エピソード558『ふうせん』


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エピソード558『ふうせん』

土曜午後7時、近鉄吹利駅前。夏至を過ぎたばかりの夕空はまだ明るい。
 駅から吐き出された人の流れに逆らうようにして、訪雪が歩いている。左手には、リニューアルオープンしたばかりのデパートの袋。頭上僅かのところに浮いている白い風船の糸は、右手の人指し指に結ばれている。
 和服の男が風船を従えて歩く姿に、擦れ違う人々が奇異の視線を向ける。

訪雪
(貰ったはいいが……どうしてくれよう、この風船)

デパートの出口で、風船の束を手にした店員を目にした瞬間、半ば無意識に手を出していた。子供連れでもカップルでもなかったから、店員も少しは躊躇ったのかもしれないが、その辺りはよく覚えていないし、現にいま風船が手元にあるということは、それを渡されて受け取ったということだろう。

訪雪
「しかし……我ながらどうして、こんなものを欲しがった かなぁ。持ち帰ってもあとはしぼんでいくだけなのに……一君にやっても喜ばんだろうなぁ」

いま思えば、始末に困るだけの代物だった。しかし、捨ててしまうのも何か哀れな気がする。
 早足に歩きながら、風圧で背後に流された風船を見やる。

ユラ
「あの……松蔭堂さん?」

小走りに追いついて声をかけてきたのはユラだった。肩から提げたトートバッグの持ち手に、黄色い風船が結びつけてある。

訪雪
「ああ、小滝さん……あなたも貰ったんですか。風船」
ユラ
「ええ。豊中を荷物持ちに引っ張って行ったら、何か誤解 されちゃったみたいで(苦笑) ……妙に似合ってますね。それ」
訪雪
「いや、自分でもどうして貰ったんだか判らんのですよ」
ユラ
「いいんじゃないですか? 少なくとも、豊中よりは似合っ てらっしゃるし……それじゃ、わたしはこれで」
訪雪
「お気をつけて」

いつものような急ぎ足で、ユラは駅の方に去っていった。肩先に風船を靡かせて歩く豊中の姿を想像して、訪雪は独り苦笑する。
 不意に右の袂を引かれて、視線を下に向けると、母親に手を引かれた小さな女の子が、訪雪を見上げていた。

訪雪
「……?」
女の子
「おじちゃん。ふうせん、ちょうだい」
母親
「やめなさい、よその人に向かって。
(訪雪に) すみません、この子ったら……」
訪雪
「……いいよ」
母親
「え……?」
訪雪
「儂が持って帰っても可哀想なだけだ。この風船、お嬢さ んに差し上げましょ」

母親の警戒するような眼差しに軽く頭を下げて、人指し指から風船を外した瞬間。

訪雪
「……あ」

糸はつまもうとした左の指先をすり抜けて、あっと言う間に手の届かないところに上昇していった。

女の子
「あ〜あ、とんでっちゃった……」
訪雪
「あげると約束しておいて、済まんなぁ……」

見上げた頭上を漂いながら遠ざかる風船は、だんだん小さくなって、やがて闇色に変わりはじめた空に溶け込むように消えた。

訪雪
「縁がなかったか……一体何処まで行くのやら」

二日後の朝。
 松蔭堂の前の電線に引っかかっていた、白い風船の残骸が、前夜からの雨に叩かれて路上にぺたりと落ちた。



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