某日、曇天。自然、俯きがちになる日。電信柱を辿って、飛んでゆく小さな影一つ。
そして、松蔭堂。
- SE
- とん。とととん。とととと……
- 訪雪
- 「誰かね一体……っておや」
- 譲羽
- 「ぢい(こんにちは)」
訪雪の足元で、木霊はぺこりと頭を下げた。背中には、何が入っているのか袋を一つ括り付けている。
- 訪雪
- 「どうしたの、一体。花澄さんは?」
- 譲羽
- 「ぢい(おうち)」
ぢい、では流石に分からない。
- 訪雪
- 「後から来るのかな?」
- 譲羽
- 「ぢいぢい(ううん)」
ぶんぶん、と首を横に振られてやっと了解したものの、しかしそれはそれで問題である。
- 訪雪
- 「家出かね?」
- 譲羽
- 「ぢいいっ!(違うもんっ!)」
- 訪雪
- 「じゃ、どうした?」
木霊はよいしょ、と、背中から包みをおろした。中からはプラスチックの赤い電話が出て来る。その場にぺたんと座り込むと、少女は受話器を取り上げた。
と、家の中の電話が鳴り出した。
- 訪雪
- 「ん?」
- 譲羽
- 「ぢい(指差す)」
請われるままに中に入り、受話器を取る、と。
- 譲羽
- 『あのね、足、壊れたの。大家さん、えぽ……えぽきし……』
- 訪雪
- 「ああ、エポキシパテね。で、直して欲しいのかな?」
- 譲羽
- 『うん』
- 訪雪
- 「わかった。どれ」
もう一度表に出て、木霊を電話ごと抱えて戻る。電話の隣において、改めて話しかける。返事は受話器から聞こえてきた。
- 訪雪
- 「どこを壊したの?」
- 譲羽
- 『足。本棚から降りたら、壊れたの』
そう言うと、木霊は靴を脱いだ。左足の甲の部分が半分に割れ、中から針金が覗いている。
- 訪雪
- 「まあ、これなら二つに割れただけだから直らないでもな
いよ。でも、どうして花澄さんに直してもらわないの?」
- 譲羽
- 『……花澄、心配するの。すごく、心配するの』
- 訪雪
- 「そりゃ、心配するだろうね」
- 譲羽
- 『違うの。心配、すごくするの』
心配をしすぎるのだ、と、木霊は言いたいらしい。
- 訪雪
- 「まあ、それはそれとして。花澄さんに断ってきたかね?
突然ゆずさんがいなくなったら、そちらのほうが心配するよ」
- 譲羽
- 『……でも、だって、花澄に内緒で……』
花澄に言えば、足が壊れたのもばれる訳である。
- 訪雪
- 「ちょっと電話してごらん」
- 譲羽
- 「……ぢい」
赤い受話器を抱え直し、譲羽はでたらめにボタンを押した。しばらく、沈黙。
- 譲羽
- 「ぢい」
差し出された受話器を耳にあててみる。呼び出し音が続いていた。
同時刻。ベーカリー楠。
からころからんっ
- 観楠
- 「あ、こんにちは、花澄さ……」
- 花澄
- 「すみませんっ! ゆずいますかっ!?」
長いスカートの裾が風を起こすほどの勢いで花澄が入ってきた。
- 観楠
- 「え? ゆずちゃん、ですか?」
- 花澄
- 「……やっぱりいないんだ。すみません!」
言うなり、また、ぱたぱたと駆け出してゆく。
- 観楠
- 「どうしたのかな……ん?」
傍らの電話が鳴り出した。
- 観楠
- 「? ……はい、もし」
- 電話
- 『花澄、花澄いますか?』
- 観楠
- 「はい? 花澄さんは今出て行かれましたが……あの」
かっちゃん。
- 観楠
- 「……誰だったんだ今の?」
飛び出していった花澄のほうは、というと。
- 花澄
- 「瑞鶴にはいないし、尊さんのところにも、ユラさんのと
ころにもいないし……」
もうそろそろ、思いつくところを探し尽くしたところだった。
- 花澄
- 「あとは……松蔭堂か、佐古田君のところか」
買い物に出た、ほんの少しの間。帰って来ると窓が丁度人形一つ分開いていた。
- 花澄
- 「……還ったの、かな」
曇天。いつ降り出してもおかしくない空模様。
- 花澄
- 「いつ還っても、おかしくは、ないんだけど」
ぽつんと言った声に反応したように。ぽつん、と。雨が降り出した。
- 譲羽
- 『……花澄ぃ……』
- 訪雪
- 「まだ、捕まらんかね?」
尋ねられて、譲羽は泣き顔になった。
- 譲羽
- 『……花澄ぃ……』
涙は出ない。木粘土製の体に涙腺はない。その代わりのように、外はいつのまにやら本降りになっている。
- 訪雪
- 「もう一度かけてごらん。電話の側にいないだけかもしれ
んよ」
- 譲羽
- 『うん』
入り込んだ路地裏で、花澄は溜息を吐いた。雨は降り続けている。濡れそぼった髪が、重い。
- 花澄
- 「ゆず、屋根のあるところにいればいいけど」
言ってから、苦笑する。もともとは、花澄の作った人形だ。あれが溶けたところで、ゆずは元の姿に戻るだけのことである。
- 花澄
- 「……莫迦、だな」
不便な体に閉じ込めて、人の世に置くのがよいことかどうか。何度も考えた筈である。それでも。
- 花澄
- 「ほんっとに、莫迦だ」
と。すぐ後ろの公衆電話が、突然鳴り出した。
- 花澄
- 「……まさかっ」
ガラスの扉を押し開けて、受話器を掴む。
- 花澄
- 「もしもしっ!」
- 電話
- 『花澄っ!?』
へたへた、と花澄はそこに座り込んだ。
- 花澄
- 「……どこにいるの?」
- 譲羽
- 『大家さんとこ』
- 花澄
- 「わかった。今行くからね」
- 譲羽
- 『うん』
かちゃん、と電話が切れる。受話器を握ったまま、花澄は苦笑した。
- 花澄
- 「じゃ……松蔭堂って、どう行くんだっけ、ここから?」
包帯を巻いて貰った足を、木霊は揺すっている。
- 訪雪
- 「花澄さん、遅いねえ」
- 譲羽
- 『……ゆずのこと、怒ってる』
- 訪雪
- 「さあねえ」
とんとん、と扉を叩く音に、木霊は飛び上がった。
- 花澄
- 「あの、すみません。ゆずがお邪魔しているそうで」
- 訪雪
- 「ああ、はい……ゆずさん、その足で歩いたら、くっつけ
たところがはずれるよ」
だから連れてってあげる、と続ける前に、譲羽は四つんばいになった。そのままててて、と走って(?)行く。
- 譲羽
- 「ぢいっ! ……ぢ?」
玄関のところで、その動きが止まった。
- 花澄
- 「……ああよかった。でもどうしたの?」
- 譲羽
- 「ぢい……」
- 訪雪
- 「……濡れましたね」
- 花澄
- 「雨が降る前に飛び出したもので(苦笑)。あ、ゆず、今は
近づかないで。ゆずまで濡れると厄介だから」
髪の毛を後ろに払いながらそう言った花澄を、木霊はじっと見た。
- 譲羽
- 『何で、花澄、濡れてるの?』
- 花澄
- 「雨の中歩いてれば、濡れるものでしょう?」
- 譲羽
- 『でも、花澄。花澄は、濡れないよ。いつもは濡れないよ。
傘無くても』
- 花澄
- 「……何で、でしょうね?」
ぢいぢいと鳴くゆずの言葉は、訪雪には分からない。ただ、えらく真剣な様子だけはよく分かる。
- 訪雪
- 「何か拭くもの持ってきましょう。そのままじゃ風邪引き
ますよ」
- 花澄
- 「あ、いえ。すぐ帰りますから」
- 訪雪
- 「帰りますって言ってもこの雨だ。ゆずちゃんが濡れるで
しょう」
- 花澄
- 「大丈夫です」
妙にきっぱりと花澄は言い切る。
- 訪雪
- 「……じゃ、袋と電話を取ってきますよ。ゆずさんもおい
で」
手を伸ばすと、今度は素直に木霊がその手を掴んだ。部屋に入り、受話器を持たせる。
- 訪雪
- 「何を言ってたの?」
- 譲羽
- 『ほんとは、花澄、濡れないの。濡れたくない、って思う
と濡れないの。でも』
- 訪雪
- 「びしょぬれだね」
- 譲羽
- 『それに、花澄、ほんとはゆずのいるとこ、すぐに分かる
の。聞けばわかるの。どうして聞かないの』
- 訪雪
- 「聞くって、誰に?」
- 譲羽
- 『四大』
単純にして簡潔。
- 訪雪
- 「花澄さんに聞くしかないね」
- 譲羽
- 『……その前に、怒られるもの』
- 訪雪
- 「そりゃあ、覚悟しとかんとなあ」
木霊は上目遣いになって、ぢい、と鳴いた。
- 花澄
- 「じゃ、傘お借りしていきます。有難うございました」
- 訪雪
- 「いえ、どういたしまして」
ビニール袋の中で、木霊がじたばたしている。
- 訪雪
- 「ゆずちゃんの足も、明日になれば完全にくっついてます
から」
- 花澄
- 「有難うございます」
深々と頭を下げて、花澄は出ていった。
- 花澄
- 「ゆず」
- 譲羽
- 『……はい』
部屋に入って、着替えてからの第一声に、木霊は身を縮めた。が、続く声は、予想から外れた。
- 花澄
- 「……還ったかと、思った」
- 譲羽
- 『?』
- 花澄
- 「そういう、こと」
- 譲羽
- 『そういう、こと?』
首を傾げるばかりの木霊の頭を、花澄はとん、と叩いた。
- 花澄
- 「どうして濡れてるの、って聞くから、答えてるのに」
- 譲羽
- 『え?』
- 花澄
- 「耳をふさいでたらね、こうなったの」
還ってしまった、と、答えが返るのは聞きたくなかった。聞きたくなかった自分が、ひどく、情けなかった。折り合いをつけるまでに、時間がかかっただけのことである。
- 譲羽
- 『花澄?』
- 花澄
- 「明日になったら、上から胡粉塗ったげるね」
それだけ言うと、花澄はにっこり笑った。雨はまだ降り続いている。
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