松蔭堂、朝。
鰻の寝床のいちばん奥、蔵の建つ裏庭に面した六畳間の丸窓に、影が映る。裏庭の勝手口が慌ただしく閉まる音で、長沢凍雲は布団から起き上がる。
- 十
- 「だあああおくれるぅぅぅ……(フェードアウト)」
苦笑しながら、押入れに布団を上げる。今日は腰の調子がいい。廊下に通じる障子に目を向けて、台所を見透かす。鍋がかかったままの台所には、誰もいない。
壁に目を転じて、茶の間のほうを見る。白い漆喰の壁、浴室のタイル、そして障子。それらすべてが、いまの彼の目には半透明に映っている。
ぼやけた視界に人の姿を認めて、独り呟く。
- 凍雲
- 「訪雪の奴め、律儀に起きるのを待ちよって……起きねば
先に食べろと、あんなに言うておいたに」
身支度を整えて茶の間の障子を開けると、訪雪は待っていたように、飯櫃の蓋に手をかけた。
- 訪雪
- 「おはようございます、先生」
- 凍雲
- 「お早う。一君はもう出たのかね」
- 訪雪
- 「ついさっき、朝食も摂らんと。学生稼業の方もなかなか
忙しそうですね」
- 凍雲
- 「儂もよく忘れるが、あれが本業じゃよ」
渡された飯碗から湯気が立ち昇る。
午前11時。
いつもいる客間を修復中の埴輪に占領されているので、茶の間の卓袱台にもたれ、開け放った襖の向こうのテレビをぼんやりと見る。
時折、店の間で番をしている訪雪が、板敷の暖まっていない場所を求めて転がる音がする。
声をかければ届くが、別に会話をするつもりはない。
昼間はいつも、このようなものだった。
- SE
- 「がらがら」
- 客
- 「こんにちはぁ」
- 訪雪
- 「ああ、いらっしゃい……よっこらせっと」
- 客
- 「ここで骨董品の鑑定をして頂けると聞いたのですが」
- 訪雪
- 「はいはい、確かに。で、品は何です」
- 客
- 「水墨の画巻、なのですが」
客のその声を聞いて、凍雲は立ち上がる。絵画は凍雲の担当だった。
訪雪が会話を引っ張っているのを聞きながら、客間の埴輪をがさがさと片付けて、座卓を真ん中に置き直す。
- シュイチ
- 《タ・オ・レ・ル・ゾー》
しかし凍雲にその声は聞こえない。
新聞紙にくるんだ素焼き片ごと、横倒しのシュイチを隅に押しやり、茶の間との境の襖を立て切ったところで、訪雪に案内された客が客間に入ってきた。
- 訪雪
- 「私は絵は専門ではありませんので、先代が拝見します。
では、失礼して茶を淹れてきます」
- 凍雲
- 「私が隠居の長沢凍雲です。どうぞよしなに……茶が入る
前に、話だけでもお聞きしましょうか」
- 客
- 「こちらこそ宜しく。では……」
話がある程度進んだところで、訪雪が茶を持ってくる。邪魔をしないよう退散するその背を見送った客が聞く。
- 客
- 「……失礼ですが、息子さんですか」
- 凍雲
- 「元々は他人です。だがまあ、いまは息子みたいなもんで
すかな」
茶を飲み終えた座卓を片付け、手を洗って、畳に長々と広げた毛氈の上で画巻を開く。訪雪のように『読む』ことが出来ない以上、頼りになるのは自分の鑑定眼と、長年培ってきた勘のみ。
- 凍雲
- 「ふうむ……」
一時間後。がっくりと肩を落とした客は、勧められた昼食も辞して帰っていく。
- 訪雪
- 「……駄目でしたか」
- 凍雲
- 「うむ。後付けの偽落款さえなければ、無名なりになかな
かよい手だったんだがの」
夕方。店は早めに閉まっている。結局、今日の客は一人きりだった。
訪雪はつい先刻、ベーカリーにパンを買いに行くといって出掛けていた。凝った肩をほぐしてテレビを消したとき、2階から聞き覚えのある足音が降りてきた。
- SE
- 「かたかたかた」
廊下に出る障子を細く開けて、足音の主を待つ。軽い足音が近付いて、ほどなく障子の隙間から、おかっぱ頭と金色の丸い目が覗く。
- 凍雲
- 「今日は随分と遅いの。譲羽ちゃん」
- 譲羽
- 「ぢいぢい(花澄、お買い物。大家さんは?)」
- 凍雲
- 「ぢいぢい言われても、儂には何やらさっぱり判らんが、
訪雪ならベーカリーに行ったぞ」
- 譲羽
- 「ぢぃ(じゃあ、そっち行く)!」
木霊は部屋を横切って、あっと言う間に窓から出ていった。
訪雪はそれからすぐに帰ってきた。
- 訪雪
- 「只今戻りました」
- 凍雲
- 「お帰り。譲羽ちゃんには会ったかの?」
- 訪雪
- 「いや。来てたんですか」
- 凍雲
- 「うむ。ベーカリーに行っておると教えたんだが、行き違
いになったかのう」
- 訪雪
- 「そりゃ残念だな。でもまあ、ベーカリーに花澄さんがい
たから大丈夫でしょう」
ちょうどその頃、買い物客でごった返すベーカリーで起きていた大騒ぎを、彼らはまだ知らない。
夜。訪雪は夕食の支度のため台所に立ち、凍雲は茶の間で一足先に晩酌をはじめている。店の横手の玄関の開く音が聞こえて、どたどたという足音が近付き、障子が勢いよく開けられる。
- 直紀
- 「こんばんわ、御隠居さんっ! 十さんいますかぁ?
……あやや、晩ご飯だったんですかぁ」
- 凍雲
- 「いらっしゃい、直紀君。一君はまだ帰っとらんぞ。なん
なら時間も良いことだし、もうちょいと待ってみんなで晩飯でも食うかの?」
- 訪雪
- 「(台所から) 今日は焼き肉だし、別に人数が増えたとこ
ろでちっとも困りゃせん。
いくらも待たんと一君も帰ってくるだろう」
- 直紀
- 「焼き肉? じゃあお言葉に甘えてご馳走になりますっ!」
- SE
- 「ばたんっ」
- 訪雪
- 「(台所で)……お、王子様が御帰宅のようだな。
(裏庭に向かって)おうい一君、さっきから柳さんがお待ちだぞぉ」
- 直紀
- 「え……えと、王子様って(真っ赤)」
- タイチ
- 《(隣室で)スグ顔ニ出ルンダヨネ》
- シュイチ
- 《(同じく)ソコガカワイインダヨネ》
二人分の足音が廊下を渡ってきて、最初に十が顔を出す。
- 十
- 「ただいま、御隠居……っと、直紀さん、ですか」
- 訪雪
- 「ちょうどいい折りに来たんでね、一緒に夕食でも、って
ことで。
三世代家族に嫁さんまで揃って、舅としては嬉しい限りだよ(にやり)」
- 直紀
- 「嫁、さん……(ぼふっ)」
- 十
- 「そういうからかい方をせんで下さい。全く人の悪い」
- 訪雪
- 「おやおや二の舞君、その耳たぶの色は何なのかなぁ?
肉の皿を掲げて) さあ、柳さんも、遠慮なく食うてくれよ」
少しだけ、人数の多い夕食。四膳の箸が、ホットプレートの上を行き交う。
- 十
- 「食欲がありませんねえ、若大家。こっちの肉貰いますよ
ひょいぱく)」
- 訪雪
- 「あ、それはもうちょっと焼いてから食おうと思っとった
のに」
- 直紀
- 「野菜も食べなきゃ駄目だよ、十さん」
- 訪雪
- 「そうそう……(南瓜をとった直紀の手首をつかんで) は
い、あ〜ん」
- 直紀
- 「ちょ……ちょっと、ほーせつさんてば」
- 十
- 「(むぐ……ごくん)……(げほげほっ) な……何すんです
か若大家ぁ」
- 直紀
- 「あの……(箸を持つ手まで真っ赤)」
- 訪雪
- 「だから野菜を食えと。少しは感謝しなさい、二の舞君(に
やりんぐ)」
- 凍雲
- 「やれやれ、みな若いの」
- 訪雪
- 「全くですね」
- 凍雲
- 「お前もじゃ」
春に下宿人を入れてから、この煤けた家にも随分と活気が満ちてきた。人が人を呼び、縁が縁を呼ぶ。呼ばれたのは人だけではないようだが……
- 声
- 「にゃう」
- 十
- 「何か言いましたか若大家ああ」
- 訪雪
- 「(逆エビ固めをかけられながら) い、いや、儂は何も。
ギブアップだ一君、放してくれい……いでででで」
障子は開け放たれているから、声の正体はすぐ判る。凍雲は箸を持ったまま廊下に出て、細く開けた網戸の向こうに、掌の上で冷ました肉をひときれ、突き出してやった。
肉を食む微かな音がして、濡れ縁の上で金色の目が微かに光った。
- 直紀
- 「そろそろ放してあげなよ十さん、お年寄りはいたわらな
きゃ(笑)
御隠居さん、何してるんですか」
- 凍雲
- 「ちょいとしたお客さん、じゃよ。焼き肉の相伴がしたい
とな」
- 直紀
- 「あ、猫だぁ。可愛いっ」
がらりと開けた網戸の音に驚いたのか、猫は縁から飛び降りて、庭の闇に溶けるように消えた。
- 直紀
- 「……逃げちゃった」
- 凍雲
- 「ちょいとびっくりしたんじゃろ。縁があればそのうちま
た来る」
- 直紀
- 「縁、かぁ……」
- 凍雲
- 「うむ……直紀君。儂と訪雪の名字が違うのは知っておっ
たかの」
- 直紀
- 「そうなんですか? わたしはてっきり親子なんだと」
- 凍雲
- 「儂は長沢、あやつは小松。郷里に帰れば実の親が元気に
しておる。
8年前までは、会ったこともない赤の他人じゃった」
- 直紀
- 「じゃあ、どうしていま、ほーせつさんここにいるんです
か?」
- 凍雲
- 「それが、縁、じゃよ。
儂が訪雪を見いだしたのも、一君がここに下宿することになったのも、あんたが……直紀君が、一君を見つけたのも、最初は偶然じゃった。そうではないかの?」
- 直紀
- 「そういう……ものなのかなあ」
- 凍雲
- 「世の中大方、そういうもんじゃ。
さ、茶の間へ戻るとするかの。早くせんと肉がなくなってしまうで」
- 訪雪
- 「(茶の間で) 放してくれ一君、肉が焦げとる」
- 十
- 「ねばーぎぶあっぷですよ若大家。肉は御隠居たちが代わ
りに食ってくれるそうですから、安心して往生してください」
立ち上がったところで、凍雲はもう一度、庭の闇を振り返った。さっきの猫がまだどこかに潜んで、こちらをじっと見ているような気がした。
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