吹利市。1997/4/21午後四時。
吹利大学のキャンパス、生協前の公衆電話。
ほぼ同時刻。大阪市内。
雑踏の中。大股に歩く黒いロングコートの男。
前から来る人間はその目を見ると慌てて目を伏せ、道を空ける。
だが無情なPHSのベルの音がささやかな御影の希望を打ち砕いた。
不満げな嘆息。
すれ違ったオバサンがビクッと震える。御影は雑踏を避けて公園に入った。
公園の時計は四時半を示していた。
同日。午後六時十五分。ベーカリー楠。
カランカラン。
ジーンズに黒のロングコートといったいでたちの御影、大股に入ってくる。ベーカリーには、文雄、尊、豊中、琢磨呂といった面子。高校生組は今日はすでに帰っている。
無言のまま、パンを口に運ぶ御影。ふと、尊と目が合う。
にっと笑う御影。
からんからん。
トレッキングシューズに汚れたブルージーン、米軍払い下げのジャンパーといった姿の大柄な男、十だ。入口に白木の杖を置き、ポケットの中につぶやく。二匹のオコジョが走りだし、ベーカリーの入口に消えた。
十は迷わずレジに向かうと、傍らの「パンの耳¥30-」を掴み、観楠に差し出す。
同日午後六時四十五分。吹利市街のガソリンスタンド
その日竜胆は久しぶりの休日を使ってツーリングに赴いていた。
ペッタンコな胸と尻、フルフェイスのヘルメットで男と間違われたり、ちょっと年齢を間違われて白バイのおにーさんにけげんな顔をされた以外は特に問題のない、(本人は大有りだろうが)長閑な春の日だった。
その時、彼女の耳にガレージの中の話声が聞こえて来た。
会話の調子は明らかに怪談めいたものだった。
ふと、竜胆は地図を頭に描いた。聞き覚えのある場所だった。
自分が自分なので事故のことを心配はしなかったが、もともと怪談の類は苦手だ。竜胆はひとまず今日は通るのをあきらめることにした。
同刻。ベーカリー楠。
あくびをする琢磨呂。傍らの文雄に話しかける。
ブリーフィングは終ったらしい。琢磨呂の背後に御影の姿があった。
御影の顎下にはベレッタM93Rの銃口があった。
ベーカリー楠の店先、尊はしゃがんで植え込みの下を覗きこんでいる。
そっと、オコジョの光る目が尊を伺う。おだやかな雰囲気に緊張が緩む。
二匹のオコジョはつっと尊の肩先にかけ昇る。
尊は小さくそうですかとつぶやいた。
男二人はそう言うとベーカリーを後にした。
尊は、出ていった二人を見送った後、首を振ってからテーブルに目を戻した。
笑って、豊中はそれ以上話そうとはしなかった。
言いながら、開けっぱなしになっていた砂糖壷の蓋をした。
琢磨呂、ベーカリーを出て行く
まるで新しい悪戯を見つけた子供のように悪戯っぽい微笑を浮かべ席を立つ。
尊は小さくドアベルを鳴らし、猫のようにスルリと出て行く。
怪訝そうに首を傾げる観楠。
文雄が取り出し開いたファイルには、問題の『魔のストレート』近辺の地図と、その土地にまつわる詳細な資料が挟まれていた。
ベーカリーを出た尊は……。
軽やかに走り出す尊。
その頃、琢磨呂は……
琢磨呂、時雨に電話を掛ける。
そのころ、御影と十は、足早にベーカリーから遠ざかっていた。
同日午後十時四十五分。吹利市街より湾岸に向かう道路。工事中のフェンスがかかり、迂回道を示す看板が出ている。
と、無人の道路に一つぽうっと灯りがともった。
その数は次第に増えてゆく。
もしこの場に霊的感覚を持つものがいたらそのながめと凄まじいエンジンの轟音に戦慄しただろう。
ひしゃげたボンネットに首をのせ、真っ黒に焦げたドライバーがクラクションを鳴らし続けている。
顔の半分がそげ落ちたライダーがアクセルをふかす。
からからと車輪だけの姿の奴もいる。
たとえ郡小のとるに足らない走鬼どもとはいえ、その姿はまさに百鬼夜行だった。
やがて一際大きなエンジン音とともに主が姿を現した。
そして鬼たちの暴走が始まった。
無人の道路の上、周囲の地図をのぞき込む十と御影。
二人顔を見合わせて微笑む。
やがて、路上の人影はわかれていった。
そのころ竜胆は……、
鬼達に追っかけられていた。
もっとも、何か原因がわからなくて怖い話には人並に女の子らしく怖がる竜胆だが、相手がはっきりと浮遊霊の類とわかっていれば恐れる必要はない。
隣の特攻服の走鬼が骸骨の頭で器用ににやにや笑いながら、愛車CBR1100XXに爪を立てようとするのに対し、
バイク上からの手厳しいエーテルアタックがそのニヤついた頭を粉砕する。だが如何せん、数が多い。
その時、竜胆の耳にいつか聞いたエンジン音が響き渡った。それは鳴り響くまで一切気配を竜胆に感じさせなかった。
竜胆はかつて一度そのエンジン音を耳にしたことがあった。
(エピソード『ゴーストライダー』参照)
振り返る竜胆の目にぐんぐんと距離を詰める少し古めのデザインのカウルが映る。ホンダNR500。かつてのホンダのレーシングマシン。
そのヘッドライトには紫炎の鬼火が揺れている。主を向かえた鬼どもの喚声がエーテルに響き渡った。
その瞬間、竜胆の燃えるレーサー魂に火がついた。
CBR1100XXに身を深くかぶせる、魔のストレートはあと百メートル先。
その時彼女の脳には、なぜこの天下の公道にほとんど車が通っていないのかをいぶかしむ思考は存在していなかった。
自分が立ち入り禁止区内に入ってることすらも。
そのころ、琢磨呂は秘密兵器を持ち出していた。
大型狙撃銃PSG1。全長1m25cm、重量8キログラム。
そして、事在る時の為に特別に改造された銃である。
もちろん原形となったのは合法的な無可動実銃(モデルガンの一種)であるが、専用の発射機構と銃身を組み合わせることで、特殊カートリッジを射出する。
一人ごちながら、琢磨呂はPSG1から伸びる電源ケーブルのような物を、腕まくりして左腕のひじに繋いだ。皮膚の間にかすかに見えるコネクター……。
琢磨呂の左腕が、鈍く光る。皮膚の下で発光しているのだが、その明かりがかすかに漏れる。
ブゥゥゥゥゥゥゥウン……
ブワァァァァン……
琢磨呂は、夜間迷彩マットに身を沈めると、息を殺してスコープを見つめた。
スコープの十字線は、魔のストレートのセンターラインをぴったりと捕らえてはなさない。
同刻、一。魔のストレートにつき当たる廃ビルの屋上。
陣を張るのとは違う、明確な意志を持った力線がビルの頂上から東西南北に向かい伸びてゆく。
十は弾かれたように屋上から身を乗りだし御影の姿を捜した。
顔を伏せたまま、竜胆は力線を感じた。一瞬反応したからだが持ってゆかれそうになる。股を締め、必死で耐える。周囲の雑霊が悲鳴を上げるのが聞こえた。
振り返った時竜胆は自分が何かとすれ違ったことを感じた。それはおたけびを上げる黒い影だった。
それより少し前、御影。路上。
御影は靴の紐を締め直し、深呼吸した。
そして、弾かれたように音に向かい走り出した。
強力な脚力によりぐんぐんと加速力がついてゆく、風を巻いて影が走る。やがて、彼の目に二つのバイクの姿が見えた。
CBR1100XXとホンダNR500。人が乗ってるのは前のCBR。後ろのホンダNR500には何も乗ってはいない。
時速百二十キロで走る鉄の固まりに百七十七センチ七十五キログラムの肉の固まりが突っ込んだ。
御影のタックルだ。
カウルが弾け、フロントフォークが飴のようにひん曲がった。元から割れていたヘッドライトに一際凶悪な光が宿った。
ホンダの前輪が浮く。伸ばした御影の両腕がハンドルごと車両の前部をリバースフルネルソンに捕らえた、
だが、ホンダの動きは止まらなかった。ウィリーの態勢のまま加速を続ける。
御影は両腕を全力で締め上げた。胸の中でカウルの残骸が砕け、ハンドルが曲がってゆく。ヘッドライトがひしゃげた時、不意に御影は腕の中のものが変質するのを覚えた。
金属のフレームがゆがみ、まごうことなき牙が剥かれる。クロームメッキの牙に歪んで御影の顔が映る。
そしてその牙が御影の肩口に打ち込まれた、
痛みはない、だが、
衝撃のためか一瞬グリップが緩む。そして、動くはずのない前輪が駆動した。御影の体を黒いタイヤが削り、ゴムが焼ける。
指が剥がれた。NR500は態勢を取り戻す。御影の体がアスファルトに叩き付けられる。
そればかりではない。まだNR500は時速百二十キロで走っている。
御影は顔からアスファルトに着地した。
常人なら、下ろし金で下ろしたように皮膚は裂け、肉は弾け、骨が削れたろう。だが、御影は常人ではない。
彼はそのまま百メートル顔でアスファルトを掃除した。つかんでいたバックミラーが壊れて落ちなかったら、後百メートルは同じようにしてひきずられたろう。そして御影の顔面ブレーキは無駄ではなかった。
その百メートル、NR500の走行速度は時速八十キロまで低減した。
その。刹那!
火花を伴う弾着とともに、エーテルコーティング型対妖魔弾頭がNR500のエンジンを直撃した。エンジンルームに物凄い運動エネルギーの直撃を受けたNR500は弾かれるように前方に転げ込んだ。
御影を巻き込んで。
クロームがアスファルトを削り火花を散らす。そのまま二十メートル、横たわったままNR500は路上を滑走した。
御影はNR500と道路の間でサンドイッチになっていた
エーテル送出ケーブルを腕から外すと、念のためベレッタM93Rを抜いて、立ち上がった。
残骸の中からむくりと黒い人影が立ち上がる。
当然の事だが、衣服はボロボロだ。
その時、セルモーターの音が響いた。
残骸にふつりと鬼火が浮いた。
御影がふりむくより速く、M93Rが対妖魔弾を打ち込んだ。が、想像を絶する封印のなされたエンジンルームは、エーテルコーティング型対妖魔弾頭が中央部までめり込むことを許さなかった。表層は貫通したが、内部にある肝心の部分に退魔薬が浸透しなかったのだ。
燃焼室の一部に穴が空いているにもかかわらず、NR500はエンジンの咆哮をあげる。
回避行動をとりながら叫ぶ琢磨呂。絶妙のタイミングで竜胆のエーテルウォールがNR500を阻む。が、NR500は構わなかった。ヤツは離脱を目的としていた。
御影の声が虚しく響く。NR500、いや、黒い鋼の獣は解き放たれた猟犬のように闇を駆けた。
一方、そのころ、十の張った結界の外で尊は群小の邪霊どもに囲まれていた。
ゆっくりと周囲の邪霊をねめつける。
闇夜にも映える真紅の唇。
その口元が動いた。
嗤いの形に。
鞘に納まったままの漣丸を後手に構えると、そのままスゥ、と姿が闇に融けた。姿も気配も消えた尊に邪霊どもが戸惑いざわめく。
キンッ。
甲高い鍔鳴りと共に銀光が閃き、雄叫びを上げていた無数の邪霊どもが凍り付く。
闇を切り取るように再び姿を現した尊の周りで、凍り付いた邪霊どもが尽く燃えが上がる。
楽しげな笑みを浮かべたまま、御影たちの方へ音も無く疾走する尊。
その耳に獣の咆哮が届いた。
非常階段を駆け下りる大柄な男の姿。八階建てのビルを40秒で駆け下りると、十は標的のくるはずの方向に目をこらした。だが、深い闇は視線を遮り、かすかに爆音のみが聞こえる。
オコジョの姿が風に溶け込む。十は苛立たしげに唇をかんだ。集中は解いてしまった。しばらくすれば他の鬼どもも作戦地域に侵入してくる。標的がそれらの鬼どもを呼び出すことも考えられた。面倒事は避けられそうにない。
驚く十に対し文雄は落ち着いた物腰で語りかける。
そういうと文雄は無造作にルーズリーフの束を十に放った。手に取ったとたん、なじみある悪寒が背筋を走る。ルーズリーフには顔のついた車輪が恨めしそうな顔で張り付いている。
十は弾かれた様に顔を上げた。ハッキリとした爆音が二人の耳に届いた。
駆ける、駆ける闇を駆ける。
闇を裂いて闇の風が道を駆けて行く。
たったったっ。
路上を蹴る爪先は重力から解き放たれた物にのみ許された軽やかなスタッカートを刻む。
轟、と風が鳴いた。違う、軽やかな風のたてた音ではない。もっと異質な、もっと重い、もっと粗野な獣のたてた音。
すっ、と闇が微笑む。黒い闇に紅が浮かぶ。風の中から陽炎のように白刃が浮かび上がる。
青白き燐光に包まれた魔性の姿を闇は捉えた。クロームの牙に、強化プラスチックの鬣、鋼鉄の心臓を備えた魔性。
魔性は闇を視認すると、足を止めた。魔性と闇が対峙する。
どれほどその対峙は続いたろうか。
数秒? 数分? それとも、数瞬?
固形の沈黙を遠くかすかなエンジン音が砕いたその時、
闇と魔性が交錯した。
跳ね上がり、もんどり打って路上に倒れたのは魔性。切り落とされた前輪部が倒れた魔性の体からほどないところに落ちる。
地に伏せ、転がって間合いを切ったのは闇。刹那を切り裂いた漣の刃がもう一度ひらめく。尊は魔性に向き直り、漣丸をかまえた。
闇の面(おもて)に浮かぶ微笑みは果たして剣士の余裕か、術士の自信か。
応えるように魔性がずるりと体を起こす。斜めに切り落とされたフロントフォークから逞しいクロームの爪が生えていた。偽りの車輪を捨て、魔性の獣は自らの姿を表しつつあった。
と、高圧ガスの気化音がし、弾着音が弾けた。シェル弾から弾けた魔装薬が魔性の獣の鬣を焦がす。苦悶の咆吼が耳を聾した。
バイクと原動機付き二輪が、尊の傍らに止まる。遠く聞こえたエンジンの音は竜胆と琢磨呂の物だった。琢磨呂の原動機付き二輪にはボロボロのコートをまとったサングラスの男。御影だ。
再びM93Rが唸る。鬣を打ち抜いて弾が魔物の体にめり込む。再び咆吼が響く。
幽鬼のような姿の御影に一瞬唖然とする尊。その背後で魔性の獣はメタモルフォーゼを終えた。
御影は魔性に無造作に近づき渾身の拳を振り下ろした。自分の体が傷つくことを考えない、無造作といえば無造作すぎる打撃だった。
ばこん。
間抜けた音がして、タンクがへこむ。そしてもう一撃。
魔性は体を起こし、身震いした。
へこんだ体が元に戻る。
魔性が飛んだ。
魔性は彼らの頭上を越えた。爪が抉ったアスファルトがからからと音を立てた。
と、その時。風が吹き、オコジョの姿になった。
十はそう言うと文雄の資料を詳細に見つめた、同時に世界の捉え方をシフトさせる。陰陽五行説にそった世界観にだ。脳裏に周囲の地形、建物、構造物を緻密なモデルとして展開しそれぞれに五行の意味を読み取る。比和相克、相性を読みきり、現状を打開する方策を見当する。彼にとって、科学的な、通常のものの見方で世界を捉えるのと、魔術的な方法で世界を捉えるのは同義のことだった。自分が必要とするときに必要な物の見方ができればいいのだ。だからこそ、陰陽五行説にそった世界の認識をなんの苦もなくできる。脳裏のモデルに八卦図が重なり魔のストレートに一本の道が通った。
キノエが火花を散らして消えた。文雄が十の示した地点を見て呆れたようにいった。
火花が弾け、燐光を発するオコジョの姿が現れた。廃ビルに近いマンホールの中だ。
一際大きく放電が起きた。そして、ガス管に引火した。爆風がビルを揺すった。そして、ビルの地下で渦巻く風は唯一の開口部をめがけ、突進する。ビルの正面玄関から秒速50メートルの猛風が空気の弾丸となって魔のストレートを驀進した。
同時に十は榊の葉をまき、風にのせた。疾駆する黒犬獣は風の唸りを聞いた。見開いた目に、力の篭った木の葉が被さる、その途端、風の流れが黒犬獣を飲み込んだ。黒犬獣はアスファルトに爪をたて、その風に耐えた。だが、二枚三枚と木の葉が身体を打つ。軽い木の葉はしかし確実に魔性の視野と身体の自由を奪ってゆく。
竜胆と琢磨呂がその風に会ってバイクのコントロールを奪われなかったのは、事前に知らされていたからだった。爆音が届いた瞬間二人は反射的に黒犬獣から離れた。それが幸いした。
200気圧……想像を絶する圧力で射出されたセラミック弾頭が、クロームとせめぎあい、火花を散らす。2度、3度。
そこで射撃は止まる……シャキッ。弾倉を変える音が、バイクの爆音にかき消される。
そして4度目、今度は火花ではなく大きな大きな火炎が立ち上った。御影が拳を叩き込んだタンク部分にセラミックの貫通弾頭を何度も当て、穴を空けたところで炸裂弾をぶち込んだのだ。ほとんど燃料なぞ残っていないとは言え、少なからずタンクにこびりついていた残存軽油に炸裂弾が火を付けたのだ。
炎に包まれるNR500。
風にかき消されながらも琢磨呂は自慢の大声で叫ぶ。
ズ……ドン! NR500にひときわ大きな花火が上がる。
刹那、宙を舞った御影は、減速したNR500のシートへと身を沈めた。
だが御影にはいっこうに気にする気配はない。
爪がアスファルトを削り、魔性が爛々と燃える瞳で御影をねめつけた。
轟と魔性が吼え猛る。答えて御影が哄笑する。
いずれが魔性か、いずれが鬼か。二つの修羅は暴力の宴を開始した。
御影が殴る、蹴る、引きちぎる。そのたびに哄笑は高くなる。
獣が噛み砕く、引き裂く。そのたびに御影は倒れ、そして立ち上がる。
すでに、その戦いは人外の物だった。
いつか、周囲は炎の海になっていた。違う、あの廃ビルまで暴力の嵐は吹き流れたのだ。
御影は獣の背中に馬乗りになり背後からその首を締め上げていた。獣は跳ね上がり背中から落下する、そのまま身をよじる、だが、鉄のくびきは獣を離しはしない。
やがて獣はビルの壁に気がついた。盲目的な怒りが獣を突き動かした。獣は全力でそのビルの壁に向かい突進した。ビルの壁に放射状のひびが入る、御影の肺から空気が絞り出される。二度、そして三度。
だが、まだ御影の腕はほどけない。
獣は壁に爪を立てると、壁面を疾駆した。
廃ビルの下、もうもうたる煙に包まれて十は問うた。だが、返事が返ってくるより速く聞き慣れた叫びが聞こえてきた。
衝撃が伝わる、二度、三度。そして、修羅の哄笑が聞こえなくなった。十は目を細める。その時、二台のバイクがブレーキの音を立てて止まった。
全員の視線が廃ビルの壁面に向いた。ビルの壁面に爪を立てて上って行く獣、そしてその背には黒い人影。
十はそう一人呟くと、姉弟の式神を呼び出す。
廃ビル屋上の床が炸裂したように弾けた。ガレキの中から、争う修羅が二つ。獣の牙が御影の左肩を捉えた。そしてそのまま驚異的な力で振り回す。肉が裂け皮膚の破れる音がした。肉片を散らし、御影の体は人形のように貯水タンクに突っ込んだ。
貯水タンクがひしゃげ、中から水が溢れかえる。力を失った四肢がだらりとぶら下がる。獣は、ようやく唸りをやめ、屋上から吹利の街に勝利の凱歌を咆吼した。
ビルの下、炎の中に集まる者達にもその雄叫びは聞こえた。
尊、文雄、竜胆それぞれの瞳が十に向く。だが、十はその視線にはかまわず事務的な口調で告げた。
そして、ようやく心配そうな表情に気付くとかすかに笑みを浮かべて言った。
むくりと死体にしか見えない肉体が起きあがった。肩から流れる血潮はしかし、水に濡れた黒のコートに紛れて見えない。赤く見えるのは一ヶ所のみ、弾けたような肩口の咬傷だ。
振り返りざま獣が飛んだ。クロームの牙が闇夜にぎらりと光る。
御影は、力を込めて、しかし無造作に拳を突き出した。獣の口にめがけて。クロームの牙が折れ飛んだ、オイルが口から溢れだし返り血のごとく御影の体に降り注ぐ。がくがくと牙を失った顎がむなしく腕をかむ。爪が、御影の体を引き裂く。
だがそんなことは意に介さず御影は獣の体を抱え上げ、一気に膝に落とす。有機的な音を立てフレームがひしゃげた。シュミット式のバックブリーカーだ。
そのまま腕を引き抜き、くの字になった獣の胴をクラッチする。そしてぶっこ抜き、落とす。御影の体が見事なブリッジを描く。文句なしのジャーマンスープレックス。
勢いは止まらなかった。そのまま回転し、体を入れ替える。両膝で、獣の頭を捉え、胴をホールド。そして、そのまま御影と獣はビルの屋上から落ちた。
落差二十メートルのパイルドライバー。
それはあまりにばかばかしい眺めだったのかもしれない。
誰もが、御影の哄笑を聞いた、気がした。
そして、絡み合う二つの影が地上にたたきつけられる瞬間、二体の式神がその力を振るった。
もう一度爆発が起きた。炎の柱が影を飲み込んだ。
いくつか残っていたガラスが砕け散った。
十は頭を掻いて言った。
そして、十は渦巻く炎の中に歩んで行った。
がらりと瓦礫の山からぼろぼろになった男の姿が現れた。
御影だった。服のあちこちを炎の舌が舐めている。だが彼は何も気にしてはいなかった。それでもさすがにサングラスが割れ、素顔が明らかになっている。
御影の笑いが急に止まった。
瓦礫から闇がしみ出してくる。はじめはただのもやだったそれは見る間に赤き瞳と黒き毛皮を持つ魔性の獣の姿をとってゆく。
十は金剛杖を自分の前に突き立てた。
とたんに炎が舞い上がる。十の唱える真言に答えるかのように炎は次第にその勢いを強め、まるで光背のように十の周りに舞った。
獣がゆっくりと体を動かす。金属の体を失ってなおそいつは強力な圧力を有していた。
神歌に答え不意に炎が絹索となって獣を縛り付ける、ように見えた。とまどうように歯がみする獣。カッと十の目が開かれた。
十の左手にキノエが、右手にキノトが絡んだ。十の背中に炎が渦巻く。
そのとたん、渦巻く炎が獣を包んだ。絶叫が聞こえた。エーテルの体を神火が焦がす。
だが、その瞬間。
周囲の闇が濃くなった。瓦礫の中から鉄筋が不意に持ち上がり十めがけ、飛んだ。
王の最後の叫びに答え、走鬼共が殺到したのだ。全く突如だった。彼らはその牙を十に突き立てる事を、疑ってはいなかった。
だがそこには彼らがいた。
エーテルの光を伴った拳が、
M93Rの銃弾が、
冷たく光る漣丸が、
白く風に舞うルーズリーフが、
彼らの最後の望みを打ち砕いた。
そして、十に向かい放たれた鉄筋は、替わりに御影の右胸に突き刺さった。
そして二人は顔を見合わせ。笑った。
後日。特殊物件課にて
カレーパンを貰ったものの、ほかの職員の人にシュークリームを差し入れる御影を見て愕然とする十。
そして……
よほど頭に来たらしい。頑丈とはいえ、相方に式神を向けるとは。
そんな話をしている式神達に紙袋に手を突っ込んだまま近寄る御影。
シュークリームを2個取り出して……
無言で受け取るキノトとキノエ。
一の方をちらっと見て意地悪そうな笑みを浮かべたかと思うと、オコジョの姿になって両手(前肢)で抱える程のサイズになったシュークリームをはむはむと食べはじめる……。
膝をついてがっくりとうなだれる一。
さらに後日。
からからん。