午前9時、松蔭堂。
店先のごもくたは綺麗に片づけられている。
引き戸の格子に「誠に勝手ながら本日休業させて頂きます」と墨書した紙を貼りつけて、訪雪が薄暗い店の中に消える。
いつもは伸ばし放題の髪を撫で付け、煤竹色の長着に共地の羽織を合わせた、彼にしては珍しくきちんとした格好をしている。
足袋の裏を気にしながら座敷に戻ったところで、蔵から出て来た十と顔を合わせる。
財布と手帳を袂に落とし込んで、訪雪は松蔭堂を出る。
京都のとある美術館の応接室。
小柄な童顔の男が息せき切って入って来るのを目にして、訪雪は待っていたソファから立ち上がる。
訪雪の向かいに腰を下ろした浦上は、腕に抱えていた細長い桐箱をテーブルの上に置いた。長さ80cm弱。注意深く取った蓋の下に、紫色の布に包まれたものが入っている。
少なくとも大学にいる間、訪雪はそれほど成績優秀とはいえなかった。
早口にそう言って、浦上が布包みをテーブルに出し、手袋をはめた手で静かに広げる。
銀の透かし彫りが蛍光灯を反射して、金梨地の鞘に唐草の飾り金具をあしらった、ひと振りの太刀が現れる。
二人は複雑な表情で顔を見合わせる。
短い沈黙。
胃が重い。
『あっち系』の世界に首を突っ込んでからこのかた、ろくなことがなかった。
自分には見えないものを扱わざるを得なくなって、一生見えない、知らないままでいられたならどんなに幸福だったろうと、幾度思ったことか。
運ばれたコーヒーを一口啜って、浦上は話しはじめる。
石鹸、水、そして消毒液……汚れと皮脂とを執拗に落としながら、訪雪は荒れた指先に目を落とす。
5分ほどして戻ると、待っていた浦上が心配そうな顔で立ち上がった。
刀は既に、部屋の隅のより広い机へと移されている。
机の平面からなるべく離さないようにして包みを解き、太刀を手に取る。
懐の眼鏡を鼻の上に載せて、まずは骨董屋の目で全体をざっと検分する。
柄を持って静かに抜くと、鞘の下から銀色の光がこぼれた。
錆ひとつ浮いていない、片刃の刀身。刃文は……
浦上はポケットから大判に焼いた写真を出して、訪雪に差し出す。
柄と鞘を持った手をそのままに、指先の皮膚のもうひとつの感覚器から脳へとつながる神経を思い浮かべて、太刀の内側、物質自体に染み込んだ記憶に意識を開放する。
過去に起きた何かが要因ならば、幾人もの研究者を動かすほどの何かがあるならば、それは必ず見えてくるはず。
研究室の殺風景な白い壁。薄暗い屋敷の一室に澱んだ黴の臭い。
戦を避けて地方に移り、窮乏の一時期を伝統と自尊心でしのぐ。
それ以上の波乱を含むようなものはない。
そう思った、次の瞬間。
黒い水、泡立って膨れ上がる海水が、意識の中に雪崩れ込んできた。
雷鳴に浮かび上がる水面の向こうには、叩きつける雨と暗い空。
轟音の彼方、沈みゆく者の最後の一声。肺を満たす塩水の苦味。
現実の身体が、送り込まれたイメージに反応して激しく咳き込む。
呑まれる。思考の隅に浮かんだその文字に縋るようにして、記憶の奔流から自我を引き揚げる。渦巻く海水を、洗面所のシンクの水のイメージにすり替えて、意識の手で排水口の栓を抜く。
ヲレハ今応接室ニイテ、乾イタ机ノ上デ太刀ヲ手ニシテイル……
澄んだ水の渦が静まっていくに従って、身体感覚が戻ってくる。
たまりかねた浦上の呼ぶ声で、現実世界をはっきりと再認識する。
額に浮いた脂汗が、太刀と包みの上に落ちないようにする程度には、身体のコントロールは戻ってきている。
強張った手で鞘を戻す瞬間、細く白い刃の輝きが見えた気がした。
怪訝そうな眼差しに視線をぶつけて、頷いてみせる。
浦上は深い溜息をひとつついて、それから穏やかに笑う。
その晩、松蔭堂にて。
夕食に現れない訪雪を、先代が呼びに行く。
文机の前に蹲った訪雪の腕の中には、見覚えのない細長い桐箱。
それ以上何も言わず、凍雲は部屋を出る。
深夜。
寝床からむくりと起き上がった訪雪が、枕許の桐箱を取り、スタンドの仄暗い灯りの下で太刀を取り出す。
眠りに落ちる前のとりとめのない思考の中で、もしかしたら、と思うことがあった。
鞘を右手に、柄を左手にして、そっと抜いてみる。
片刃の刀身には、研ぎ澄まされた刃だけが持ちうる、一筋の鋭い光が走っていた。刃の具合を確かめるために、刃に指先を当ててみる。
研ぎの良さを皮膚で感じた瞬間、手元が狂って、親指の腹に紅い線が走る。普段なら、絶対にありえないミスだった。
絆創膏の入った小引き出しに伸ばそうとした右手は、意思に逆らって刀の鞘を握ろうとする。
昼間体験した海水の味が、口の中に蘇ってくる。
肩の力を抜いて、正座した膝の上に太刀を横たえる。
外界への認識を絶たないために、瞼はうすく開けておく。
自分に霊感がない以上、太刀に憑いたものと双方向の交流をもつには、意識の内面まで呼び込んで擬人化するしかない。
刀から流れ込んでくる力を、逆らわずに意識の中に導き、自我に取って代わろうとするそれを、自我と向かい合う、もうひとつの意志体としてイメージ化する。
人。海で死んだ。多分船乗り……
全身ずぶ濡れの若い男。袴姿らしい、と辛うじて判るところまでが、イメージを創る訪雪自身の造形語彙の限界。
息が声帯を震わせるのを意識しながら、はっきりと声に出して、相手に語りかける。
水の中で喋るような、ごぼごぼ、という響きのある声で、男が何事か答える。
時折その姿が不安定に揺れるのは、まだ完全にはイメージが固まっていないからであろう。
男が頷いて、返事の代わりに口からぽこり、と泡を吐き出す。
意志を示したことで、擬人像が成長し、憑き魂そのものの自己イメージ……衣冠帯刀して髭を蓄えた壮年の男へと変化する。
衣冠の男が、重々しく頷いた。
奥の寝間の先代を起こさないように、訪雪は息を潜めて身支度をする。
太刀を抱えた腕を隠すようにして羽織を肩にかけ、素足に草履をつっかけて外に出る。
勝手口を出たところで集中を一部解くと、足は自然に表通りを目指して歩みはじめた。
土蔵の十の下宿、床には万年床。その上に盆があり、一升瓶が載っている。
十は愛用の湯呑みにそそぎ、キノエとキノトは小さな杯からぺろぺろと酒を舐めている。
キノトの方はいい加減酔いが回ったらしい。こてんとひっくり返って、鼻先をぴくぴく言わせている。
微笑みながら、酒を口に含む。と、物音が聞こえた。
十は戸を開け外をうかがう、すると勝手口の方に羽織の裾が見え、やがて戸の閉まる音。
十は部屋に戻るとコートと金剛杖をひっつかむ。キノエとキノトは完全にできあがってる。
同時刻、表通りのあたりで。
とととと、と、走る音が響く。
譲羽は、見てくれは只の人形である。昼日中、堂々と外を歩く訳にも行かない。が、もともと悪戯好きの木霊に『じっとしてろ』というのも酷な話である。
よって、このところ、夜の散歩がこの二人の日課になっている。
フェルトを二重張りにした靴を履いて、譲羽は道を走る。
と。
譲羽が、ぴたりと足を止めた。
てとと、と木霊は走りより、花澄の肩へとよじ登った。
そう聞いて後ろに下がるような性格ならば、周囲も迷惑しないだろうが、いかんせん、そこで前進するのが花澄である。
風が軽く肩を押す。
木霊が警告の声を上げる。
構わず、花澄はそちらの方に進み、角から細い通りを覗いた。
彼女のアパートの、ではない。十の住んでいる蔵の大家である。
何を隠しているのか、妙な具合に羽織を肩にかけている。
どくん、と左手が大きく脈を打った。
はっきり言って、不意打ちである。
早足気味の歩調を緩めぬままで、訪雪が振り返る。
羽織の下、体の右脇に沿って、抜き身の刀身が青白く光る。
常と代わらぬ物腰。
眠たげな濁り目の奥に、色の違う光が一瞬閃いて、消える。
花澄に気を取られた瞬間、中途半端な状態で保っていた集中が、ほんの少しの間だけ途切れた。
崩れたバランスに反応したかのように、脳裏の憑き魂の像が大きく揺れる。
イメージの殻を突き破ろうとする相手の前に、擬人化した自我を向かい合わせて、もう一度語りかける。
訪雪は答えない。
花澄を無視して歩もうとする現実の身体。
声帯の振動する感覚も薄れはじめている。
投影像の額に脂汗が浮き出す。
見捨て給うな。儂は約束を守ろうとしている。この儂だけは。
縋るような目で見下ろす憑き魂の、背後から、内側から、周囲から、無数の不定形の幻像が湧いてくる。
形がないのは知らなかったから。今からイメージに閉じ込めるには、あまりにも数が多すぎる。
これほどの太刀を持った貴人の乗る船。当時でも相当大きかったろう。
そしてその船が海の藻屑と消えたとき、運命を共にした者たちは……
途切れつつある外界との接触を、再び繋ごうとするかのように、花澄の問いに答えを返した、次の瞬間、自我の投影像は幻像の群れに押し包まれて崩れた。
問い返した、その矢先。
すい、と太刀が動いた。
元々殆ど無かった間合いが詰まる。緩慢な動作で太刀が振りかぶられる。
やはり緩慢な動作で振り下ろされた太刀を、花澄は左肩一つ分遅れる形で避けた。
相手の動作を風が読み、水がそれを花澄に伝える。肩に食い込む筈の太刀は、何寸か皮膚を裂いただけに終わった。
左肩あたりの髪が一房、宙に舞う。
苦笑混じりの声がどう届いたのか、訪雪の体を借りた何者かは太刀を構え直した。
それ以上の言葉はなかった。
振り下ろされる太刀筋を風が読み、到達地点を花澄に伝える。それを避けることは大して難しいことではない。
只、それ以上、何が出来る訳でもない。
譲羽が悲鳴に似た声を上げた。
金剛杖を手にした十は、訪雪の後を追って木戸を潜った。
裏通りから表通りへと出る直前の路地で、前方に二つの人影を見いだす。
一人は訪雪。もう一人は。
二人は低い声で挨拶を交わしていた。
花澄の態度にも、訪雪の受け答えにも、別に緊迫したところはない。
花澄の腕の中にいる譲羽だけが、何事かしきりに声を立てている。
声をかけるために、路地を足早に近寄ろうとしたとき、訪雪の羽織の下から銀色の輝きがこぼれて、覚えのある冷たい気配が、ぞくり、と背中を走った。
灰色の水の中にいるようだ。
水、という言葉を思い浮かべた途端に息苦しさを感じて、訪雪は慌ててその言葉を頭から追い払った。
いや、頭や息という感覚自体、いまは存在していなかった。
ものに憑かれたのは初めてではなかったが、感覚系まで絶たれたのは初めてだった。
自分は此処にいる。
多分、意識からも運動系からも切り放された自分の内側に。
意識を乗っ取られたはずの自分にそれが判るのは、恐らく意識以前の段階で自分を決める何かが残っているからだろう。
その領域に言語を持ち込めていること自体、不思議といえば不思議だったが。
ひょっとすると、今の自分は言葉だけの存在なのかも知れない。
無い頭で思考した瞬間、無い鼻腔に血の臭いが流れ込む。
行き場のないはずの思考に、外の身体が反応している。
一瞬蘇った外部との接続。恐らく当たっている嫌な予感。
関わっているのが自分だけなら、目的を果たした連中が身体を返してくれるまで、気長に待ちもしよう。
しかし。
自分を定義する言葉を軸に、崩された自我像を再構成する。
もう一度、意識の表面に這い上がるための、唯一の道具として。
現在の自我は彼らに敗れた。ならばもっと強い……外向きの力をもつ自我を。
まだ背中の伸びていた頃。両眼が疲労で濁る前。
声を上げさえすれば理解されると、努力さえすれば理解できると、無邪気に信じていた、7年前の自分を……
自己の内側に、記憶から創られた21歳の訪雪が立ったとき、無色の空間に初めて「上」という方向が生じた。
花澄に向かって次の太刀を振り上げた訪雪を、背後から羽交い締めにして、十が怒鳴る。
運動不足とは思えない力でそれを振り払おうとする訪雪が、濁り目にこの世のものならぬ光を湛えて振り返る。
十の腕を軋ませて、訪雪が羽交から抜け出し、逆手に持ち直した太刀をアスファルトに突き立てる。
強い潮の香り。
幻影の海水が路面に渦巻いて、夜の商店街を急速に浸してゆく。
実体が無いはずの水が、確かな冷たさをもって花澄と十の足を濡らす。
水位はみるみるうちに上がって、既に花澄のスカートの半ばまでを浸しはじめていた。
周囲の建物は水没しているが、花澄と十、そして目の前の訪雪以外の何ひとつとして、海水をかぶっている様子はない。
自分に守護はない。まして、霊的にはまるで一般人と変わりない訪雪は。
水しぶきのかかるリュックから、花澄の肩によじ登った譲羽が、不意に声を立てる。
訪雪は自分の意識を捜していた。
身体という殻に拘束されない想像力を使って、「上」を目指して、イメージの左腕を無限に伸ばしてゆく。
自己が生きているということは、間違いなく身体も生きているはず。
生きて、呼吸をして、動いているはず。
生命の感触を求めて伸ばした腕が、肺の外壁に触れる。無論自分の肺など触れたことがない。知識で創ったイメージの肺。
動く肺に手を当てているうちに、外部との接触の手段を思いつく。
擬人像の腕に力を込めて、肺を手繰り寄せる。
肺の次は気管へ。声帯、咽頭、顎関節、舌、そして唇……
イメージの身体の一部を、現実の肉体の同じ部分に溶け込ませる。
外からの音が聞こえぬまま、喉に伝わる振動だけを頼りに、取り戻した唇で声を、言葉を紡ぎ出す。
無音の町、彼らの耳だけに聞こえる海鳴り。
突き立てた太刀の柄頭にかるく右手を預けた訪雪は、無表情なまま立ち尽くしている。
十がそう呟いたとき、訪雪の呼吸が不意に乱れた。
呼吸のしかたをまるで知らないかのように、胸郭が大きく波打って、痙攣する喉から、妙なアクセントを伴った、軋るような声が発せられる。
その頃。
マヤと一緒に夜の散歩を楽しんでいたユラは、何か懐かしい感覚にふと立ち止まった。
どことも知れぬ路地。猫だけが知っている道。
マヤの機嫌がいいときには、ユラもこうして猫道をさまようことが許される。
塀の上、裏庭、軒の下、およそ道ではない道には、ときどき奇妙な夜のいきものがしなやかにゆきかったりして、少しばかり非日常の感覚がそこここに転がっている。
だが、今のそれは、そのどれとも違った。
知らんふりして先を行くマヤに呼びかける。
すい、と手を延ばし、マヤを抱きあげる。
懐かしい感覚が、はっきりと形をとった。
匂い。知っている。覚えている。これは、海の匂いだ。
ゆりあげる波、潮を巻き上げる風、海のないこの土地で、何故。
鋭敏な鼻が、風に混じる塩気をかぎわける。
海の気配。それだけで心が踊った。
散歩用の、足音のしない靴が、しなやかにはずむ。
闇色の、やわらかな長いワンピースが足首にまといつくのを軽くさばき、ユラは猫のように走り出した。
腕のなかでマヤが暴れる。
はた、と立ち止まる。
ゆったりとうねっていた海の気配が、急に黒くふくれあがってくる。
風がうなり、潮を陸の奥ふかくまで吹き飛ばす。
豊かな黒潮の流れが渦を巻き、波に触れるすべてを咀嚼し、飲み込む。
結った髪がばらりと解け、激しく顔を打った。
目が痛い。潮が肌をこすってゆく。
木々がひきちぎれ、地のそこを這うような風の重低音は、たちまちのうちにかんだかい悲鳴に変わる。
波が牙を剥く。空に向かって。届かずに怒り狂う。
風が波を拐う。そうしてごうごうと吠える。
マヤが凄まじい声をあげて、ユラの腕から飛び出した。
その瞬間、急にあたりが静まり返った。
見渡せば、ただおだやかな夜。木の葉一枚、揺らぎもしない。
しかし、意識を集中させれば、静かな夜気の奥底に、確かに潮をふくんだ水の気配。
ほう、と息をついた。
強い風、潮のうねり、ほんのわずかな気の緩みのすきまから、あっさりと人の生活を、ときには命を、拐っていくもの。
だが、懐かしい、と思った。
それが、好奇心に拍車をかけた。
ユラは静かに立ち止まり、そっと手を延べた。
初めての鳥に声をかけるときのように、初めての樹の声に耳をすますときのように、すべての感覚を、"外”にひらいた。
遠くから、水の気配がかけてくる。
ユラはかすかに微笑んだ。
そのころ、たまたま夜の散歩をしていた緑は……
緑は反応のあった方へ歩き出した。
そしてこちらは、幻影の水に没しつつある商店街。
既に水面の下になって見えないが、訪雪の手元には、まだあの太刀があるのだろう。
何をするか判らない、しかも凶器を手にした訪雪と、傷を負った花澄を、残してゆくわけにはいかない。
リュックから出た譲羽が、花澄の頭の上で十を見る。
重い海水を掻き分けるようにして、十は松蔭堂を目指す。
勝手口は遠すぎる。ならば表から。
店先の雨戸を体重でぶち破り、靴のまま店の間の板敷に上がる。
雨戸の破れ目から雪崩れ込んだ水が、みるみるうちに店を、座敷を満たしてゆく。
目指すは鍵の手の廊下の先、混沌の支配する訪雪の四畳半。
障子を蹴り飛ばして四畳半に入る。
いつもと寸分違わぬ乱雑さの中央近く、文机の脇に、鞘は投げ出されたままになっていた。
水は胸の高さに達している。
大きく吸った息を止めて、重い海水に頭を突っ込む。
水中で目を開いて鞘に手を伸ばすが、見当が狂ってうまく掴めない。
右手が数回、空しく水をかいたあとで、漸く漆の感触が指先に触れた。
鞘をつかんだ手を水の上に翳すようにして、元の場所に泳ぎ戻ったときには、既に十の足は地面を踏めなくなっている。
花澄は、ビニール袋の中に入れた譲羽を近くの店の庇に上げて、自分は片手で軒の雨樋をつかみ、もう片手で訪雪の上腕をつかんで引き寄せようとしているところだった。
虚ろな目の訪雪は、だらりと脱力して水に漂ったまま、自分から動こうとはしない。
雨樋をたどって二人に近づいた十が、訪雪の腕を取ろうとするのを、花澄は首を振って制した。
肩の傷口から流れ出した血が、周囲の水面を染めている。
傷ついた方の腕の力が緩んで、花澄は雨樋を放しそうになる。
濡れて顔に貼りついた髪の間から、強い眼差しが十を見据える。
塩水は苦手だった。うねる水は黒く、底など見えようはずもない。
十は式神を連れてこなかったことを改めて悔やんだ。この状況下でいかにしてあの太刀を捕捉するか。
太刀そのものはこれほどの現象の結節点になっている以上、普段の十なら探し出すことはたやすいはずだった。問題はここが水の中だと言うことだ。
眼を閉じて、体の力を抜く。水上に顔を出し一度大きく息を吸い、呼吸を整える。そして、水中にそっと立つ。気息さえ整えさせられば五分は活動できる。
その時、十の目の前に白く膨れ上がり体毛の抜け失せた体がゆらりと現れた。輝きを失った瞳がくるりとひっくり返り、十の方を見つめる。
とたんに足を引かれた。黒い水中に大小の気泡が浮く。
足を捉えたのは、藻のように揺らめく人の頭髪だった。海底、いや違う。商店街の路上に一群の人影がたむろしている。彼らは抜けかけたおのが頭髪を操り、十をたぐり寄せていた。
もがいて離れようとする十。その体を傍らの屍が羽交い締めにする。
耳元で屍が何か囁いたようだった。膿崩れた唇から、ガスの気泡が細かく舞い上がる。
十は背後からの腕に自分の腕を絡め、脇の下で屍の肘を逆に取る。繋ぎ目の緩くなった肘はあっけなく折れた。
水中で十の顔がかすかに笑った。折り取った腕の白く膨れた皮膚に爪で呪言を刻みつける。
そして、その肘に口を押しあて呪を口入れる。
一瞬唇に感じた不快な皮膚の感触は、すぐに鱗のそれへと変わっていった。
目の前で折り取られた肘は見る間に一匹の白蛇へと変わっていった。
白蛇は水中で首をもたげると、十の足にからみついた毛髪を噛み切り、そしてそのまま水中を泳いで行く。
十はその後を追う。
やがて、水中にきらめく刀身が見え、白蛇はその刀身にからみつくと口を開けて切っ先を呑み込みはじめる。
十はまだ戻ってこない。
増した水嵩に押し上げられるように、花澄は軒の上に乗って、相変わらず動かない訪雪を引き上げようとしていた。
雨樋をつかむ必要がなくなったおかげで、左肩の傷の痛みは幾分和らいでいたが、大の男を右腕一本で持ち上げるのは、容易なことではなかった。
屋根に上げたビニール袋の中で、譲羽が声を立てた。
木粉粘土の体は、雨に当たればひとたまりもない。
木霊が不意に口を噤む。
急に右腕が重みを感じて、花澄は軒から滑り落ちそうになる。
華奢な手首を、訪雪の左手ががっしりと掴んでいた。
普段の物腰からは想像もつかない叫び。
花澄の腕を手繰るようにして、訪雪は軒の上に這い上がる。
滑った体を左腕で支えようとして、花澄が抑えた呻き声を立てる。
袋の中で縮こまった譲羽を、凶暴な眼差しが睨み据える。
花澄に視線が移ると、その眼の光は薄れて見えなくなった。
雨は小降りになっている。
肩の傷の、雨に洗われた血の痕に目をやって、訪雪の顔が泣きそうに歪む。
近くの水面がしぶきを上げて、十が頭から浮かび上がる。
荒い息遣いに合わせて揺れる手には、鞘に納められた太刀が握られている。
軒の上の訪雪に目をやって、表情が厳しくなる。
差し伸べられた手を払って、十は軒の上に、ついで全員が屋根の上に登る。水の下……足元の家の人間が起きてくる気配はない。
十から刀を受け取って、抑えた感覚で残った記憶を探る。
潮の匂いを濃く含んだ風が、ごう、と渦巻いた。
数軒先の屋根瓦を踏んで、軽やかな足音が近付いてくる。
連なる屋根を跳んで、彼らの前に立ったユラが、刀を持つ訪雪に向かって、広げた手を差し伸べる。
訪雪の声の調子は、いつものものに戻っている。
片手に太刀を無造作に引っ提げた、まるで緊張感のない姿勢で、訪雪はユラと向かい合う。
再び強くなる雨足にも、動揺した表情は微塵も見せない。
己を差す指先に、訪雪は困ったような目を向ける。
鞘のなかほどを握った左手を、ユラの……死者の群れのほうに突き出して。
昼下がりの雑談と変わらぬ調子で、呪いの言葉をぼそりと呟く。
太刀を奪おうと伸ばした手の中で、漆の鞘がぼろりと崩れる。
一瞬にして錆の塊と化した刀身が、トタン屋根の上に降りそそぐ。
声をかけた十の方を振り返って、訪雪は口を開きかけたが、何も言わぬまま元のユラの方に向き直った。
全身を濡らした海水が、塩の結晶ひとつ残さずに乾いてゆく。
渦巻く風の幻聴が、人の哭く声に聞こえた。
脳裏に浮かんだ擬人像が薄れて消える。
次の瞬間には、どんな姿だったのかさえ、もう訪雪には思い出せない。
胸倉をつかむ手を引きずって身を屈め、朽ち残った柄を拾い上げる。
訪雪の言葉に、ユラは烈しい怒りの表情を浮かべかけて、そのまま糸が切れたように崩折れた。
その体を受け止めようとした訪雪が、人の重みを支えかねて、トタンの上に膝をついた。
苦笑する十にユラの体を預けて、訪雪は立ち上がった。
松蔭堂、訪雪の4畳半。
小さな文机と積み上げられた本の間に、3人の人間と1体の木霊が窮屈そうにひしめいている。
花澄の肩の傷には、応急処置のガーゼが貼られ、切れたブラウスの上から訪雪の羽織をかけている。
譲羽は壁の本棚に乗って、花澄の方を見ては心配そうに声を立てている。
一旦意識を取り戻したユラは、今は毛布にくるまって、隅で丸くなって眠っている。
文机の上には、冷めた茶の入った湯呑みが4つ載っている。
小さな風呂敷包みを抱えて戻ってきた訪雪が、文机の傍らに胡座をかいた十に、かるく頭を下げた。
手の中の包みは、太刀を収めるには余りにも小さかった。
松蔭堂に戻る道すがら、訪雪はもう一度だけ、太刀の残骸の記憶を読んでみた。
掌の感覚を目一杯に開いても、最早何も見えなかったし、聞こえなかった。
疲れてはいるが、嘆いても悪びれてもいない、淡々とした口調で続ける。
そして、いまでは顔すら忘れたあの人物との約束も。
膝を揃え、擦り切れた畳に両手をついて、訪雪は深々と頭を下げた。
数日後の松蔭堂。
暑い蔵から脱出してきた十が、茶の間の障子を開けて入ってくる。
恐らく来ることを予想していたのだろう。
水滴のついた麦茶ポットの脇には、新しいグラスが用意されていた。
カットグラスのタンブラーに注がれた麦茶を、十は一気に飲み干した。
訪雪は頷いて、自分の湯呑みからひとくち、麦茶を啜る。
手を合わせる仕草をしてみせる訪雪の頬骨の辺りに、うっすらと打撲の痕が残っている。
麦茶を注いでもらうときから、十はそのことに気付いていたが、その原因については何も聞かなかった。
日本刀のことはよくは知らない。
しかし、何を言おうとしているかは判る。
何事もなかったかのように笑って、訪雪は手の中の湯呑みを空けた。