夏のある日の松蔭堂。平日の昼間だというのに、表の細格子のガラス戸はきっちりと立てきられ、休業の札すら出ていない。
店の前、かんかん照りの陽射しと軒の影の境目に、スナフキン同好会の三人が、微妙に崩れた列を作って佇んでいる。
- フラナ
- 「看板読めないけど……ここで……いいんだよね?」
- 佐古田
- 「じゃじゃあん(信用しろって)」
- 本宮
- 「『松蔭堂』。十さんの下宿で、こないだの着物のおっさ
んがやってる骨董屋さん。多分間違ってないと思うよ」
- フラナ
- 「閉まってるみたいだね」
- 本宮
- 「もし閉まってても、多分中に誰かいるだろう。でも……
突然お邪魔しちゃっていいのかなぁ」
- フラナ
- 「大丈夫だよ。直紀さんとかよくお茶飲みに来るって言っ
てたし、何たってあの十さんを住まわせてるような人だから。行こ!」
- 佐古田
- 「じゃかじゃんっ(うん、行こう!)」
本宮がおそるおそる手をかけると、鍵のかかっていない表戸は、抵抗もなくからりと開いた。
店の中は、夏だというのにひんやりとしていた。板敷の隅に、野球中継をかけっぱなしのラジオと、擦り切れた藺草の円座があるだけで、人の姿はない。三和土いっぱいに積み上げられた、最早用途すらさだかでない品々の間に、黴臭い空気が澱んでいる。
- フラナ
- 「ごめんくだ……」
不意に、苦しげにくぐもった声が響く。
- 本宮
- 「本当に……いいのか?」
- フラナ
- 「変な声したけど……何?」
- 佐古田
- 「ぼろぉん……(判らない……)」
三人して店の奥を覗き込む。半分開いたガラス障子の向こう、片側に障子の続く廊下の奥で、人の動く気配がする。
呻くような、引きつるような声に交じって、もう一人の低い話し声が聞こえる。
- 本宮
- 「確か、御隠居と大家の二人暮らしだって言ってたよな、
十さん」
- フラナ
- 「御隠居さん……病気、なのかなあ」
- 本宮
- 「だとしたら、今日はやめたほうがいいんじゃないか?」
- フラナ
- 「でも……お見舞い、してったほうがいいよね」
- 佐古田
- 「じゃん(うん)」
話し声が奥に聞こえたらしい。障子の向こうでばたばたする音がして、暫くして訪雪が店の間に出てくる。
いつぞやの着流し姿とはまるで違う。長い髪を黄色のゴムで無造作に束ね、下に隈のできた目にメタルフレームの眼鏡を掛けて、汗を吸った藍の作務衣の袖をまくっている。
- 訪雪
- 「はいはい、只今……ああ。君達はこの間の。いらっしゃ
い……と言いたいところだが、見ての通り少々取り込んでいてね。
申し訳ないが、茶の間に上がって少し待っていてくれんか?」
そして……茶の間に通され、お茶と、お茶請けのせんべいをもらう三人。茶の間にもところ狭しと積み上げられた古い品々が並ぶ。
ちりーん。涼しげな風鈴の音が響く……かすかに蝉の鳴き声が聞こえる。夏の昼下がり……お茶をすすりながら、遠慮無くせんべいをむさぼる三人。
- フラナ
- 「なんか……不思議な世界だね、さすが十さんの居候先だ
ね」
- 佐古田
- 「じゃんじゃん(ただ者ではない……)」
- 本宮
- 「言いたい放題いってるな……お前ら」
そうしてる間に、退屈なのか……あたりの物を色々あさり出すフラナ。
- フラナ
- 「あ、これなにかな、これもおもしろそう」
- 本宮
- 「勝手に触わるなよ、壊したらどうするよ」
その時、またさっきの呻き声が聞こえて来る。
- 一同
- 「……」
しばし沈黙する三人。また、さっきの呻き声が聞こえる。だんだん定期的になってきている。
- フラナ
- 「ねぇ……なんなんだろうね……さっきから……」
- 本宮
- 「き……気にするなよ、な」
- フラナ
- 「ちょっと覗いてみようよ」
- 佐古田
- 「ぎぎぃん(ちょっとだけ……な)」
- 本宮
- 「いいのか……」
そう言いつつも三人とも興味津々である……
- フラナ
- 「ちらっとだけ……ちらっとね」
そろそろと障子を開け忍び足で部屋に近づく三人。そぉっと……そぉっと……
細く開いた襖の隙間に、少年たちの頭が縦一列に並ぶ。
閉め切られた部屋の中は薄暗く、障子を通した薄明かりが、八畳間の真ん中に敷き延べられた寝床を浮かび上がらせている。寝床の上に丸まったタオルケットから、半分ほどを白髪に覆われた頭が突き出している。
先程からの声の正体は、この老人のようだった。
- フラナ
- 「(声を潜めて) 御隠居さん……やっぱり、具合悪いのか
な」
- 佐古田
- 「……(無音)」
禿げ上がった頭頂をこちらに向けたまま、老人の耳がぴくりと動く。
- 凍雲
- 「……ては……」
- フラナ
- 「え……?」
- 凍雲
- 「……坊主ども……ここを……見ては、いかん……早う、
そこを閉めい」
言葉の終わりが、喉の痙攣に取って代わられる。
- フラナ
- 「あ……ごめんなさい」
- 佐古田
- 「(御隠居……笑っている……?)」
- 本宮
- 「ほら、怒られた。覗いたら失礼だろ。早く閉め……」
首を引っ込めようとした本宮の動きが止まる。
- フラナ
- 「もとみー、どうしたの?」
返事はない。襖の間から首を抜きかけ、壁に顔を向けて不自然に頭をねじった姿勢で、本宮は凍りついている。
- フラナ
- 「もとみー……」
- 本宮
- 「中を見るな……様子がおかしい」
そう言ったきり動かない本宮の肩を、佐古田がつかんで部屋から引っ張り出そうとしたとき、背後から怒鳴り声が響いた。
- 訪雪
- 「この大馬鹿どもが!!」
菓子の盆を卓袱台に叩きつける音がする。声量も、言葉の調子も、いつもの昼行灯とはまるで違う。
- フラナ
- 「わぁああああ」
訪雪はフラナと佐古田の襟をつかんで、茶の間に引きずり出す。空いた手で、一番下の本宮の襟もつかみかけて……不自然な姿勢に気付いて、力なく手を放す。
- 佐古田
- 「……(無言でうなだれる)」
- フラナ
- 「……ごめんなさい」
- 訪雪
- 「いや、大きな声を出して済まなかった……あの部屋を覗
いちゃいかんということを、先に教えておかなかった儂が悪かったな」
- フラナ
- 「もとみーと御隠居さん……どうしちゃったんですか?」
- 訪雪
- 「達磨の軸だ」
- 佐古田
- 「……?」
- 訪雪
- 「お得意様からの預かり物に、結構有名な禅僧の描いた達
磨の軸があってね。
実をいうとモノ憑きなんだが、焼いちまうにはあまりにも惜しい絵なんで、祓うめどが立つまで蔵の二階に仕舞っておいたんだが……先生、正体を知らんで自分の部屋にかけちまったらしい」
- フラナ
- 「それで……何が?」
- 訪雪
- 「目玉が動くくらいの悪さならいいんだが……始末の悪い
ことに、一度目が合うと視線を逸らせない。しかも……」
- 本宮
- 「(襖の向こうから) しかも?」
- 訪雪
- 「先生は……ずっと目を合わせているうちに、緊張に堪え
かねてつい笑っちまったんだそうだ。
軸を出したのは昨日の昼頃なんだが……それからいままで、ずっと笑いが止まらないままなんだよ」
- 本宮
- 「あの……どうすればいいんでしょう」
- 凍雲
- 「……(苦しげな忍び笑い)」
- 訪雪
- 「判らん。いま儂に言えるのは、体力を消耗したくなかっ
たら、何があっても笑うな、ということだけだ。
待っていれば、向こうが根負けしてくれるかも知れん」
- フラナ
- 「もとみー……負けないでね」
- 佐古田
- 「じゃじゃん……(応援しかできないけど)」
- 本宮
- 「負けるなっていったって……いてててて」
ねじったままの首が凝ってきたらしい。
- 訪雪
- 「ううむ……この暑さじゃあ、根気で勝つ前に、二人とも
体力が尽きちまうなぁ……何か手っ取り早い解決法があるといいんだが」
茶の間の畳に胡座をかいて、沈思黙考に入る訪雪。
- 訪雪
- 「(巻いた状態でここに持ち込まれた以上、視線から逃れる
手段がないはずはない。持ち込まれてから急に強力になったとも思えん。だとしたら……前にこれを見た人間は、一体どうやって、この憑き物の視線から逃げた?
化け物憑きの達磨の軸から……達磨の目から……達磨、か……)」
不意に顔を上げてにやりと笑う。
- 訪雪
- 「よし。正しいかどうかは判らんが、やってみよう。どう
にかせねば、どうにもなるまいて」
膝を正して、フラナと佐古田の方に向き直る。
- 訪雪
- 「君達……ええと」
- フラナ
- 「フラナ。富良名裕也です」
- 佐古田
- 「じゃじゃん(佐古田です)」
- 訪雪
- 「うむ。これから思いついた方法を試すから、儂がいいと
言うまで絶対に襖の方を見ないで……そうだな、店の間のほうでも向いていてくれんか。で、もとみ……」
- 本宮
- 「本宮、です」
- 訪雪
- 「本宮君。君も、達磨から目を離さないで……まぁ離せん
だろうが……儂が視界に入らないように努力していてくれ。無論、先生も」
- 本宮
- 「は……はい(何をするんだろう)」
- 凍雲
- 「こくこく(腹をかかえて頷く)」
- 訪雪
- 「それじゃ……少々暑くて重いが、失礼」
本宮の肩に訪雪の手がかかる。本宮の背後から覆い被さるようにして、訪雪が室内の壁に掛けられた達磨を覗き込む。
凍雲と本宮と訪雪。どの目にも、達磨は自分を真っ直ぐ睨んでいるように映っているはず。訪雪の汗ばんだ掌から、奇妙な動きが本宮に伝わって……
- 達磨
- 『ぶ〜〜〜〜〜〜〜っ!』
絵の中の達磨が、突然吹き出した。
- 本宮
- 「@☆$※……大家さん、何を……?」
答えはない。肩に触れた指先が、ひくひくと痙攣している。
- 佐古田
- 「ぎゃいぃぃぃん(……!)」
佐古田はこっそり見ていたらしい。みるみるうちに、額に脂汗が吹き出てくる。
- 達磨
- 『だ〜っはっはっは……(どんどんどん)けひひひひひひ……
ごろごろごろ)くくくくく……ぎゃひひひ……(じたばた)うひょひょひょひょ……ひゃひゃ……ひぃぃぃぃぃっ』
水墨の岩壁を叩き、身をよじり、地面を転がって、達磨は狂ったように笑い続けていたが、やがて苦しげな悲鳴とともに、目に見えない何かが画面からすうっと浮き出して、空中に溶けるようにして消えた。
達磨の姿が元に戻るのと同時に、本宮の視線を縛っていた力も消えていた。
- フラナ
- 「もとみー!」
- 本宮
- 「ふう……どうなるかと思った……お、重い(汗)」
- 訪雪
- 「ふう……っ……あ、こりゃ失礼」
上体を起こして茶の間に戻る訪雪の表情に、変わったところはない。冷めた茶を一息に飲み干して、湯呑みを卓袱台に乱暴に置く。
- 本宮
- 「あの……何を、したんですか?」
- 訪雪
- 「にらめっこ」
- フラナ
- 「は……?」
- 訪雪
- 「視線を逸らすと負け。笑うと負け。おまけに達磨……。
ひょっとしたら、逆に向こうを笑わしてやれば勝てるんじゃないかと思ってね。
なに、勝算は十分にあったさ。なにしろ小中高と通して『にらめっこ大王』として無敗を誇ってたからねぇ……」
- 本宮
- 「大王って……一体どういう少年時代を(汗)」
- フラナ
- 「佐古田は見てたんだよね。大家さんどんな顔してた?」
- 佐古田
- 「じゃ……ばちんべちんばつん(突然弦が切れる)」
- 訪雪
- 「何だ、見てたのか……恥ずかしいことしたな、こりゃ。
……おや? 君達どうかしたかね? 顔色が悪いが」
後日……
かららん
- 直紀
- 「ほーせつさーん(わくわく)」
- 訪雪
- 「ああ、柳さん。……なんで握り拳なんてしてるの(汗)」
- 直紀
- 「さっき、フラナ君たちに聞いたんだけど、ほーせつさん
にらめっこ大王だったんでしょ?」
- 訪雪
- 「懐かしい話ですねぇ。我が母校での、連続58人笑死記録
は依然塗り替えられてないらしいし(遠い目)」
- 観楠
- 「(笑死って……いったい(^^;))」
- 直紀
- 「でねっ、みたいなーって思って(笑) ねっ、やってくだ
さいっ!」
- 訪雪
- 「うみゅ、んでは」
ごそごそと後ろを向いて何かをする訪雪。わくわくして待っていると、
- 佐古田
- 「ぎゃぎゅぅぅぅぅん!!(みちゃだめだぁーーーの音色)」
- 直紀
- 「う、うわっ!(汗)」
急に手を掴まれ脱兎のごとく連れ出される。訪雪が振り向いたのは、直紀が佐古田とともにベーカリーを出た直後だった。
- 訪雪
- 「あれ? 柳さんどこに行ったかな(きょろきょろ)
……おや? 店長どうしました」
- 観楠
- 「……(固まってる)」
- 訪雪
- 「店長ー?」
- 観楠
- 「あ、ぇぇ、と……(汗)」
吹き出したいのを必死にこらえ、どうにかお茶とお菓子を訪雪の前に置いて回れ右。そのまま厨房の冷蔵庫へ駆け込む。
- 観楠
- 「ぷっ、くっ、はははははは、あはははははははははは
はははははは、はーっははは、わはははっ(大爆笑)」
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