エピソード610『過ぎ去りし時に』


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エピソード610『過ぎ去りし時に』

夏の日、照り付ける日差しの中一人歩く一。近くの吹利学院高校、野球部が活動している。練習試合をしているらしい。応援の歓声が聞こえて来る。

「野球か……」

思わず足を止め、フェンスごしに見入ってしまう一。そこへ……

本宮
「あれ、にのまえさん」
「お、もとみーか」

夏服に開襟シャツの本宮が歩いて来る。

本宮
「今日、お仕事じゃないんですか」
「休息は必要だからな……というより仕事が無い(笑)
お前こそ学校か? もう休みなんじゃないのか」
本宮
「ほんとはテスト休みなんですけど、俺、園芸係なんで花 壇の水遣りにきたんです」
「あいかわらず、生真面目な奴だな。お前は」

思わず吹き出しそうになってしまう一。
 そこへ

少年
「おーいっ!」

フェンスを越え、ファウルボールが飛んで来る。てんてんてん。野球の球が足元に転がる。

少年
「おーいもとみやぁ、取ってくれ」

ぶんぶんと手を振る、泥だらけのユニフォームの少年。

本宮
「おう」

ひょいと球を拾いあげ、軽く腕を振り、投げかえす本宮。ひゅっ……と空を切って白球が飛び、吸い込まれるように少年のグラブに収まる。

少年
「サンキュ」
本宮
「負けんなよ、北条」
少年
「まかしとけって。かっとばしてやるぜぇ」

軽く本宮に手を振り、きびすを返す少年。手を振りかえす本宮。白いシャツに夏の日差しが照り返す。
 そんな少年たちの姿をまぶしそうに見詰める一。
 もう、戻れない……自分は入っていけない世界。

本宮
「……どうしたんですか? にのまえさん」
「いや……なんとなくな。うらやましくなってな」
本宮
「何がですか」
「もう、俺は入っていけないんだよな」
本宮
「え?」
「ここは、お前らの世界なんだよな」
本宮
「にのまえさん?」
「俺は、もう通り過ぎてしまったから……」

遠くを見詰めるように……懐かしむように……続ける一。

「学校ってのは通り過ぎる場所なんだよな。帰る場所じゃ ないんだよな。通り過ぎてしまってから……初めてわかる」
本宮
「通り過ぎる場所か……。まだ、俺にはわからないですね。 でも、いつか俺もそんな風に思う日が来るかもしれない」
「手に入らなくなったものほどよく見えるって言うしな」

めずらしく物憂げになっている一、そんな一の様子を見ながら遠慮がちに本宮が口を開く。

本宮
「戻りたい……ですか。にのまえさん」
「……戻れたらいいな」

遠く……見透かすような目になる一。

「でも、戻れないからこそ……愛おしいのかもしれない」
本宮
「そうかも……しれませんね」
「……本宮」
本宮
「はい?」
「この後時間あるか?」
本宮
「はい、暇ですけど」

とたんにさっきまでの物憂げな顔から一変し、いつもの笑顔になる一。

「なんか飯でも食ってくか」
本宮
「そうですね」

つられて笑顔を浮かべる本宮。
 かきーん。その時、バットの澄んだ音と応援の歓声が響いた。



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