松蔭堂、午後1時。起きたばかりの十が茶の間に出てくる。食卓には二人分の膳、前に座っているのは凍雲独り。
- 十
- 「おはようございます、御隠居……若大家はどうしたんで
すか」
- 凍雲
- 「遅かったの、一君。訪雪なら、くにに帰るとかで午前中
に発ったぞ。あと2、3日は戻らんそうだ」
- 十
- 「そういや若大家って、御隠居の息子じゃあなかったんだ
よな……若大家の実家ってどこなんですか」
- 凍雲
- 「東北線の鈍行に乗り継ぐと言うとったから、茨城か栃木
か、遠くて福島辺りだろう。儂も詳しく聞いたことはないがの」
- 十
- 「ふうん……あ、昼飯いただきます」
駅の歩道橋から見た空は、既にとっぷりと暮れていた。ブロンズ色の欄干から下の駐車場を覗き込んで、訪雪は迎えに来ているはずの車を捜した。
- 訪雪
- 「……とっくに来とったか」
真新しい歩道橋の真下、出迎え専用の駐車場に、砂色の軽トラックが停まっている。横腹に書かれた『小松金工』の文字……父親の工場の車だった。
早足に階段を下りて車に近付き、軽トラック独特の高い助手席によじ登る。運転席についたまま待っていた父親・俊樹の額の生え際は、前見たときよりさらに後退していた。
- 俊樹
- 「遅かったな。ミユキ」
- 訪雪
- 「上野で一本乗り遅れてな。電話入れようと思ったんだが、
次の発車も迫っとったんで、そのまま乗っちまった」
- 俊樹
- 「それにしちゃ、ガム買う暇はあったようだが……私鉄で
来れば、駅からうちまでいくらもないだろうに」
- 訪雪
- 「そりゃ無茶だ。浅草に出るにしても、栗橋で乗り換える
にしても、時間がかかりすぎる。東京にいた頃みたいに、快速乗り継いでちゃちゃっと帰るわきゃいかんよ」
- 俊樹
- 「確かに、吹利は遠いよなぁ……お帰り」
- 訪雪
- 「……ただいま。父ちゃん」
駅から家まで、車で20分かかる。玄関で出迎えたのは、仙台にいるはずの下の妹だった。
- 訪雪
- 「なんだ、お前も帰っとったんか。結花」
- 結花
- 「おかえり、ユキ兄。ナツ姉も昨日から帰ってるよ」
奥を指差す結花の髪は、根元が緑、先が青に染め分けられている。
- 訪雪
- 「また、色変えたんか。頭」
- 結花
- 「うん、一昨日。似合うだろ?」
- 訪雪
- 「まぁ……こないだの紫よかましだぁな」
- 結花
- 「ましって……ま、いっか。明後日着てく浴衣、明日探し
に行くんだ。ユキ兄付き合ってよ」
- 訪雪
- 「判った。仕立てる間がないから、出来合いのでいいんだ
よな?」
- 結花
- 「いいよ。でもお金ないから代わりに出してね」
- 訪雪
- 「……はいはい(苦笑)」
久し振りの、家族がそろった夕食。作業服に角刈りの俊樹と、絽の着流しに束ね髪の訪雪と。父親が二人いるような、妙な光景ではある。
母・洋子の隣に座った訪雪が、ふと手元を見て呟く。
- 訪雪
- 「おや? 儂の茶碗、変わったんか」
- 洋子
- 「ごめん、訪雪。あんたが帰ってくるっていうんで、昨日
洗ってたら、手を滑らせちゃって」
- 訪雪
- 「割れちゃったもんは仕方ないよ……しかし、この歳になっ
て象さんの茶碗を持つとは思わんかったなぁ」
- 結花
- 「似合ってるじゃん、ユキ兄」
- 訪雪
- 「……(無言で苦笑)」
上の妹・納月は、黙ってテレビに見入っている。その手元の茶碗も、去年と違う柄だった。
翌日午前、私鉄の終着駅。訪雪の両脇には、緑色の髪を頭上で二つの団子に結い上げ、鮮やかな空色のTシャツを着た結花と、真紅のミニドレスに黒エナメルのピンヒールサンダルの納月がいる。
- 訪雪
- 「財布の紐にぶらさがるのは結花だけだと思ったのに……
納月、お前も浴衣目当てなんか?」
- 納月
- 「ええ。絽の着物が買えるくらいは儲かってるんでしょ?
ユキ。たまにはあたしにもおねだりさせてくれたっていいじゃない」
- 訪雪
- 「大学とっくに出た身でなに言ってんだか……はいはい、
よござんすよ。浴衣でもなんでも、お兄様が選んでさしあげましょ」
- 結花
- 「着物のセンスと財布だけは信じてるからね、ユキ兄」
駅ビルのデパートに入ろうとしたところで、訪雪は意外な人影を見つける。
大きく手を振った訪雪に応えて、白いジャケットのその人物は早足で歩み寄ってきた。
- 訪雪
- 「豊中君。まさかこんな所で遭うとは思わなかったよ」
- 豊中
- 「こっちこそびっくりしましたよ、若大家。(妹達に目を
やって)
両手に花でハーレム状態……というわけではなさそうですね。娘さんですか(にや)」
- 訪雪
- 「まさか(苦笑) 妹だよ。君の実家もこの辺なのかね」
- 豊中
- 「俺の実家、ねえ(苦笑) ……知り合いの家に泊まってる
んですよ。しかし、兄上とはえらく趣味の違う妹さんたちですね」
- 納月
- 「これであたしと5つしか違わないってとこが笑えるわよ
ね。あたしは納月、訪雪の妹。でこっちが」
- 結花
- 「末っ子の結花。お兄さんは?」
- 豊中
- 「豊中雅孝、若……訪雪さんの吹利での知り合いです。で、
若大家、5階でやってる古本市には行かれないんですか?」
- 訪雪
- 「あとで行けたら行くさ。とりあえず、こいつらの浴衣が
先だ」
- 豊中
- 「じゃあ俺は5階に行きます。あとでまた遭うかも知れま
せんね」
- 訪雪
- 「かもね。んじゃ」
昼過ぎ、駅前の大通り。訪雪の手には、大きな袋が二つ、ぶら下がっている。道の向こうから歩いてくる相手に、結花が大きく手を振った。
- 結花
- 「円山さんっ!」
- 円山
- 「お、ユカ坊か。久し振り。納月ちゃんも一緒かい。で、
こちらの渋い人は、叔父さんか誰か?」
円山は訪雪の高校時代の同級生だった。家によく遊びに来ていたから、妹達の顔もよく知っている。旧友が目の前にいることに気付かない相手に、訪雪は苦笑した。
- 訪雪
- 「やっぱり判らんか……ヲレだよヲレ。こいつらの兄貴だ」
- 円山
- 「兄貴って……ひょっとして、訪雪? 嘘だろおっさん」
- 訪雪
- 「同い年の相手におっさんはないだろう。こう見えてもま
だ20代だよ」
- 円山
- 「う〜ん……そう言われてみれば、確かにお前訪雪だわ。
しかし驚いたな……あの『瞬間着火の訪雪』が、たったの10年でこんなに老成しちまうなんて」
- 訪雪
- 「『瞬間着火』か。懐かしい綽名を聞いたなぁ……そうい
や、ひと頃荒れてたこともあったっけ」
- 円山
- 「荒れてたなんてもんじゃなかったさ。お前をよく知らな
い奴は、姿を見るだけで避けて通ったくらいだった……いまは、あれほどじゃないんだな?」
- 訪雪
- 「あんなことを続けてたら、今頃何処かで刺されてるさ。
それに……意地を張るには、体力も気力もとっくに足りなくなってるよ」
- 円山
- 「ま、お互い一応社会人だしな。それにしても……外見ま
で、こうも徹底的に変わるかね」
かなりの部分、自分で意識して変えた部分はあったのだが。
- 訪雪
- 「そういうこともあるもんだ。じゃ、儂は古本市を見に行
くから」
- 円山
- 「じゃ、また。俺は引っ越してないから、あとで電話くれ
な」
- 訪雪
- 「覚えてたらね」
まだ首を傾げながら、円山は遠ざかっていく。
- 結花
- 「ユキ兄、確かに変わったけど……わかんなくなるほどか
なぁ」
- 納月
- 「ま、あたしたちは、最低一年おきに変化を確認してるか
らね。10年もブランクがあったら、確かに判らないかもよ」
翌日、同じ駅前大通りは、屋台の立ち並ぶ祭りの場と化していた。訪雪が……そして恐らく妹達も、この日を選んで帰ってきたのは、この祭りを見たいからだった。
せいぜい十数年の伝統しかない祭りだし、特に珍しい見ものがあるというわけでもない。ただ……三人が三人とも、かつてスタッフの一員として裏方から祭りに参加していた、その記憶ゆえに、毎年この日に帰ってくるのかも知れなかった。
納月も結花も、昨日訪雪に買ってもらった浴衣を着ている。派手な顔立ちの納月に合わせた、黒地に大輪の花をあしらった浴衣と、結花の髪の色に合わせた、黄色の地に翡翠色の熱帯魚の泳ぐ浴衣と。
仕立上がりの安価なものにしては似合っていることが、選んだ人間にとってはすこしだけ自慢だった。
- 結花
- 「ユキ兄、お面買お」
- 納月
- 「まぁたあんたってば、そういうバブリーなものを……ユ
キ?」
実のところ、訪雪は人混みはあまり好きでなかった。混んだところを避けて歩いているうちに、いつしか妹達から離れて独りになっていた。
発電機の音が遠く響く中、入り込んだ細い路地は、数メートル先の熱気が嘘のようにしんとしていた。
ざわめきと熱狂から、ひとりだけ取り残されたような気分。どの祭りでも、一度は味わうものだった。こんな気分になりたくなくて、昔は裏方を選んだのだろう。こんな気分になりたくて、いまはこうして帰ってくるのだろう。
左手の指につけたヨーヨーが、がしゃり、と硬い水音を立てる。思い出したように手を掲げ、小さな風船を夜店の灯りに翳す。透き通ったゴムの中の水面を通して見える風景の中に、高校生だった自分のはしゃぐ姿が見えた気がした。
- 結花
- 「……兄。ユキ兄ってば!」
- 納月
- 「全く、こんな所で何たそがれてんのよ。もっと楽しまな
いと、あっと言う間にお祭り終わっちゃうわよ」
- 訪雪
- 「……うむ……そうだな。焼きイカでも食うか?」
- 結花
- 「あたしはイカよりじゃがバターの方がいいな。あっちの
お店が一番お芋が大きかったよ。行こ!」
妹達に手を引かれて、訪雪は小走りにざわめきの中に飛び出した。
- 結花
- 「なんだユキ兄、もう帰っちゃうの?」
- 納月
- 「もう歳なんだから、少しはゆっくりしてったらいいの
に(笑)」
- 訪雪
- 「曲がりなりにも自営業だ。そう長くは店を空けておれん
し、先生にいつまでも店番を頼むわけにもいかんよ。向こうへ着いたら電話……いけね。円山に電話すんの忘れてら。ま、電話代はかさむが、向こうから連絡入れっか」
- 洋子
- 「ちゃんと電話しなよ。そういうとこで不精してると、ど
んどん友達が減ってくんだから」
- 訪雪
- 「判ってるって。じゃ、行ってきます」
トラックの助手席に乗り込みながら、笑って手を振る。松蔭堂を出てくるときの挨拶も、確か「行ってきます」だった。
駅へ向かう道すがら、ハンドルを握った俊樹がぽつりと言った。
- 俊樹
- 「こっちへ、帰ってくるつもりはないのか」
- 訪雪
- 「儂は……父ちゃんみたいな仕事にゃ向いてないよ。それ
に……向こうでの、骨董屋としての暮らしが、もうすっかり板についちまってる」
- 俊樹
- 「そうか……俺は……お前と納月と結花と、誰でもいいか
らひとりくらいは、工場を継いでもらいたかったんだがなぁ」
- 訪雪
- 「吹利に行くことを決めたとき、実のところ少し後ろめた
かった。でも……いまは、これでよかったんだと思ってる」
- 俊樹
- 「お前がそう思うんなら、俺は何も言えんよ……向こうの
人とはうまくやってるか」
- 訪雪
- 「こっちにいたときよりはね。それなりの人望はあるんだ
よ、儂にだって」
- 俊樹
- 「そうか、それはよかったな……」
車は駅のロータリーに入って、停まる。
- 俊樹
- 「じゃ、元気でやれよ。今度来るときは彼女連れて来いな。
全く、彼女も出来んうちになりばかり老けやがって」
- 訪雪
- 「そうだな……出来たら、な。じゃ、父ちゃんも気をつけ
て。行ってきます」
- 俊樹
- 「行ってらっしゃい」
走り去る車を歩道橋の上で見送って、訪雪は駅に入っていった。
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