても、普通に挨拶で きると思うけど?」
(キョロキョロ)「たしかにカボチャさんには緊張しません けど……」
カボチャ美々
「ん?」
「こんなに周りにカボチャさんばっかりだと……」
カボチャ観楠
「あれ……どうしたの、緑ちゃん。 顔色が悪いよ?」
「……カボチャさんばかりだと……」
カボチャ美々
「え?」
「私、怖いですぅ!!(大泣)」
カボチャ美々
「……やっぱあかんか(苦笑)」
美々
「失敗、失敗。今度はナスにしよ(笑)」
 緑
「ひ、ひぇ。こ、怖いからやめてくださいぃぃ美々さぁぁ ん」



連絡先 / ディレクトリルートに戻る / TRPGと創作のTRPGと創作“語り部”総本部