誰もいない校舎の屋上、給水塔のとなり。
遠くに雷が聞こえる。空気に水の匂いが混じっている。雨が、近い。
少女の長い髪が一際大きく風を孕み、舞う。雲に遮られ届かぬ星明りがそっとその長髪に宿る。
美しいと思った。
こんな時にも。
そう思わずにはいられなかった。
やつれた頬も、落ち窪んだ眼窩も、この一瞬の鬼気じみた少女の美しさを損なうことはできない。
たとえその美しさに忌まわしさを感じているとしても。
その瞳にかつて輝いた光を自分が奪ったのだとわかっていても。
「何故、何故、こんなことに。
何故、何故、逝ってしまった。
そして、何故こんな姿になってまでこの世にあり続ける、
お前は!
お前を「狭間」に連れてくるつもりなどなかった、
お前は「狭間」になど来てはならなかった、
たとえこの身が魔道に堕ちても………、
お前さえ光の下に居てくれたら俺は満足だったのだ!」
もとより答えのあろう筈もない。声にならない問、言葉にならぬ想い。
遠雷が聞こえる。垂れ込めた空がいっそう深くのしかかる。
やがてぽつりと雫が落ちた。
冷たい雨がゆっくりと降り始めた。
差出人の名は懐かしいものだった。封を切ると微かに山の香が匂う。
十はちらりと見ると部屋の奥に向かって呼びかけた。
二匹のオコジョは首を傾げたが、トトトと裏口の生け垣を抜けて行った。
手紙は山形の友人の姉からだった。友人の名を靫負綴(ゆげい・つづり)と言う。
山形を出るときにはまだリハビリの途中で、左足と右腕、そして左目は無いままだった。
手紙にはその後、綴が義手、義足、義眼をあつらえ再び仕事に戻ったこと、今年の夏には帰ってきてもらいたがっているらしいこと、けれど本人が素直じゃないことなどが記してあった。
そして最後に一言、結が髪をもう一度伸ばしはじめたと、記してあった。
十はくすりと笑った。そして笑え得る自分が居ることに少しばかり、驚いた。
土蔵の外に雲が沸いていた。一雨来そうだった。
十は財布を確かめた、いくらか下ろしてからでないと呑みにはいけそうもない。バイト代は振り込まれているはずだった。
屈託のない明るい声。丼に五分の一ぐらい残るご飯の塊を一口で押し込むと十はそのまま首を後ろに巡らせる。屈託なく笑う少年が一人。ホックと第一ボタンを外した詰襟から覗く胸元は、幼ささえ感じさせる表情とは裏腹にたくましく引き締まっている。
綴はそう言うと天麩羅うどんの丼をおき、向かいに座った。
ノリ玉がかかっただけのご飯を飲み下すと、十は再び尋ねた。
きょとんとした綴の顔が見る見る内に赤くなる、十は笑ってかき揚げに箸を伸ばす。
あのころ、こうした会話はいくらでも、いつでもできるものだと思っていた。
他愛のない、意味などない、ただ自分達の関係を確認するだけの、けれど妙に居心地のいい会話。土曜日の放課後、なにをしてもよくて、そのくせ結局何もしないで過ごす時間。
することと言ったら、体育館での3on3、図書館での昼寝、部室でのゲーム、ただある時間を浪費して、それだけで十分に楽しかった頃。
半ばなれ合うように友人がいた。少なくとも学校では一人になることはなかった。
部室に行けば、誰かがいた。
確かに人とは違う生き方なのかも知れないと思うことはあった。
四季の山駆け、物忌み、修行者と高校生の二重生活。
けれどあの時自分は、ゲームのチャートと八陣の図を並べて覚えることにも、仲間達とバスケしたあとに入念な目潰しとそれへの対応を教えてもらうことにも、そんな出鱈目な高校生活にも戸惑ってはいなかった。
新聞部室には邪眼持ちと、自分でもそれと気づいていないエンパシストがいた。新入生に風水師と古流の伝承者が入って賑やかになった。
郷土研究部の顧問はしょっちゅう盲腸で入院してた、その度に町のどこかで鬼の泣く声がした。
入学したとき、邪眼持ちの先輩が山の代理人だと知らされ、面倒を見てもらった。
そして、はじめての仕事もその部室で請け負ったのだった。
同級生の綴の腕は良かった。五人相手の荒事にも信頼して背中を預けられた。
ときおり二年生の綺夜美がエンパス能力に振り回されることがあった。
そんな時には必ず寄り添うように静耶の姿があった。一年生は静耶がその眼鏡をとるところを見たことがなかった。
静耶はそうすることを避けていたのだと、あの日以降よくわかった。
綻びは不意に訪れた。
東北の日本海側には珍しい台風が過ぎた翌日、全校集会で校長が辛そうに綺夜美が死んだことを伝えた。
交通事故だった。
それだけだった。