ベーカリー楠にて。
夕方、少し込みかかった店内に、美樹がやってくる。珍しいことにきっちりとしたスーツ姿である。
- 観楠
- 「あ、いらっしゃい」
- 美樹?
- 「そのサンドイッチ二つと、あとそこの牛乳一本」
- 観楠
- 「(なんか、様子が変だな) あれ? コーヒーは」
- 美樹?
- 「俺はコーヒーは飲まないが」
- 観楠
- 「(絶対おかしいぞ) 何かあったんですか?」
- 美樹?
- 「別に」
- 観楠
- 「(な、なんだ?)」
- 美樹?
- 「それよか、レジは?」
- 観楠
- 「(おかしいぞ、美樹さんの話し方じゃない)あ、はい、450
円に」
- 美樹?
- 「おぅ(小銭受けに500円玉を置く)」
- 観楠
- 「あの……美樹さん?」
- 美樹?
- 「……なんだ、もしかして兄貴の知り合いか?」
- 観楠
- 「へ、あの、美樹さんじゃ……」
- 美樹?
- 「あんなのと一緒にしないでほしいな。俺は狭淵麻樹。美
樹は双子の兄貴だ」
- 観楠
- 「(弟さんか……ずいぶん美樹さんとは性格がちがうな)
はぁ、はじめまして、わたしはここの店長の湊川観楠です。美樹さんはよくその奥でコーヒー飲んでおられますけど」
- 麻樹
- 「あ、そうなのか。兄貴がいつも世話になってます」
- 観楠
- 「いえいえ、こちらこそ」
ちょうど、もさったジーンズの上に白衣を引っかけたいつもの美樹が、ベーカリーの入口から入ってくる。
- 美樹
- 「あ、店長、いつものコーヒーお願いします」
そう言いながら、麻樹の脇を抜けていつもの奥座席へ向かう。
- 麻樹
- 「おぃ、美樹!」
- 美樹
- 「……おや。麻樹ではないか。どうしました、こんなとこ
ろで」
- 麻樹
- 「あのな、留守電聞いてねぇのか?」
- 美樹
- 「そういえば、最近留守電を聞くのを忘れてますね」
- 麻樹
- 「何回電話かけてもいねぇし」
- 美樹
- 「そういえば、ここ三日ほど下宿に帰ってませんね」
- 麻樹
- 「……何してんだ?」
- 美樹
- 「研究ですが。一応」
- 麻樹
- 「……ま、いい。しかし、つかまって良かったぜ」
- 美樹
- 「なんかあったんですか?」
- 麻樹
- 「面接だよ、面接」
- 美樹
- 「面接というと」
- 麻樹
- 「くだらんボケはかますなよ」
- 美樹
- 「……とにかく、座って話しませんか? 他のお客さんの
邪魔ですし」
- 麻樹
- 「そだな」
「いつもの席」に座る美樹と、その向かいに座る麻樹。観楠が美樹のコーヒーを持ってくる。
- 観楠
- 「弟さんとずいぶん性格が違うんですね」
- 美樹
- 「あ……」
- 麻樹
- 「てんちょーさん、おとーとに見えますか(にっこり)」
- 美樹
- 「……(汗) これ、妹なんですけど」
申し訳なさそうなそぶりで、観楠がレジの方に去っていく。
- 美樹
- 「で、なにかあったんですか?」
- 麻樹
- 「……人の話、聞いてるか?」
- 美樹
- 「わたしは聞くより読む方が好きなんですけどね。で、な
んの面接だったんです?」
- 麻樹
- 「……就職(ぼそっ)」
- 美樹
- 「……へ?」
- 麻樹
- 「就職だよ。来年卒業なんだから。お・れ・は」
- 美樹
- 「(ぽん) そういえば、そうでしたね」
- 麻樹
- 「……兄貴はあと何年かかるつもりなんだ?」
- 美樹
- 「今の所最低2年ですね。これ以上落とさなければですけ
ど」
- 麻樹
- 「落とすなっ!」
- 美樹
- 「いや、落とすつもりで受ける試験はありませんが……な
んか話ずれてません?」
- 麻樹
- 「おめーがずらしたんだろうが。で、なんの話だったっけ?」
- 美樹
- 「麻樹の卒業の話」
- 麻樹
- 「そうそう、さっき面接受けてきたんだ……」
- 美樹
- 「なるほど。それでその格好ですか……って、それって男
物のスーツじゃないか?」
- 麻樹
- 「ま、いいじゃないか。スカートなんてあんなすかすかし
たもん履けるか」
- 美樹
- 「(……絶対、男だと思われたでしょうね) で、どこの面
接受けてきたんですか?」
- 麻樹
- 「吹利中央病院の和漢薬診療科。あそこなら修行にもちょ
うどいいしな」
- 美樹
- 「修行って……なんの?」
- 麻樹
- 「……兄貴、自分ちの商売忘れてねぇか?」
- 美樹
- 「あ、そういえばそうでしたね」
解説しよう。狭淵家は戦国より伝わる鍼灸術の家系(の分家の分家)である。狭淵麻樹は父親より狭淵流鍼灸術の継承者とされているのだっ!
……美樹は、逃げ出したのだが。
- 麻樹
- 「ま、教授の推薦状もあったから、まず通ってるからな」
- 美樹
- 「ふーん。そうですか、それはそれは……」
- 麻樹
- 「そういうわけで、来年の春からは吹利に住むことになる
んだが、判ってるか?」
- 美樹
- 「へ、なるほど。それは、そうですな」
- 麻樹
- 「はぁ……(この、ボケ兄貴がぁ) ホントはな、兄貴の下
宿に泊まっていく予定だったんだが……」
- 美樹
- 「ん? なんか不都合でもあるんですか? わたしは別
に……」
- 麻樹
- 「泊まる予定だったのは昨日の夜だ。明日は朝から向こう
で仕事が入ってるんでな」
- 美樹
- 「そか。それは残念」
- 麻樹
- 「ま、そういうわけだから、来年の春からの俺の下宿、探
しといてくれ。頼んだからな」
- 美樹
- 「……判りましたよ。探しておきましょう。で、条件は?」
- 麻樹
- 「吹利市内。屋根と床があること。安けりゃ安いほどいい。
出来れば1万5千円以下。2万までは許可」
- 美樹
- 「そんな条件でいいんですか?」
- 麻樹
- 「他に必要な条件なんかあるか?」
- 美樹
- 「はぁ……(これだから、女性として見られないんですよ
ね……)」
- 麻樹
- 「ないだろ」
- 美樹
- 「判りました。適当に見繕っておきましょう。で、もう帰
るんですか?」
- 麻樹
- 「ん、まぁな。とりあえず6時の新幹線に乗るつもりだが」
- 美樹
- 「そうですか。それならもういい時間ですね、吹利駅まで
送りますよ」
- 麻樹
- 「お、悪り」
二人は立ち上がる。
- 美樹
- 「店長さん、ちょっと駅まで妹を送りに行って来ますんで、
荷物とコーヒーカップはそのままにしておいて下さい」
- 観楠
- 「はいはい」
美樹と麻樹が出ていったあと……麻樹の座っていた座席に6時発の新幹線の切符を観楠が見つけたのは……それから15分後のことであった。
狭淵麻樹の紹介エピソードですね。実際に赴任してくる1998年4月からは、活躍してくれることでしょう。
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