エピソード577『泰山木』


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エピソード577『泰山木』

瑞鶴、夜、十時半。閉店後。

店長
「じゃ、お疲れ様」
花澄
「おやすみなさい」

花澄を見送って、店長はからからと店のシャッターを閉める。木霊入りの袋を肩に、花澄は歩いてゆく。

花澄
「肩凝った」
譲羽
「ぢい?」

袋から頭を突き出して、それから木霊は首をひねる。

譲羽
『花澄、これ、帰る道じゃない』
花澄
「うん、知ってる」

大通りから外れて、何だか良く分からない細い路地へと、花澄は入ってゆく。

譲羽
『花澄、道、迷っちゃうよ』
花澄
「大丈夫。憶えているから」

歩みが自信ありげなところからして、それは本当なのだろう。幾つかの角を曲がったところで、花澄は足を止めた。
 路地の角、街灯が一つ、何だか弱々しい光を投げかける隅。上半分が腐って崩れたらしい木の塀。その上から道に乗り出すように咲く花。
 泰山木。

花澄
「……ここだわ」

言うと、彼女はぺたんと道の上、花の下に座り込んだ。片膝を抱え込む。
 厚ぼったい丸い葉が重なり合う中に、やはり肉厚の花弁が白く浮かび上がる。風の無い中、ゆっくりと香が地上へ漂い降りてくる。

譲羽
『花澄、あの花欲しいの?』
花澄
「……ううん」

花澄は黙って花を眺めるばかりである。さわ、と風が、遠慮がちに吹く。

”あれを落とすことは出来る”
花澄
「無粋」

一言の元に切って捨てる。後はただ、もたりとした白い花を見上げるばかりである。ぢりぢりと鳴く虫の音。大通りのあたりから車のエンジン音が響く。花香を浴びながら、花澄はただ、黙っている。
 そして、しばらくして。

花澄
「じゃ、帰ろうか」

そう言って立ち上がったのは、もうすっかりいつもの花澄だった。

譲羽
『……花澄?』
花澄
「何?」
譲羽
『何、してたの?』
花澄
「花を、見ていたの」
譲羽
『……そうだけど』

何だか割り切れないような顔をしている譲羽に、花澄は微かに笑った。

花澄
「束の間惜しき……ってね」
譲羽
『?』

やはりきょとんとしている木霊の頭を、花澄はぽんぽん、と叩いた。

花澄
「そういうもの、なの」

くすくす、と笑いながら花澄は歩いてゆく。その影も見えなくなった、その後に。
 花片が一枚、ぽたりと落ちた。
 泰山木の花の香は、重い。



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