松蔭堂、訪雪の私室。
鴨居のハンガーには、麻のスーツとコットンシャツがかかっている。勤めはじめた4年前、東京から引越したときに段ボールに入れたまま、今まで袖を通すことなくしまってあった。
流行り廃りのあるデザインではないし、別段傷んでいる様子もない。体格もそう変わってはいないから、いまでも多分、着られるだろう。
一度は手に取りかけたハンガーを、元の鴨居に戻して、訪雪は陽の傾きはじめた外を見やる。
珍しいものを見る目で、十が訪雪を眺める。
結局訪雪が着てきたのは、鉄紺の絽の普段着だった。
途中の郵便局で財布の中身を足して、駅への道を歩む。多少ゆっくり行っても、駅に着いてから待ち合わせの時間までには、少なくとも30分は余裕があるだろう。
待ち合わせのとき早く着きすぎるのは、昔からの癖だった。
今日の夕方5時、近鉄吹利駅東口改札で。
かつての同級生・規子からの電話がかかってきたのは、昼前のことだった。卒業後すぐに就職した彼女との連絡は、いまでも続いている。突然の電話ならばそう珍しいことではないが、電話線を通さずに顔を合わせたのは、修士2年の冬が最後だった。
いつも数人でつるんで、夜の池袋を闊歩していた大学時代。教授を含む仲間の顔ぶれはその度ごとに違ったが、その中には必ず訪雪と規子がいた。面子が二人だけになるときもあったが、不思議と噂も立たなかった。
噂になるようなことも一度も起きなかった。
訪雪のことを他人に紹介するとき、規子はいつも「あたしのダチ」と呼んだ。
駅前の呉服屋で新しい扇を買って、懐に差しながら呟く。待ち合わせまで20分。必要もないのに足早になっていた。
駅に着くと、規子は既に改札口にいた。肩の張った長身に淡いブルーのサマースーツを着て、セミロングの髪は透き通ったアクリルのかんざしでまとめている。時計を気にする横顔を遠目に見て、すこし痩せたな、と思った。
目の前でかるく手を挙げた訪雪を、規子は一瞬不審げに凝視して、次の瞬間、渾身の力をこめてがっきと両肩をつかんだ。
一足先に三十路に達しても、相も変わらぬ遠慮のなさ、学生時代そのままの機関銃のような口調。肩の痛みに寄せた眉のまま、訪雪は口元だけで苦笑した。
駅前から少し裏通りに入ったところの、小さな居酒屋。狭いカウンターの左端に訪雪、そしてその隣に規子が座っている。
家から遠いこともあって、訪雪も余り頻繁には来ない店だったが、酒なしの料理だけでも満足させてくれるのと、独り無言でいても居づらくないのが気に入っていた。
学生時代の思い出、いまの職場の話、吹利での暮らしのこと……ふと途切れた会話の合間に、規子がぽつりと聞いた。
浦上教授を「あのひと」と呼ぶとき、規子は訪雪から視線を逸らした。大学時代からそう呼んでいたことを知っているのは、恐らく浦上と、そして、すべてを聞いて……いや、聞かされていた訪雪だけ。
少なくとも、全くの嘘はついていない。博士に行きたくなかった、というよりは、あの研究室に留まっていたくなかったからだったが。
浦上教授と規子の関係は、相談を受ける前から知っていた。3年の夏、ゼミ生で連れ立って教授宅を訪れたとき、掃除を頼まれた部屋の寝具を、不用意に
『読んで』しまったからだった。
強烈な記憶であればあるほど、モノには深く刻まれる。前の日そこであったことのすべてを克明に『見せられて』、訪雪は自分の能力を呪った。
親子ほども違う齢を云々するつもりはなかったから、悩んだ規子が打ち明けてきたときも、表向きには、ただ理解を示す以上の態度はとらなかった。
しかし……選ばれたのは、自分ではない。その思いが、訪雪を裏側から歪めていた。
口先では親切ごかしたアドヴァイスを与え、密会のセッティングにさえ手を貸しながら、心の底では、自分の代わりに選ばれた男と、自分を選ばなかった女を激しく憎悪していた。そうやって憎み続ける自分もまた、疎ましかった。
影の自分を含めて、すべてを事実として認めることが出来るようになるまでには、数年の歳月を要した。よく「老けた」といわれるのも、そのために諦めたものの所為だろう。
思い出として語れるほど、遠い記憶にはなっていない。しかしいまなら、かつてそういう時期があって、そういう自分がいたことを、否定することなく思い出すことが出来る。
ざわめきの向こうに懐かしいメロディを聞いて、訪雪は口を噤む。
有線の、音質の悪いスピーカーから流れる歌声に合わせて、低い声で歌詞を口ずさむ。
嘘をついていた。
いまのように馴染んだふりをしつづける限り、きっとどの土地にも一生馴染むことは無いのだろう。職場も、研究室も、そして生家でさえもそうだったように。
新しい居場所の、借り物の椅子に座り続ける違和感には、とうの昔に慣れきっていた。
ぽつりと呟いた規子の言葉に、口元にグラスを運ぶ訪雪の手が止まる。
心の底まで見透かすような眼差し。答えの言葉を見いだせないまま、グラスをあおる。
返事は出来ない。何を言っても恨みごとになるから。
怒りは湧かなかった。湧きようがなかった。一緒にいる時間を作るためなら、愚痴の掃きだめに使われてもよかった。
あのころの自分が、受け入れるふりをして、実のところ、外界のことなど何ひとつ受け入れていなかったのだということは、今の自分が一番よく知っていた。
空のグラスを包む手に、冷えた指先が触れる。
ほどいた指で次の一杯を注いで、規子がくすりと笑う。
疲れた笑顔につられるように、訪雪も少し笑った。もう一杯だけ、酒が欲しい気分になった。
駅の改札、再会したのと全く同じ場所。ヒールの足を少しだけふらつかせながら、規子が訪雪の方に向き直る。
手を振って改札を潜る規子に、軽く左手を挙げて、訪雪は振り返らずに駅を後にした。駅舎を出た途端に吹きつけてきた風は、まだ僅かに昼の熱気を含んでいた。
駅の灯りに照らされたアスファルトに、大きく伸びをする影が落ちた。