温度計の水銀柱は、摂氏三十度を越えて伸びていた。
- 御影
- 「……暑い」
スーツを着ていればそれも当然であろう。
ベーカリー楠のドアを開けると、涼しい風が……吹いてこなかった。
- 観楠
- 「クーラーが故障したんですよ」
観楠も暑そうな顔をしていた。
- 御影
- 「(げっそりしながら)紅茶を」
- 観楠
- 「暑くて済みませんね」
スーツの上着を脱ぐ御影。
からからん
ドアが開き、次の客がやってくる。どこかのおばちゃんだった。
- おばちゃん
- 「どしたの店長、ずいぶん暑いじゃない?」
- 観楠
- 「ええ。クーラーが故障しているんですよ。暑くて済みま
せんね」
- おばちゃん
- 「ふうん。食パン一斤ちょうだい。……じゃ頑張って」
- 観楠
- 「ありがとうございました」
- 御影
- 「ドア、開けっ放しにした方が涼しいんと違うか?」
- 観楠
- 「そうしたい所なんですけれどね、埃が入ってくるので駄
目なんですよ」
- 御影
- 「そうやったな」
からからん
話しているところへ、次の客。一十だった。
三十秒とおかずに、また次の客。豊中ともう一人、二十代半ばのサラリーマン風の男。
- 一
- 「うお、どうしたんですか店長、この熱気は」
- 観楠
- 「クーラーが故障したんですよ」
- 一
- 「ここに来れば涼しいと思ったのに」
- 豊中
- 「自分のところにクーラー入れればいいだろうが」
- 一
- 「(胸を張って)そんな金はない」
- 豊中
- 「威張るようなことかよ(^^;)
そういえば、お前は今日もパンの耳か?」
- 一
- 「ふっふっふ、奨学金が入ったのでカレーパンだ」
- 豊中
- 「……とことん貧乏な奴」
- 英人
- 「お前に人のことが言えるのか、雅孝」
- 豊中
- 「言える。俺の所にはクーラーが入っている」
- 英人
- 「日頃は扇風機しか使っていないくせに」
- 豊中
- 「壊れているんだから仕方がないだろう」
- 御影
- 「ようするに同レベルということやな」
- 一&豊中
- 「(同時に相手を指さし)これと!?」
- 英人
- 「やっぱり同レベルだな」
感心したように言った英人に、改めて気付く御影。すっと顎を引き、意識してそうしたわけではないがやや低い声で
- 御影
- 「そちらは?」
- 観楠
- (そーゆー聞き方をされると怖いと思うんだがなあ(^^;))
- 英人
- 「ああ、私はこれの(豊中を指さす)従兄で能義ともうしま
す。いつも雅孝がお世話になっております」
かけらも動じず、観楠と御影に頭を下げる英人。その間にさっさとパンを選んできた豊中、トレイを英人に押しつける。
- 豊中
- 「奢ってくれるよな、月給取り」
- 英人
- 「薄給の国家公務員にたかるか?(笑)」
- 豊中
- 「キャリア組だろうが」
- 英人
- 「そいつは過労死予備軍と同義語なんだよ(涙)」
- 豊中
- 「通産や大蔵よりましだろ、英人んとこは」
- 英人
- 「まあな。とにかく今日の所は奢ってやる、ありがたく思
え(威張る)。とゆーわけで俺の分も持って来なさい。ドーナツがいいぞ」
- 豊中
- 「このくそ暑いのに余分に動かなちゃいかんのか」
- 一
- 「暑いならそのジャケットを脱げばいいだろうが(呆)」
ちらりと温度計を見る観楠。四十度に迫ろうとしていた。
からからん
ベルの音だけは涼やかである。
- 御影
- 「……暑い(重低音)」
- 尊
- 「……クーラーが故障したようね、店長さん?」
- 観楠
- 「そうなんですよ」
- 豊中
- 「……暑い(カウンターに伸びている)」
- 英人
- 「心頭滅却すれば……やはり暑いか(けろっとしている)」
- 尊
- 「涼しいところに行けばいいのに(呆)」
暑くても面倒くさがって動かないあたりが、野郎の野郎たる所以である。
- 尊
- 「じゃあ、あたしはお店に戻りますから」
- 豊中
- 「いいんですか? 旦那が来てるのに」
- 尊
- 「なんでそうなるわけ!?(真っ赤)」
- 御影
- 「(黙って立ち上がり、豊中を殴る) ……動いたらよけい
暑くなったな」
- 豊中
- 「……じゃあ、殴らんでください」
もう一発殴られた。そそくさと尊が出ていった後、むさ苦しく気怠い時間が過ぎる。
からからん
ふんわりと涼しい風が入ってくる。室内の空気が、一気にやわらいだ。
- 豊中
- 「(突っ伏したまま) 花澄さん、まさに救いの女神様です
ね」
- 花澄
- 「皆さん、どうしたんですか?」
きょとんとする花澄。
- 観楠
- 「クーラーが故障しちゃいましてね(汗笑)」
- 花澄
- 「大変ですねえ(しみじみ)」
- 英人
- 「なんだか、いきなりちょうどいい気温になったな」
- 豊中
- 「彼女の周囲何メートルかはいつも春なんだよ」
- 英人
- 「歩くエアコンみたいなひとだな」
- 花澄
- 「……(ちょっと憮然)」
突風が英人に吹き付けたが、英人はやっぱりなにも気にしていないようだった。
からからん。
外の熱風と共に青年が店に入ってくる。目は虚ろで焦点があっておらず、夢遊病者のような足取りも危なげである。
- 豊中
- 『すごい食欲だな。あれだと多分、三日は飯を食っていな
いぞ』
- 居候
- 『最近珍しい若者だのう』
青年は何をしているのか、店に一歩入ったまま立ちつくし、彫像のように微動だにしない。
- 地
- ”食われる”
- 花澄
- 「?」
くん、と髪を引っ張られるような感覚と共に、花澄は地の声を聞いた。言葉の内容の割に、緊迫感はない。
- 地
- ”あの青年が、地龍を食べている”
- 花澄
- 「……美味しいの?」
- 地
- ”さあ”
- 花澄
- 「大丈夫?」
- 地
- ”せいぜいが鱗一枚にも足らぬ”
”ただ”
風がほんの少し肩を押し、青年から遠ざけた。
- 英人
- 「めずらしい客が来る店だな」
- 豊中
- 「見た事のない顔だけど、まああの程度はめずらしくない
よ。突っ立っているだけで、どういう訳か腹が膨れる奴でもね。
(一をつついて) おい一、あいつが食っているか、わかるか?」
- 観楠
- 「いらっしゃいませ」
その一言で青年は正気に返った。
- 遊児
- 「すいません。ここはどこでしょうか?」
- 観楠
- 「はい?」
- 遊児
- 「ここ三日ほど研究室に籠りっ放しだったんですが、気が
つくとここにいるんですが」
- 御影
- 「また妙なのが来たな。……この暑いのに(ぼそ)」
- 観楠
- 「そちらの事情はよく分かりませんが、ここはべーカリー
です。そちらに喫茶コーナーもありますから、よろしければご注文をどうぞ」
- 遊児
- 「じゃあ、アイスミルクティーをお願いします」
かららん
- 直紀
- 「こんちゃーっす。観楠さんお茶ちょーだいっ。ところで
皆さん、なんでそんなに汗かいてるんです? こんなに快適なのに」
その声で、木霊が袋から飛び出す。
- 譲羽
- 「ぢいぢい(わーい、直紀さんだ)」
- 御影
- 「直紀さん、いいタイミングで来たな」
- 観楠
- 「いらっしゃい。今日はクーラーが故障してね、さっきま
で蒸し風呂みたいだったんだけど花澄さんが来たから(笑)」
- 直紀
- 「あ、納得(笑)」
- 花澄
- 「そこで納得されてしまうのも……」
- 譲羽
- 「ぢぃ(でも、花澄。みんなよろこんでるよ)」
- 花澄
- 「そう……ね(苦笑)」
いつものカウンター席に座り、出されたアイスティーを飲み干す。カリッと中の氷をかじってると、ふと十の手元に目がいく。
- 直紀
- 「あ、一さんがカレーパン食ってるー。どしたの??」
- 一
- 「どしたのって……そんなに珍しいんですか。俺がパンの
耳以外の物を食ってる姿って(汗)」
- 直紀
- 「うん!(笑)」
- 豊中
- 「(ぽむ) 諦めろ、一。既に柳さんの中には『パンの耳=
一十』の図式が出来上がってるんだから」
- 一
- 「何故だぁぁぁ(泣)」
- 御影
- 「まぁ、毎度のごとくパンの耳食べてりゃなぁ」
- 一
- 「ぐっ、反論できない」
- 花澄
- 「(くすくす) 大丈夫よ、一さん。そのうち他の物も食べ
られるようになるから」
- 豊中
- 「ほほぉーう(にや)」
- 御影
- 「よかったなぁ、十(にやり)」
- 直紀
- 「……なんで、にやにやしながらこっち見るんですかぁ(汗)」
- 英人
- 「大人げないぞ、雅孝」
- 豊中
- 「これが俺のライフワークだ(きっぱり)」
- 英人
- 「そうか、なら止めんが」
- 一
- 「止めて下さい(汗)」
端のカウンターでアイスミルクティーを飲みつつ、事の一部始終を聞いていた遊児は……何故か打ち震えていた(^^;
- 遊児
- 「(この甘い中にも少し混じったほろ苦さ! 微妙に入り
交じった感情の起伏。しかも何だ? この感情の純度の高さは!! 世の中にこんなに食欲を満たしてくれる場所があったなんて) ああ……おいしいなぁ(感涙)」
- 観楠
- 「そうですか? ありがとうございます(照)
(アイスミルクティーであんなに嬉しそうな顔されたのは初めてだなぁ)」
- 遊児
- 「え、いやその……おいしいですよ、ホントに。
(しまった、思わず声にだしてしまったか(^^;)」
- 花澄
- 「(そっか、美味しいのか……じゃなくって) あの、すみ
ません店長さん、食パン一斤とサンドイッチ下さいな」
- 観楠
- 「あ、はいはい」
- 花澄
- 「……それと、あの……私帰りますけど、宜しいですか?」
- 豊中
- 「え”っ、もうお帰りですか!?」
- 直紀
- 「はうう」
カウンターにつっぷす直紀、思わず声を上げる豊中。
- 花澄
- 「え、あ、はあ(そ、そこまで暑いのかな)」
- 譲羽
- 「ぢいっ!?(え、もうかえるの!?)」
やや不満らしい譲羽。
- 花澄
- 「帰るわよ、ゆず。お仕事途中だし、店長待ってるし」
- 譲羽
- 「ぢぢぢぃ(え〜)」
- 一
- 「花澄さん、お帰りですか」
- 御影
- 「引き止めるわけにはいかんだろうが」
- 豊中
- 「……(黙ってテーブルに沈没)」
- 遊児
- 「……あの、すみませんが」
声をかけられて、一同は改めて遊児の存在を思い出す。
- 花澄
- (あら、そういえばゆず、見られたけれど……)
- 遊児
- 「そちらの方がお帰りになると、なにかお困りなのでしょ
うか?」
- 豊中
- 「困る(きっぱり)」
- 遊児
- 「なぜでしょう?」
- 豊中
- 「……口で言うより、やってみた方が早いでしょうね。花
澄さん、ちょっと店を出てみていただけますか?」
- 御影
- 「(小声で) おい豊中、ええんか」
- 豊中
- 「(遊児にも聞こえるように) なあに、彼も少々変わった
特技を持っているのは同じ事のようですからね。それが何かは俺には判りませんが」
- 一
- 「(ぼそっと) 地脈を吸っていたな」
花澄がベーカリーをいったん出る。とたんに、熱気が押し寄せた。
- 遊児
- 「……(^^;」
- 豊中
- 「ご理解いただけたようで」
花澄がベーカリーに戻ると、熱気も消えた。
- 花澄
- 「かえるわよ、ゆず」
- 譲羽
- 「ぢぃ……」
不承不承に花澄の肩の袋に潜り込む譲羽。
- 直紀
- 「じゃあまたね、ゆずちゃん」
- 譲羽
- 「(袋から頭だけだして) ぢいっ(またね)」
- 花澄
- 「それじゃ……すみません(ぺこ)」
袋のふたが中から閉められ、花澄が出ていった。熱気が戻る。
- 豊中
- 「……あぢい」
- 遊児
- 「もう一つお聞きしていいでしょうか?」
- 御影
- 「誰に聞いとる?」
暑さのせいか、不機嫌そうな声を出す御影。
- 遊児
- 「(一瞬、困ったような表情をして) どなたでもいいので
すが」
- 豊中
- 「それより先に、自分の名前くらい言ったらどうです?」
- 遊児
- 「そうでしたね。日下といいます。紅雀院大学の院生でし
て」
- 御影
- 「なんや、わしと同じ大学か」
- 一&豊中
- 「えっ!? 旦那、学生!?」
- 御影
- 「……(むっ) おまえら、きっちり忘れとったな」
- 一
- 「えー、それで質問というのは?」
- 御影
- 「(ことさら低い声で) 逃げよったな、十」
冷や汗をかく一。
- 遊児
- 「さっきの子、なんなんです?」
- 豊中
- 「日下さんが見た通りのものですよ」
- 遊児
- 「答えになっていないような気がしますが……」
- 豊中
- 「なに、日下さん、あなたが観測したもののみがあなたに
とって現実なのだから、気にする必要は無いということです。重要なのはあの子が現実に存在しているということだけだ」
煙に巻く豊中。
- 遊児
- 「しかし、人間では無かったような気が……(少しでいいか
ら「味見」してみたかったなあ)」
- 豊中
- 「気にするほどのことではないですよ。……しかし、暑い」
- 遊児
- 「えーと、つまり、この店では『少々変わった特技』を持っ
ていたり、『多少毛色の違った存在』でも容認される、と、こう解釈して構わないのでしょうか?」
- 豊中
- 「そういうことです」
- 遊児
- 「でしたら、この『熱気』を『食べて』も構わない訳です
ね」
その言葉が終らない内に、急激に店内の気温が低下する。ただし、先程の
『春』を思わせる『適温』ではなく、『やや肌寒い』ほどまでに。
- SE
- 「クシャン」
誰かのくしゃみが響く。
- (未定)
- 「下げ過ぎだ!」
- 遊児
- 「すいません。どうも加減が難しくて」
『店内の気温』はそれから何度か上下し、ようやく『適温』に落ち着いた。
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