エピソード565『時の流れに』


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エピソード565『時の流れに』

待ち合わせ

松蔭堂、訪雪の私室。

「洋服……ですか? 若大家にしては珍しい」

鴨居のハンガーには、麻のスーツとコットンシャツがかかっている。勤めはじめた4年前、東京から引越したときに段ボールに入れたまま、今まで袖を通すことなくしまってあった。
 流行り廃りのあるデザインではないし、別段傷んでいる様子もない。体格もそう変わってはいないから、いまでも多分、着られるだろう。

訪雪
「うむ。出してはみたんだが、どうしようかと思ってね。 そうだなあ……」

一度は手に取りかけたハンガーを、元の鴨居に戻して、訪雪は陽の傾きはじめた外を見やる。

訪雪
「ま、このまんまでいいか……一君、今日は遅くなるから、 代わりに先生に夕飯を出しといてくれんか? おかず作って、台所に蝿帳かけて置いてあるから」
「まあ、そのくらいなら。今からでかけるんですか」
訪雪
「うむ。ちょっと……昔の友達に会いにね」
「友達って……大学の? わざわざこっちで同窓会?」
訪雪
「んにゃ、一人。ギリシャ彫刻やってた美人OL」

珍しいものを見る目で、十が訪雪を眺める。

「へえ……それってひょっとして、デートっていいません?」
訪雪
「人によっては、そういう風に取るみたいだねぇ。とはい え儂の場合、同窓生の7割は女の子だったしなぁ」
「このオヤジ、羨ましい環境で欲のないことを……。まあ せいぜい楽しんできてください」
訪雪
「そうさせてもらうよ」

結局訪雪が着てきたのは、鉄紺の絽の普段着だった。
 途中の郵便局で財布の中身を足して、駅への道を歩む。多少ゆっくり行っても、駅に着いてから待ち合わせの時間までには、少なくとも30分は余裕があるだろう。
 待ち合わせのとき早く着きすぎるのは、昔からの癖だった。

訪雪
「最近待ち合わせなんぞ、とんとせなんだが……変わらん なぁ。儂も、ノリも」

今日の夕方5時、近鉄吹利駅東口改札で。
 かつての同級生・規子からの電話がかかってきたのは、昼前のことだった。卒業後すぐに就職した彼女との連絡は、いまでも続いている。突然の電話ならばそう珍しいことではないが、電話線を通さずに顔を合わせたのは、修士2年の冬が最後だった。
 いつも数人でつるんで、夜の池袋を闊歩していた大学時代。教授を含む仲間の顔ぶれはその度ごとに違ったが、その中には必ず訪雪と規子がいた。面子が二人だけになるときもあったが、不思議と噂も立たなかった。
 噂になるようなことも一度も起きなかった。
 訪雪のことを他人に紹介するとき、規子はいつも「あたしのダチ」と呼んだ。

訪雪
「……腐れ縁、だよなぁ」

駅前の呉服屋で新しい扇を買って、懐に差しながら呟く。待ち合わせまで20分。必要もないのに足早になっていた。
 駅に着くと、規子は既に改札口にいた。肩の張った長身に淡いブルーのサマースーツを着て、セミロングの髪は透き通ったアクリルのかんざしでまとめている。時計を気にする横顔を遠目に見て、すこし痩せたな、と思った。
 目の前でかるく手を挙げた訪雪を、規子は一瞬不審げに凝視して、次の瞬間、渾身の力をこめてがっきと両肩をつかんだ。

規子
「うおおおおこまつ〜ぅ! ホンモノのこまっちゃんだぁ!  すっかりおやぢ入っちゃってるから、全然判んなかったよぅ。着物すっごく似合ってるじゃん。渋〜い!」

一足先に三十路に達しても、相も変わらぬ遠慮のなさ、学生時代そのままの機関銃のような口調。肩の痛みに寄せた眉のまま、訪雪は口元だけで苦笑した。

訪雪
「いや全く、君は全然変わっとらんなぁ、ノリ。こっちに は何かの用事で来たんかい?」
規子
「うん、大阪に出張。明日の朝発てばいいし、今日はもう ヒマなんだ。
どこかうまいお店教えてよ、こまっちゃん。今夜は二人で飲み明かすぞぉ」

居酒屋にて

駅前から少し裏通りに入ったところの、小さな居酒屋。狭いカウンターの左端に訪雪、そしてその隣に規子が座っている。
 家から遠いこともあって、訪雪も余り頻繁には来ない店だったが、酒なしの料理だけでも満足させてくれるのと、独り無言でいても居づらくないのが気に入っていた。

訪雪
「おやっさん。儂の分は、次からは烏龍茶を」
規子
「なんだ、情けないぞぉ……なんて、言っちゃ駄目だよね。 いまでも弱いんだ。お酒」
訪雪
「まね。そう簡単に強くなれるもんじゃないよ」

学生時代の思い出、いまの職場の話、吹利での暮らしのこと……ふと途切れた会話の合間に、規子がぽつりと聞いた。

規子
「あのひと……浦上先生は、いまどうしてる?」
訪雪
「この間仕事を頼まれた。元気にしとるようだったよ」

浦上教授を「あのひと」と呼ぶとき、規子は訪雪から視線を逸らした。大学時代からそう呼んでいたことを知っているのは、恐らく浦上と、そして、すべてを聞いて……いや、聞かされていた訪雪だけ。

規子
「……そっか、今でも付き合い続いてるんだ……でもどう して、こまっちゃん博士に行かなかったの? あんなに先生に目をかけられてたのに」
訪雪
「別に理由なんぞありゃせんよ。ただ、博士課程まで行く つもりがなかった……それだけのことさね」

少なくとも、全くの嘘はついていない。博士に行きたくなかった、というよりは、あの研究室に留まっていたくなかったからだったが。

規子
「よかった。こまっちゃんと浦上先生、いっとき仲違いし てたって聞いて、すごく心配してたんだ。あたしがあんなこと口走ったから、こまっちゃんが先生を尊敬できなくなったんじゃないか、って」

浦上教授と規子の関係は、相談を受ける前から知っていた。3年の夏、ゼミ生で連れ立って教授宅を訪れたとき、掃除を頼まれた部屋の寝具を、不用意に
 『読んで』しまったからだった。
 強烈な記憶であればあるほど、モノには深く刻まれる。前の日そこであったことのすべてを克明に『見せられて』、訪雪は自分の能力を呪った。

訪雪
「んにゃ。そういう訳じゃないよ……多分」

親子ほども違う齢を云々するつもりはなかったから、悩んだ規子が打ち明けてきたときも、表向きには、ただ理解を示す以上の態度はとらなかった。
 しかし……選ばれたのは、自分ではない。その思いが、訪雪を裏側から歪めていた。
 口先では親切ごかしたアドヴァイスを与え、密会のセッティングにさえ手を貸しながら、心の底では、自分の代わりに選ばれた男と、自分を選ばなかった女を激しく憎悪していた。そうやって憎み続ける自分もまた、疎ましかった。

規子
「こまっちゃん……変わったね」
訪雪
「変わった? 儂の何処が?」
規子
「外見がオヤジ臭くなったのはそうなんだけど……昔より、 目が恐くなくなった」

影の自分を含めて、すべてを事実として認めることが出来るようになるまでには、数年の歳月を要した。よく「老けた」といわれるのも、そのために諦めたものの所為だろう。
 思い出として語れるほど、遠い記憶にはなっていない。しかしいまなら、かつてそういう時期があって、そういう自分がいたことを、否定することなく思い出すことが出来る。

訪雪
「齢を……取ったんだよ。だから、昔みたいに貪欲じゃ……」

ざわめきの向こうに懐かしいメロディを聞いて、訪雪は口を噤む。

規子
「これ……昔っから好きだった曲だよね。確かポール……」
訪雪
「ポール・サイモン。そういや、こっちに来てから一度も 聴いてないな」

有線の、音質の悪いスピーカーから流れる歌声に合わせて、低い声で歌詞を口ずさむ。

訪雪
「すっかり忘れてると思ってたが……意外と忘れないもん だなぁ。一君とか、花澄さんとか……こっちの連中が聞いたら、『若大家の趣味じゃない』なんて、きっと驚くだろうよ」
規子
「若大家、かぁ……もうすっかり、ここに馴染んでるんだ ね」
訪雪
「馴染んだ……んだろうなあ、多分」

嘘をついていた。
 いまのように馴染んだふりをしつづける限り、きっとどの土地にも一生馴染むことは無いのだろう。職場も、研究室も、そして生家でさえもそうだったように。
 新しい居場所の、借り物の椅子に座り続ける違和感には、とうの昔に慣れきっていた。

規子
「もうこんな時間かぁ……大阪へ戻る電車、まだあるかな」
訪雪
「うむ。確かまだ、1、2本は接続があったはずだよ。さっ きは『朝まで飲む』なんて言ってたみたいだが……寝不足に朝のラッシュは辛いよ」
規子
「ありがとう……そういうとこは昔のまんまだね。
こんなに遠くに行っちゃう前に……こまっちゃんのこと、ゲットしておくんだったかなぁ」

ぽつりと呟いた規子の言葉に、口元にグラスを運ぶ訪雪の手が止まる。

規子
「あのころ……あたしのこと好きだったんでしょ?」

心の底まで見透かすような眼差し。答えの言葉を見いだせないまま、グラスをあおる。

規子
「ごめんね……判ってたんだ。君の気持ち、全部知ってて、 あんなことまで相談してた。試すつもりだったのかもしれない」

返事は出来ない。何を言っても恨みごとになるから。

規子
「こんな事言ったら失礼だけど……浦上先生が駄目だった ら、君でもいいと思ってた。
こまっちゃんなら、きっと何があっても受け入れてくれると思ったから。怒られてもしょうがないよね」

怒りは湧かなかった。湧きようがなかった。一緒にいる時間を作るためなら、愚痴の掃きだめに使われてもよかった。
 あのころの自分が、受け入れるふりをして、実のところ、外界のことなど何ひとつ受け入れていなかったのだということは、今の自分が一番よく知っていた。

規子
「いまなら……迷わずに君を選べるかもしれない、っていっ たら、受け入れてくれる?」

空のグラスを包む手に、冷えた指先が触れる。

訪雪
「あのころはなんにも判っちゃいなかったし、そもそも判 ろうともしなかった……だから無責任に何でも言えた」
規子
「じゃあ、いまは?」
訪雪
「なんにも判っちゃいないことを知っている以上、無責任 なことは言えやしない……成り行き任せに突っ走るには、齢を取りすぎたよ」

ほどいた指で次の一杯を注いで、規子がくすりと笑う。

規子
「……お互いに、ね」

疲れた笑顔につられるように、訪雪も少し笑った。もう一杯だけ、酒が欲しい気分になった。

夜の終わり

駅の改札、再会したのと全く同じ場所。ヒールの足を少しだけふらつかせながら、規子が訪雪の方に向き直る。

規子
「今日はありがと、こまっちゃん。元気な顔が見れて嬉し かったよ」
訪雪
「儂……ヲレも、ね。随分飲んだようだし、くれぐれも気 をつけて帰ってくれよ……。
なんならうちに泊まってく? 爺さんと学生の男所帯だけど」
規子
「大丈夫だよ。ひとりでも帰れるから。それじゃ、またね。 商売頑張れよ、こまつぅ」
訪雪
「そちらも。じゃ、お気をつけて」
規子
「じゃあねぇ」

手を振って改札を潜る規子に、軽く左手を挙げて、訪雪は振り返らずに駅を後にした。駅舎を出た途端に吹きつけてきた風は、まだ僅かに昼の熱気を含んでいた。

訪雪
「さて、と……何か一君に聞かせられる話を考えておかにゃ なぁ」

駅の灯りに照らされたアスファルトに、大きく伸びをする影が落ちた。



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