エピソード566『子守』


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エピソード566『子守』

花澄
「あの……大家さん、昼の間ゆずを預かっててくれます?」
訪雪
「ん〜、いいですよ。どうせ客なんか滅多に来ないし、商 品のないとこなら多少腕白やっても大丈夫だから」
花澄
「腕白って……怪我するようなことは……ええと、あの(汗)」
訪雪
「だ〜いじょぶだって。一度痛ければ、二度と危ないこと はしないでしょ。それにほら、怪我したときの」
花澄
「何ですか? そのチューブとへら」
訪雪
「木部用エポキシパテ。2色混ぜて1時間で硬化するやつ」
譲羽
「ぢいいっ(花澄にひしとしがみつく)」
訪雪
「(ちょっと惜しそうに) 冗談だってば。そういう危ない ことはさせませんよ」
花澄
(本当に大丈夫かな……)

その直後、訪雪の私室にて。

訪雪
「……てなことを花澄さんに約束しちゃったから、転んだ ら痛い店の間の板敷ではちょっと遊べないなぁ。だからここでいいよね?」
譲羽
「ぢい(好きなことしていい?)」
訪雪
「何言ってるのかは判らんが、なんとなく言いたいことは 判るぞ。ええと。その1……自分や誰かが怪我するようなことは駄目。その2……出来れば触って欲しくないものもあるんだけど……ま、ある程度は大目に見よう。いいね?」
譲羽
「ぢいっ!(嬉しそうに頷く)」
訪雪
「あんまし聞いてなかったみたいだなぁ……まぁ、儂が気 をつければ済むことか」

何のことはない。自分が遊びたいのである。
 10分後。

訪雪
「わああ待ってくれぇ、レコード立てに登っちゃいかん!
破壊音) あああ作りかけのレッドミラージュがあ……
(かたかたかた、ぴょい)ちょ……ちょっと待て、そんなとこから飛んだら……!」

ぽす。
 スライド本棚のてっぺんから飛び降りた譲羽を、間一髪のところでキャッチして、訪雪はその場にへたりこむ。胡座の膝の間から、金色の目が見上げる。

譲羽
「ぢぃ(疲れたの?)」
訪雪
「う〜む、このままじゃこっちの体がもたんなぁ……済ま んが、もうちょっとおとなしめの遊びにしてくれんか」
譲羽
「ぢいっ(じゃ、本、読む)」

さっき飛び降りたばかりのスライド本棚へ、かたかたかた、と登る。

訪雪
「おい、また……ああなんだ、本か。読みたいのがあった ら、持ってきていいよ」

初めて見る本棚の、初めて見る本。花澄のところとは本のサイズからして違う。
 譲羽のいる下の段には、大型の美術全集と展覧会のカタログが、見上げた上の段には、見慣れない黒い背表紙の文庫本がある。とりあえず文庫本の方から一冊を選んで、よいしょと引っ張る。

訪雪
「本当にいいの? それで」
譲羽
「ぢい」

膝に戻って読み始める譲羽。著者は……横溝正史。
 しばらくして。

譲羽
「ぢ、ぢいいっ」

本をぱたりと放り出して、膝にしがみつく。

訪雪
「(苦笑) だからいいのって聞いたのに……他のにしよう か」

訪雪の肩に乗って本棚を見上げた譲羽の目が、壁の一点で止まる。
 壁に打ち込んだ釘にかかっているのは、ひと揃いの葦笛。節を残した葦を長さの順に並べて、木綿の紐できつく束ねただけの、パン・フルートなどという洒落た名前で呼ぶには、あまりにも素朴な楽器。

譲羽
「ぢぃ(あれ、何?)」
訪雪
「ん? 気に入った本あった?」
譲羽
「ぢいっ(ぶんぶん)」
訪雪
「ん〜……ああ、シークね。そういやしばらく、あそこに ぶら下げっぱなしだったな……聞いてみるかい?」

壁から外して積もった埃を払い、息を吹き込む。葦の中から少し黴臭い空気が舞い上がって、ぽぅ、と掠れた音が響く。

訪雪
「やっぱり……吹き方を忘れとるなぁ」
譲羽
「ぢぃ(ゆずも、やるぅ)」
訪雪
「そう髪を引っ張るなって……息が出なくちゃ、こいつは 吹けんよ。そうだな、何か曲を吹いてあげよう…… (しばらく考えて) うん。木霊には、『緑の大木』を……吹ききる自信はないけどね」

すう、と大きく息を吸って、長く延びる最初の一音を吹きだす。激しいリズムと、どこか哀しげなメロディ。唇を震わせる振動が、骨を通って膝の上の譲羽に伝わる。
 山の記憶。昔いた山ではない。見たこともない、しかし懐かしい山の、巨大な常緑樹。
 過換気と振動で朦朧となった訪雪の頭に、初めてこの笛を手にしたときの、自分の忘れかけていた記憶が流れ込んでくる。緑濃い山で隠者のように暮らす音楽家の、人懐こい笑い。
 脳裏に間奏を聴きながら、同時に外界で和するギターのかき鳴らしを聞いた気がした。

花澄
「こんにちは、大家さん……大家さん?」

夕方、花澄が松蔭堂の表戸を開けたとき、店の間には誰もいなかった。

花澄
「自転車はあるから、外に遊びに行ったわけじゃないだろ うし……済みません、お邪魔します」

忍び足で板敷に上がり、廊下を進む。廊下の奥から2番目、ひとつだけ障子が開いている。

花澄
「こんにちは……あら」

小脇に葦笛を抱えたまま、訪雪は仰向けに寝転がって鼾をかいていた。その胸の上にちょこんと座っていた譲羽が、花澄を見つけてとととと、と駆け寄った。

譲羽
『この笛、すごいの。樹の音がするの』
花澄
「ふうん。意味がよく分からないけど……楽しかったみた いね。大家さん疲れてるみたいだから、起こさないようにそっと帰ろう。……(ひそひそ声で) お世話になりなした」
譲羽
「……ぢい(またね)」

足音を忍ばせて、花澄は松蔭堂を後にした。



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