エピソード601『帰郷』


目次


エピソード601『帰郷』

帰省〜松蔭堂にて

松蔭堂、午後1時。起きたばかりの十が茶の間に出てくる。食卓には二人分の膳、前に座っているのは凍雲独り。

「おはようございます、御隠居……若大家はどうしたんで すか」
凍雲
「遅かったの、一君。訪雪なら、くにに帰るとかで午前中 に発ったぞ。あと2、3日は戻らんそうだ」
「そういや若大家って、御隠居の息子じゃあなかったんだ よな……若大家の実家ってどこなんですか」
凍雲
「東北線の鈍行に乗り継ぐと言うとったから、茨城か栃木 か、遠くて福島辺りだろう。儂も詳しく聞いたことはないがの」
「ふうん……あ、昼飯いただきます」

帰省〜駅にて

駅の歩道橋から見た空は、既にとっぷりと暮れていた。ブロンズ色の欄干から下の駐車場を覗き込んで、訪雪は迎えに来ているはずの車を捜した。

訪雪
「……とっくに来とったか」

真新しい歩道橋の真下、出迎え専用の駐車場に、砂色の軽トラックが停まっている。横腹に書かれた『小松金工』の文字……父親の工場の車だった。
 早足に階段を下りて車に近付き、軽トラック独特の高い助手席によじ登る。運転席についたまま待っていた父親・俊樹の額の生え際は、前見たときよりさらに後退していた。

俊樹
「遅かったな。ミユキ」
訪雪
「上野で一本乗り遅れてな。電話入れようと思ったんだが、 次の発車も迫っとったんで、そのまま乗っちまった」
俊樹
「それにしちゃ、ガム買う暇はあったようだが……私鉄で 来れば、駅からうちまでいくらもないだろうに」
訪雪
「そりゃ無茶だ。浅草に出るにしても、栗橋で乗り換える にしても、時間がかかりすぎる。東京にいた頃みたいに、快速乗り継いでちゃちゃっと帰るわきゃいかんよ」
俊樹
「確かに、吹利は遠いよなぁ……お帰り」
訪雪
「……ただいま。父ちゃん」

久々の我が家

駅から家まで、車で20分かかる。玄関で出迎えたのは、仙台にいるはずの下の妹だった。

訪雪
「なんだ、お前も帰っとったんか。結花」
結花
「おかえり、ユキ兄。ナツ姉も昨日から帰ってるよ」

奥を指差す結花の髪は、根元が緑、先が青に染め分けられている。

訪雪
「また、色変えたんか。頭」
結花
「うん、一昨日。似合うだろ?」
訪雪
「まぁ……こないだの紫よかましだぁな」
結花
「ましって……ま、いっか。明後日着てく浴衣、明日探し に行くんだ。ユキ兄付き合ってよ」
訪雪
「判った。仕立てる間がないから、出来合いのでいいんだ よな?」
結花
「いいよ。でもお金ないから代わりに出してね」
訪雪
「……はいはい(苦笑)」

久し振りの、家族がそろった夕食。作業服に角刈りの俊樹と、絽の着流しに束ね髪の訪雪と。父親が二人いるような、妙な光景ではある。
 母・洋子の隣に座った訪雪が、ふと手元を見て呟く。

訪雪
「おや? 儂の茶碗、変わったんか」
洋子
「ごめん、訪雪。あんたが帰ってくるっていうんで、昨日 洗ってたら、手を滑らせちゃって」
訪雪
「割れちゃったもんは仕方ないよ……しかし、この歳になっ て象さんの茶碗を持つとは思わんかったなぁ」
結花
「似合ってるじゃん、ユキ兄」
訪雪
「……(無言で苦笑)」

上の妹・納月は、黙ってテレビに見入っている。その手元の茶碗も、去年と違う柄だった。

買い物先にて〜遭遇

翌日午前、私鉄の終着駅。訪雪の両脇には、緑色の髪を頭上で二つの団子に結い上げ、鮮やかな空色のTシャツを着た結花と、真紅のミニドレスに黒エナメルのピンヒールサンダルの納月がいる。

訪雪
「財布の紐にぶらさがるのは結花だけだと思ったのに…… 納月、お前も浴衣目当てなんか?」
納月
「ええ。絽の着物が買えるくらいは儲かってるんでしょ? ユキ。たまにはあたしにもおねだりさせてくれたっていいじゃない」
訪雪
「大学とっくに出た身でなに言ってんだか……はいはい、 よござんすよ。浴衣でもなんでも、お兄様が選んでさしあげましょ」
結花
「着物のセンスと財布だけは信じてるからね、ユキ兄」

駅ビルのデパートに入ろうとしたところで、訪雪は意外な人影を見つける。
 大きく手を振った訪雪に応えて、白いジャケットのその人物は早足で歩み寄ってきた。

訪雪
「豊中君。まさかこんな所で遭うとは思わなかったよ」
豊中
「こっちこそびっくりしましたよ、若大家。(妹達に目を やって)
両手に花でハーレム状態……というわけではなさそうですね。娘さんですか(にや)」
訪雪
「まさか(苦笑) 妹だよ。君の実家もこの辺なのかね」
豊中
「俺の実家、ねえ(苦笑) ……知り合いの家に泊まってる んですよ。しかし、兄上とはえらく趣味の違う妹さんたちですね」
納月
「これであたしと5つしか違わないってとこが笑えるわよ ね。あたしは納月、訪雪の妹。でこっちが」
結花
「末っ子の結花。お兄さんは?」
豊中
「豊中雅孝、若……訪雪さんの吹利での知り合いです。で、 若大家、5階でやってる古本市には行かれないんですか?」
訪雪
「あとで行けたら行くさ。とりあえず、こいつらの浴衣が 先だ」
豊中
「じゃあ俺は5階に行きます。あとでまた遭うかも知れま せんね」
訪雪
「かもね。んじゃ」

買い物先にて〜再会

昼過ぎ、駅前の大通り。訪雪の手には、大きな袋が二つ、ぶら下がっている。道の向こうから歩いてくる相手に、結花が大きく手を振った。

結花
「円山さんっ!」
円山
「お、ユカ坊か。久し振り。納月ちゃんも一緒かい。で、 こちらの渋い人は、叔父さんか誰か?」

円山は訪雪の高校時代の同級生だった。家によく遊びに来ていたから、妹達の顔もよく知っている。旧友が目の前にいることに気付かない相手に、訪雪は苦笑した。

訪雪
「やっぱり判らんか……ヲレだよヲレ。こいつらの兄貴だ」
円山
「兄貴って……ひょっとして、訪雪? 嘘だろおっさん」
訪雪
「同い年の相手におっさんはないだろう。こう見えてもま だ20代だよ」
円山
「う〜ん……そう言われてみれば、確かにお前訪雪だわ。 しかし驚いたな……あの『瞬間着火の訪雪』が、たったの10年でこんなに老成しちまうなんて」
訪雪
「『瞬間着火』か。懐かしい綽名を聞いたなぁ……そうい や、ひと頃荒れてたこともあったっけ」
円山
「荒れてたなんてもんじゃなかったさ。お前をよく知らな い奴は、姿を見るだけで避けて通ったくらいだった……いまは、あれほどじゃないんだな?」
訪雪
「あんなことを続けてたら、今頃何処かで刺されてるさ。 それに……意地を張るには、体力も気力もとっくに足りなくなってるよ」
円山
「ま、お互い一応社会人だしな。それにしても……外見ま で、こうも徹底的に変わるかね」

かなりの部分、自分で意識して変えた部分はあったのだが。

訪雪
「そういうこともあるもんだ。じゃ、儂は古本市を見に行 くから」
円山
「じゃ、また。俺は引っ越してないから、あとで電話くれ な」
訪雪
「覚えてたらね」

まだ首を傾げながら、円山は遠ざかっていく。

結花
「ユキ兄、確かに変わったけど……わかんなくなるほどか なぁ」
納月
「ま、あたしたちは、最低一年おきに変化を確認してるか らね。10年もブランクがあったら、確かに判らないかもよ」

祭り

翌日、同じ駅前大通りは、屋台の立ち並ぶ祭りの場と化していた。訪雪が……そして恐らく妹達も、この日を選んで帰ってきたのは、この祭りを見たいからだった。
 せいぜい十数年の伝統しかない祭りだし、特に珍しい見ものがあるというわけでもない。ただ……三人が三人とも、かつてスタッフの一員として裏方から祭りに参加していた、その記憶ゆえに、毎年この日に帰ってくるのかも知れなかった。
 納月も結花も、昨日訪雪に買ってもらった浴衣を着ている。派手な顔立ちの納月に合わせた、黒地に大輪の花をあしらった浴衣と、結花の髪の色に合わせた、黄色の地に翡翠色の熱帯魚の泳ぐ浴衣と。
 仕立上がりの安価なものにしては似合っていることが、選んだ人間にとってはすこしだけ自慢だった。

結花
「ユキ兄、お面買お」
納月
「まぁたあんたってば、そういうバブリーなものを……ユ キ?」

実のところ、訪雪は人混みはあまり好きでなかった。混んだところを避けて歩いているうちに、いつしか妹達から離れて独りになっていた。
 発電機の音が遠く響く中、入り込んだ細い路地は、数メートル先の熱気が嘘のようにしんとしていた。
 ざわめきと熱狂から、ひとりだけ取り残されたような気分。どの祭りでも、一度は味わうものだった。こんな気分になりたくなくて、昔は裏方を選んだのだろう。こんな気分になりたくて、いまはこうして帰ってくるのだろう。
 左手の指につけたヨーヨーが、がしゃり、と硬い水音を立てる。思い出したように手を掲げ、小さな風船を夜店の灯りに翳す。透き通ったゴムの中の水面を通して見える風景の中に、高校生だった自分のはしゃぐ姿が見えた気がした。

結花
「……兄。ユキ兄ってば!」
納月
「全く、こんな所で何たそがれてんのよ。もっと楽しまな いと、あっと言う間にお祭り終わっちゃうわよ」
訪雪
「……うむ……そうだな。焼きイカでも食うか?」
結花
「あたしはイカよりじゃがバターの方がいいな。あっちの お店が一番お芋が大きかったよ。行こ!」

妹達に手を引かれて、訪雪は小走りにざわめきの中に飛び出した。

吹利へ〜祭りの夢の跡

結花
「なんだユキ兄、もう帰っちゃうの?」
納月
「もう歳なんだから、少しはゆっくりしてったらいいの に(笑)」
訪雪
「曲がりなりにも自営業だ。そう長くは店を空けておれん し、先生にいつまでも店番を頼むわけにもいかんよ。向こうへ着いたら電話……いけね。円山に電話すんの忘れてら。ま、電話代はかさむが、向こうから連絡入れっか」
洋子
「ちゃんと電話しなよ。そういうとこで不精してると、ど んどん友達が減ってくんだから」
訪雪
「判ってるって。じゃ、行ってきます」

トラックの助手席に乗り込みながら、笑って手を振る。松蔭堂を出てくるときの挨拶も、確か「行ってきます」だった。
 駅へ向かう道すがら、ハンドルを握った俊樹がぽつりと言った。

俊樹
「こっちへ、帰ってくるつもりはないのか」
訪雪
「儂は……父ちゃんみたいな仕事にゃ向いてないよ。それ に……向こうでの、骨董屋としての暮らしが、もうすっかり板についちまってる」
俊樹
「そうか……俺は……お前と納月と結花と、誰でもいいか らひとりくらいは、工場を継いでもらいたかったんだがなぁ」
訪雪
「吹利に行くことを決めたとき、実のところ少し後ろめた かった。でも……いまは、これでよかったんだと思ってる」
俊樹
「お前がそう思うんなら、俺は何も言えんよ……向こうの 人とはうまくやってるか」
訪雪
「こっちにいたときよりはね。それなりの人望はあるんだ よ、儂にだって」
俊樹
「そうか、それはよかったな……」

車は駅のロータリーに入って、停まる。

俊樹
「じゃ、元気でやれよ。今度来るときは彼女連れて来いな。 全く、彼女も出来んうちになりばかり老けやがって」
訪雪
「そうだな……出来たら、な。じゃ、父ちゃんも気をつけ て。行ってきます」
俊樹
「行ってらっしゃい」

走り去る車を歩道橋の上で見送って、訪雪は駅に入っていった。



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