エピソード330『人を理想化するのは……』


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エピソード330『人を理想化するのは……』

「素子、ちょっと夕刊取って来て」
素子
「そこの机の上にあるよお」
「あ、ほんとだ。……えーと、手紙は。はい、あんたには 塾とか予備校とかの勧誘。この大きい封筒はおとーさんですか」
「む……あれ? いや、これ素子宛になっとるぞ」
素子
「え? ……誰から?」

封筒を持って2階へ上がる。

素子
「差出人は……NKVD工作員・石原完爾……なんだ三郎か」

	拝み啓す、元気に死んでいるか。
	当方は元気に死んでおり、まもなく危篤だろう。さて、先日の
	吉野山中決死行を作品にまとめたので送る。くれぐれも破損、
	紛失、焼却、爆破、車窓よりの散布、食用、酸もしくは塩基に
	よる溶失の無きよう取り扱いに注意すること。インクジェット
	プリンタによる印字なので、水に極度に弱い。コーヒーをこぼ
	してもこの紙で拭かないように。敬し具る。

	追撃	貴君の英語赤点回避を記念して、以下の英国諺を送る。
		One idealizes people when they'er away.

			発・NKVD工作員石原完爾 宛・浅井素子


 また訳の解らんことを……とか思いながら、英文の解釈を試みる。

素子
「一人のなんたらの人が離れている時。……違うかなあ。
一つのなんたらが離れている人々。離れている人々の一人。……違う。あ、このidealizesが動詞かな。……辞書、辞書……」
英和辞書
 idealize v.1.理想化する。理想化。
素子
「となると……」

どき。

素子
「……人を理想化するのは人と離れた時である」

どきどき。

素子
「人と……離れた……。
……また夕方だけど…………行こう」
観楠
「しかし三郎君、毎日来てるけど大丈夫なの?」
三郎
「ん? 別におれはガイキチってわけでは」
観楠
「いや、そーいうのじゃなくて。他の高校生組はみんな勉 強してるみたいだけど君はいいのかなあと思って。ここで本ばっかり読んでるけど」
三郎
「ああ、そりゃこのへん最近本屋がいっぱいできたからね。 読む本なら無数にある」
観楠
(……答えになってないような……)
三郎
「だいじょーぶ、少しは学習も敢行しておるます」
観楠
「あ、そう……」
三郎
「こーいう訳書だって、本当はきらいなんだけど英語の勉 強にもなるからとりあえず読んでるんだし」
観楠
「日本語訳された本読んでて勉強になるの?」
三郎
「文体がそのまんま英語だから……」
観楠
「原書は英語なわけ?」
三郎
「うん、Out of sight, out of mindって本」
観楠
「……去る者は日々に疎し?」
三郎
「というルカーチの書いたエッセイ集」
観楠
「ふーん、去る者は日々に疎し……そういえば三郎君、ネッ トに書いてた『吉野山中決死行』ってあれ実話なの?」
三郎
「ぬ? いかにも。岩に枕し流れに漱いだ記録です」
観楠
「ふーん。吹学のほうで行って来たのか……」
三郎
「最近ほかのやつ滅多にここ来ないんでしょ」
観楠
「う、え? あ、まあ」
三郎
「消息または手掛かりといった所も兼ねて書いてます。
……じゃ、そゆことで。そろそろ帰ります」
観楠
「あ、はい。……もうすぐ月末だから、雁首揃えといてね
……ってもう帰ったか」



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