夏の早朝、吹利本町の裏通りにある、古い商家。見事な白髪を角刈りにした、痩せぎすの老人が、玄関の引き戸を開け放つ。植え込みの奥に隠し置いた箒を手にとり、玄関から路地までの、畳石を敷いたささやかなアプローチを掃き清め、水を打つ。
箒を手にしたまま路地へ出て、店の格子戸のおもてに立てた重い杉板の雨戸を外そうとしたところで、老人……長沢凍雲は、雨戸に凭れるようにうずくまる、ひとりの若い男に気付いた。
屈み込んで肩を揺さぶると、男は俯いていた顔を上げて、焦点の定まらない眼で凍雲を見た。
行き倒れではなく、ただ眠っていただけらしい。見たところは、二十歳をすこし過ぎたほどだろうか。深く被ったキャップの縁から、茶色く染めた長髪を垂らして、耳にはそれぞれ二つずつ、銀のピアスをつけている。
貧乏旅行の途中なのだろう、薄汚れた巨大なリュックサックが、傍らに投げ出されている。
低い声でぼそぼそと言って、男は凍雲に向かってかるく頭を下げる。
予想していた反応とのギャップに、凍雲は自分の偏見を悔いた。キャップを後ろ向きに被り直した男は、アスファルトの上に立ち上がり、肩にリュックを背負い直そうとしたところで、大きくよろけた。
しばし後。商家の茶の間に上がり込んだ男は、猛然たる勢いで飯をかき込んでいる。飯櫃の蓋に手をかけ、いつでも次をつげるようにして、凍雲は男の食べっぷりを眺めている。
朝食後、店の裏手の土蔵で。重たい扉を引き開けた男が、中の光景に息を呑む。
凍雲が頷くや否や、男は弾かれたように蔵の中に飛び込んで、所狭しと積まれた箱の中から、一つを指して振り返る。
弾んだ口調とは裏腹な、ごく慎重な専門家の手つきで、男は箱を開ける。幾重もの箱と布に包まれたその中身が、凍雲の目には開けずとも映っていた。
僅かに黄みを帯びた乳白色の、小振りの抹茶碗。甞てふとしたことで手に入れて、いままで一人として、相応しい買い手を見いだせなかった品だった。
その言葉を待ちかまえていたように、男は袋から茶碗を取り出して、骨っぽい掌で慈しむように包み込む。茶を喫するときのように、正座した膝の上に抱え、瞼を軽く閉じて……その動作の意味を知って、凍雲は男に声をかけた。
男の手の中の茶碗に目をやって、凍雲はふかく頷いた。
昼近く。
出発の支度を整えた男は、店の土間に立って、板敷に座した凍雲と向かい合っている。男の手の中には、元通りに箱に納めた、例の茶碗がある。
箱を返そうとする手を、強い力で押し戻して、凍雲は男に向かって、人懐こく笑ってみせた。
リュックの底深くに茶碗をしまい込み、幾度も頭を下げて店を出ようとする男を、ふと呼び止める。
骨董屋松陰堂の主人(当時)の長沢凍雲と、美術史学科の学生時代の小松訪雪との、初めての出会いの話です。
基本的には現在時と同期して進行されているエピソード作成ですが、このように過去にさかのぼって、それこそ「エピソード」を組み上げていくことによって、人の歴史というか人格を積み上げていくということも推奨されています。