エピソード619『嘘』


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エピソード619『嘘』

松蔭堂、夏の平日の午前中。閉め切った四畳半には、蒸れた空気が澱んでいる。うだるような暑さの部屋の中に、人間が二人。
 訪雪は畳に敷いた茣蓙に仰向けに寝転がって、天井を見上げている。
 ユラは文机に肘をついて、ぬるくなった麦茶のグラスを弄んでいる。

ユラ
「……暑いわね」
訪雪
「確かに。窓を開けて風を入れるかね? それとも、ここ を撤収して客間へ移るか」
ユラ
「窓を……いいわ。私が開ける」

からり、と開けた窓から、街の音を乗せた風が吹き込む。首筋から胸元に流れる汗が、風を浴びて冷えてゆく。

訪雪
「いい風だ……こんな部屋に篭っとったのが馬鹿みたいだ」
ユラ
「好きで篭っていたくせに(苦笑) ……本当に、物好きね。 『松蔭堂さん』……訪雪」
訪雪
「君だって、ひとのことが言えた義理じゃなかろうが。一 体何だって、こんな時間にのこのこ現れたのかね?」
ユラ
「別に。今日はただ、実験から逃げたかっただけ」

会話の間、視線を交わすことは決してない。いつもの通りに。

訪雪
「君はいつもそんなだなぁ、ユラ……リスキーなことを平 気な顔でやってのける」
ユラ
「これの何処が、リスキーなの? 誰にも迷惑はかけてい ない。隠すべき相手もいない……お互いに」
訪雪
「今まで隠し通してきとることは事実だろう。
隠しとるのは、自分の外面、周りに要求された役割を守りたいからだろうがね」
ユラ
「ふうん……(複雑な笑い)
いつも見せてる『少し変わってるけど人はいい親父』の顔、あれは嘘なの?」
訪雪
「嘘……じゃ、ないな。むしろあっちのほうが地に近い。 だがあれがすべてじゃない」
ユラ
「いまここにいるあなたも、すべてじゃないわけね」
訪雪
「いまここにいる君と同じにね。
こんなことくらいですべてを解りあえるなんぞと、真顔で口にできるのは、よっぽどの馬鹿か、でなきゃ」

汗をぬぐった指の間から、ユラの横顔を見上げて。

訪雪
「嘘つき、だよ」

茶の間の方で、建具ががたりと鳴る音がした。

ユラ
「誰か来たわね」
訪雪
「うむ。窓からってことは、ゆずちゃんでなきゃ泥棒さん だな。どっちにせよ迎えに出にゃ……これ、忘れるよ」

体を起こし、畳の隅に丸まった白衣を、ユラの方にぽん、と放ってよこす。

ユラ
「(立ち上がりながら白衣をキャッチして) ありがとう。 もっとも、言われなくても忘れやしませんけどね……『松蔭堂さん』」
訪雪
「こりゃ失礼……全く、十分なおもてなしも出来ませんで。 よかったら、もう少し茶でも飲んでって下さい。『小滝さん』」

障子を開けながら、顔を見合わせて笑ったときには、既に二人とも、店主と馴染み客に戻っている。

ユラ
「いえ、これからまた、実験がありますので。麦茶とお菓 子、ご馳走様でした……今度クッキーでも焼いて持ってきますね」
訪雪
「そりゃあ有り難い。是非一度、ご馳走になりたいもんで すな。うまい茶を用意してお待ちしてますよ。
(茶の間に入りながら) ああ、いらっしゃいゆずさん。小滝さんが茶飲みに来てたんだが、ちょうど入れ替わりに帰っちまうんだそうだ。残念だねぇ……」
ユラ
「……(小声で) 大嘘つき(苦笑)」



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