目覚しを止めるのはゆずの役目である。止めた音で、花澄が起きる。
後は、花澄は殆ど何も言わない。譲羽も、やはり殆ど何も言わない。何となく呑気に、黙り込んだまま朝の支度をしている。
ただ、時々新聞を広げている花澄の横に肘を突いては、
朝のうちはそれでも時間が無いから、黒くなった胡粉を少しやすりで落とすだけの応急処置をしてもらう。帰ってから、塗り直すからね、と、花澄は言う。
譲羽はプラスチックの赤い電話を抱えて、専用の袋の中に這いずり込む。花澄はそれを肩にかけ、ポケットに文庫本と財布を落とし込み、タッパーに入った朝ご飯を白いビニール袋に入れる。
瑞鶴までは、5分とかからない。
この前掛かってきた電話を取ろうとして、雷を落とされて以来、譲羽は店長が少し恐い。
レジの横に用意してもらった座布団に座り込むと、後はゆずにとってはひたすら暇な時間になる。仕方が無いので花澄の持ってきた文庫本を借りて読んだり、飽きてくるとそれを枕にしてころころ寝たりしている。
そんなに暇なら留守番させればいいのに、と店長が言い、あとの二人が賛同し、……そしてあえなく失敗したのはつい最近のことである。
譲羽は、本が好きだ。
木を切り倒して作る本。それをどうやって説明しようか、花澄はかなり考えたらしいが、これに関しては店長がかたをつけた。
初めてこの店に連れてこられた時に、店長はそう言った。
そう言われてきょときょとあたりを見回している木霊の頭を、ぽん、と叩いて、店長は付け加えた。
以来、譲羽は本が好きである。
さて、大人しくしていると、そのうち開店になり、そのうちお客が来る。時折見知った顔の人たちも来る。
でも、知らない人も多いので、大概はレジの台で隠れる丸椅子の上でころころしていることになる。
かちかちと鳴る、レジの音。
本のページをめくる音。
花澄の応対の声。
春の風が、行ったり来たりする。
それらを木霊は夢現のうちに聞く。
遠くで、必ず「アニー・ローリー」の一節が鳴る。と同時に、木霊は椅子から花澄のエプロンの紐に飛びつく。
とか何とか言ってても、散々急かして花澄が仕事を終えるまでにたっぷり20分はある。20分が長いか短いかについては様々な意見があるだろうが、取り合えず譲羽には充分すぎる長さである。
それでなくとも、週に少なくとも二回は閉店まで待つのだから。
袋の中で、譲羽は身動きする。金の目が、はっきりと見開かれる。
ゆずの本当の一日は、この時刻から始まる。
昨日、余りに退屈しすぎてぢいぢい鳴いた木霊の声に、お客さんから「何か飼ってるの?」と尋ねられた店長の発案…………お留守番、である。
どうも、花澄の口癖であるところの『大丈夫』がうつったようだが、いかんせん、譲羽だと説得力に乏しい。
返事だけは良い。
かちゃん、と外側から鍵が掛かる。そうすると、もうゆずは一人である。
何だか足音が、いやに響く。
花澄に捕まって、山に帰されたあの日。いつも住み慣れていた場所だった筈なのに。音がうつろに響いて、何かがぽかんと空いたような気がした。
布団の上で、でんぐり返しをする。飛び上がり、宙で一回転。しばらくすると、それにも飽きた。
座り込んで、木霊は部屋を見上げた。六畳一間に少し板の間がついた部屋は、何だかとても大きい。
花澄が取り易いように置いてくれた本をよけて、木霊は本棚に取り付いた。本の前には、花澄が作ったクマが何体か置いてある。それがどうにも邪魔だ。
力を込めると、クマはそのまま落下した。ぼたっとした音が耳に残る。不安になって覗き込むと、クマも覗きかえした……ような気が、した。
ブラウン神父の本を掴んで、本棚から飛び降り、クマの上に着地する。ガラスの目が、こちらを向いているような気が……する。
布団の上に持っていって、ページをめくる。しばらくはそれが続いたのだが。
上を見上げると、本棚がゆっくりとのしかかってくる。天井が、何だか近くなったような気がする。ぶうん、とうなるような音は耳鳴りなのか、それとも。
木霊の中に、だんだんと不安が溜まりだす。
……まあ、この言葉を言ってしまうと、後はもう一直線である。しんとした部屋。転がって潰したクマ。日の光はカーテンごしに奇妙な色に染まっていて……
ふいに、ばしゃん、と音がした。
TelTel……
花澄は受話器を耳に当てたまま、深く嘆息した。
かちゃん。
というわけで、ゆずのお留守番第一回目は約三時間で終わったのである。