エピソード612『長沢凍雲の一日』


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エピソード612『長沢凍雲の一日』

松蔭堂、朝。
 鰻の寝床のいちばん奥、蔵の建つ裏庭に面した六畳間の丸窓に、影が映る。裏庭の勝手口が慌ただしく閉まる音で、長沢凍雲は布団から起き上がる。

「だあああおくれるぅぅぅ……(フェードアウト)」

苦笑しながら、押入れに布団を上げる。今日は腰の調子がいい。廊下に通じる障子に目を向けて、台所を見透かす。鍋がかかったままの台所には、誰もいない。
 壁に目を転じて、茶の間のほうを見る。白い漆喰の壁、浴室のタイル、そして障子。それらすべてが、いまの彼の目には半透明に映っている。
 ぼやけた視界に人の姿を認めて、独り呟く。

凍雲
「訪雪の奴め、律儀に起きるのを待ちよって……起きねば 先に食べろと、あんなに言うておいたに」

身支度を整えて茶の間の障子を開けると、訪雪は待っていたように、飯櫃の蓋に手をかけた。

訪雪
「おはようございます、先生」
凍雲
「お早う。一君はもう出たのかね」
訪雪
「ついさっき、朝食も摂らんと。学生稼業の方もなかなか 忙しそうですね」
凍雲
「儂もよく忘れるが、あれが本業じゃよ」

渡された飯碗から湯気が立ち昇る。
 午前11時。
 いつもいる客間を修復中の埴輪に占領されているので、茶の間の卓袱台にもたれ、開け放った襖の向こうのテレビをぼんやりと見る。
 時折、店の間で番をしている訪雪が、板敷の暖まっていない場所を求めて転がる音がする。
 声をかければ届くが、別に会話をするつもりはない。
 昼間はいつも、このようなものだった。

SE
「がらがら」
「こんにちはぁ」
訪雪
「ああ、いらっしゃい……よっこらせっと」
「ここで骨董品の鑑定をして頂けると聞いたのですが」
訪雪
「はいはい、確かに。で、品は何です」
「水墨の画巻、なのですが」

客のその声を聞いて、凍雲は立ち上がる。絵画は凍雲の担当だった。
 訪雪が会話を引っ張っているのを聞きながら、客間の埴輪をがさがさと片付けて、座卓を真ん中に置き直す。

シュイチ
《タ・オ・レ・ル・ゾー》

しかし凍雲にその声は聞こえない。
 新聞紙にくるんだ素焼き片ごと、横倒しのシュイチを隅に押しやり、茶の間との境の襖を立て切ったところで、訪雪に案内された客が客間に入ってきた。

訪雪
「私は絵は専門ではありませんので、先代が拝見します。 では、失礼して茶を淹れてきます」
凍雲
「私が隠居の長沢凍雲です。どうぞよしなに……茶が入る 前に、話だけでもお聞きしましょうか」
「こちらこそ宜しく。では……」

話がある程度進んだところで、訪雪が茶を持ってくる。邪魔をしないよう退散するその背を見送った客が聞く。

「……失礼ですが、息子さんですか」
凍雲
「元々は他人です。だがまあ、いまは息子みたいなもんで すかな」

茶を飲み終えた座卓を片付け、手を洗って、畳に長々と広げた毛氈の上で画巻を開く。訪雪のように『読む』ことが出来ない以上、頼りになるのは自分の鑑定眼と、長年培ってきた勘のみ。

凍雲
「ふうむ……」

一時間後。がっくりと肩を落とした客は、勧められた昼食も辞して帰っていく。

訪雪
「……駄目でしたか」
凍雲
「うむ。後付けの偽落款さえなければ、無名なりになかな かよい手だったんだがの」

夕方。店は早めに閉まっている。結局、今日の客は一人きりだった。
 訪雪はつい先刻、ベーカリーにパンを買いに行くといって出掛けていた。凝った肩をほぐしてテレビを消したとき、2階から聞き覚えのある足音が降りてきた。

SE
「かたかたかた」

廊下に出る障子を細く開けて、足音の主を待つ。軽い足音が近付いて、ほどなく障子の隙間から、おかっぱ頭と金色の丸い目が覗く。

凍雲
「今日は随分と遅いの。譲羽ちゃん」
譲羽
「ぢいぢい(花澄、お買い物。大家さんは?)」
凍雲
「ぢいぢい言われても、儂には何やらさっぱり判らんが、 訪雪ならベーカリーに行ったぞ」
譲羽
「ぢぃ(じゃあ、そっち行く)!」

木霊は部屋を横切って、あっと言う間に窓から出ていった。
 訪雪はそれからすぐに帰ってきた。

訪雪
「只今戻りました」
凍雲
「お帰り。譲羽ちゃんには会ったかの?」
訪雪
「いや。来てたんですか」
凍雲
「うむ。ベーカリーに行っておると教えたんだが、行き違 いになったかのう」
訪雪
「そりゃ残念だな。でもまあ、ベーカリーに花澄さんがい たから大丈夫でしょう」

ちょうどその頃、買い物客でごった返すベーカリーで起きていた大騒ぎを、彼らはまだ知らない。
 夜。訪雪は夕食の支度のため台所に立ち、凍雲は茶の間で一足先に晩酌をはじめている。店の横手の玄関の開く音が聞こえて、どたどたという足音が近付き、障子が勢いよく開けられる。

直紀
「こんばんわ、御隠居さんっ! 十さんいますかぁ? 
……あやや、晩ご飯だったんですかぁ」
凍雲
「いらっしゃい、直紀君。一君はまだ帰っとらんぞ。なん なら時間も良いことだし、もうちょいと待ってみんなで晩飯でも食うかの?」
訪雪
「(台所から) 今日は焼き肉だし、別に人数が増えたとこ ろでちっとも困りゃせん。
いくらも待たんと一君も帰ってくるだろう」
直紀
「焼き肉? じゃあお言葉に甘えてご馳走になりますっ!」
SE
「ばたんっ」
訪雪
「(台所で)……お、王子様が御帰宅のようだな。
(裏庭に向かって)おうい一君、さっきから柳さんがお待ちだぞぉ」
直紀
「え……えと、王子様って(真っ赤)」
タイチ
《(隣室で)スグ顔ニ出ルンダヨネ》
シュイチ
《(同じく)ソコガカワイインダヨネ》

二人分の足音が廊下を渡ってきて、最初に十が顔を出す。

「ただいま、御隠居……っと、直紀さん、ですか」
訪雪
「ちょうどいい折りに来たんでね、一緒に夕食でも、って ことで。
三世代家族に嫁さんまで揃って、舅としては嬉しい限りだよ(にやり)」
直紀
「嫁、さん……(ぼふっ)」
「そういうからかい方をせんで下さい。全く人の悪い」
訪雪
「おやおや二の舞君、その耳たぶの色は何なのかなぁ? 
肉の皿を掲げて) さあ、柳さんも、遠慮なく食うてくれよ」

少しだけ、人数の多い夕食。四膳の箸が、ホットプレートの上を行き交う。

「食欲がありませんねえ、若大家。こっちの肉貰いますよ
ひょいぱく)」
訪雪
「あ、それはもうちょっと焼いてから食おうと思っとった のに」
直紀
「野菜も食べなきゃ駄目だよ、十さん」
訪雪
「そうそう……(南瓜をとった直紀の手首をつかんで) は い、あ〜ん」
直紀
「ちょ……ちょっと、ほーせつさんてば」
「(むぐ……ごくん)……(げほげほっ) な……何すんです か若大家ぁ」
直紀
「あの……(箸を持つ手まで真っ赤)」
訪雪
「だから野菜を食えと。少しは感謝しなさい、二の舞君(に やりんぐ)」
凍雲
「やれやれ、みな若いの」
訪雪
「全くですね」
凍雲
「お前もじゃ」

春に下宿人を入れてから、この煤けた家にも随分と活気が満ちてきた。人が人を呼び、縁が縁を呼ぶ。呼ばれたのは人だけではないようだが……

「にゃう」
「何か言いましたか若大家ああ」
訪雪
「(逆エビ固めをかけられながら) い、いや、儂は何も。 ギブアップだ一君、放してくれい……いでででで」

障子は開け放たれているから、声の正体はすぐ判る。凍雲は箸を持ったまま廊下に出て、細く開けた網戸の向こうに、掌の上で冷ました肉をひときれ、突き出してやった。
 肉を食む微かな音がして、濡れ縁の上で金色の目が微かに光った。

直紀
「そろそろ放してあげなよ十さん、お年寄りはいたわらな きゃ(笑)
御隠居さん、何してるんですか」
凍雲
「ちょいとしたお客さん、じゃよ。焼き肉の相伴がしたい とな」
直紀
「あ、猫だぁ。可愛いっ」

がらりと開けた網戸の音に驚いたのか、猫は縁から飛び降りて、庭の闇に溶けるように消えた。

直紀
「……逃げちゃった」
凍雲
「ちょいとびっくりしたんじゃろ。縁があればそのうちま た来る」
直紀
「縁、かぁ……」
凍雲
「うむ……直紀君。儂と訪雪の名字が違うのは知っておっ たかの」
直紀
「そうなんですか? わたしはてっきり親子なんだと」
凍雲
「儂は長沢、あやつは小松。郷里に帰れば実の親が元気に しておる。
8年前までは、会ったこともない赤の他人じゃった」
直紀
「じゃあ、どうしていま、ほーせつさんここにいるんです か?」
凍雲
「それが、縁、じゃよ。
儂が訪雪を見いだしたのも、一君がここに下宿することになったのも、あんたが……直紀君が、一君を見つけたのも、最初は偶然じゃった。そうではないかの?」
直紀
「そういう……ものなのかなあ」
凍雲
「世の中大方、そういうもんじゃ。
さ、茶の間へ戻るとするかの。早くせんと肉がなくなってしまうで」
訪雪
「(茶の間で) 放してくれ一君、肉が焦げとる」
「ねばーぎぶあっぷですよ若大家。肉は御隠居たちが代わ りに食ってくれるそうですから、安心して往生してください」

立ち上がったところで、凍雲はもう一度、庭の闇を振り返った。さっきの猫がまだどこかに潜んで、こちらをじっと見ているような気がした。



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