エピソード641『茶碗』


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エピソード641『茶碗』

夏の早朝、吹利本町の裏通りにある、古い商家。見事な白髪を角刈りにした、痩せぎすの老人が、玄関の引き戸を開け放つ。植え込みの奥に隠し置いた箒を手にとり、玄関から路地までの、畳石を敷いたささやかなアプローチを掃き清め、水を打つ。
 箒を手にしたまま路地へ出て、店の格子戸のおもてに立てた重い杉板の雨戸を外そうとしたところで、老人……長沢凍雲は、雨戸に凭れるようにうずくまる、ひとりの若い男に気付いた。

凍雲
「もし……大丈夫かの」

屈み込んで肩を揺さぶると、男は俯いていた顔を上げて、焦点の定まらない眼で凍雲を見た。
 行き倒れではなく、ただ眠っていただけらしい。見たところは、二十歳をすこし過ぎたほどだろうか。深く被ったキャップの縁から、茶色く染めた長髪を垂らして、耳にはそれぞれ二つずつ、銀のピアスをつけている。
 貧乏旅行の途中なのだろう、薄汚れた巨大なリュックサックが、傍らに投げ出されている。

凍雲
「どうなさった。具合でも、悪いのかの?」
「いえ……昨日、泊まるところがなかったもので。 軒下を、お借りしました。お邪魔しました」

低い声でぼそぼそと言って、男は凍雲に向かってかるく頭を下げる。
 予想していた反応とのギャップに、凍雲は自分の偏見を悔いた。キャップを後ろ向きに被り直した男は、アスファルトの上に立ち上がり、肩にリュックを背負い直そうとしたところで、大きくよろけた。

凍雲
「(咄嗟に腕を支えて) おうおう、大丈夫かね。その様子 じゃ、昨夜からロクなものを食っておらんのじゃろう」
「(平衡を取り戻しながら) すみません。大丈夫です」
凍雲
「大丈夫なもんかね、顔が真っ青だぞ。ふむ……あんたが この軒を借りたのも、ひとつの縁じゃ。うちへ上がって、朝飯を食うていってはどうだの?」
「(少し考えて) じゃ、お言葉に甘えさせて頂きます」

しばし後。商家の茶の間に上がり込んだ男は、猛然たる勢いで飯をかき込んでいる。飯櫃の蓋に手をかけ、いつでも次をつげるようにして、凍雲は男の食べっぷりを眺めている。

凍雲
「ふうむ……よっぽど、腹が減っておったと見えるの」
「(口の中のものを飲み込んで) 昨日の朝、コンビニで買っ たパンが、最後の食事でしたから」
凍雲
「なるほど、腹も減るわけじゃ……あんた、関東の人だね?  おおかた学生の貧乏旅行だろうが」
「東京から、です。(ポケットからもみくちゃの周遊券を 出して)こいつで回ってたんです」
凍雲
「『吹利・史跡の旅周遊券』……歴史が、お好きかの?」
「歴史っていうか……美術史、ですが(頭をかく)」
凍雲
「美術史、のう……そうじゃ。よかったら、儂の蔵を見て いかんか」
「……?」
凍雲
「こんな田舎町にも、骨董屋のひとつはあるもんでの。あ んたの好きそうな品物も、少しはあるだろうて」

朝食後、店の裏手の土蔵で。重たい扉を引き開けた男が、中の光景に息を呑む。

「凄いな。これみんな、骨董品ですか」
凍雲
「うむ。少し、出してみるかの」
「いいんですか?」

凍雲が頷くや否や、男は弾かれたように蔵の中に飛び込んで、所狭しと積まれた箱の中から、一つを指して振り返る。

「これ……開けても、いいでしょうか」
凍雲
「扱いが判っておるならの。
しかし……お前さん、勘がいいの。一番高い品を一発で選び出しおった」

弾んだ口調とは裏腹な、ごく慎重な専門家の手つきで、男は箱を開ける。幾重もの箱と布に包まれたその中身が、凍雲の目には開けずとも映っていた。
 僅かに黄みを帯びた乳白色の、小振りの抹茶碗。甞てふとしたことで手に入れて、いままで一人として、相応しい買い手を見いだせなかった品だった。

「凄い……こんなところに、この碗があったなんて」
凍雲
「ほう、いい目をしとるの。それは多分、お前さんの思う ておる通りの逸品じゃ。いままで買い手がおらなんだ。手にとって、確かめてみるとよかろう」

その言葉を待ちかまえていたように、男は袋から茶碗を取り出して、骨っぽい掌で慈しむように包み込む。茶を喫するときのように、正座した膝の上に抱え、瞼を軽く閉じて……その動作の意味を知って、凍雲は男に声をかけた。

凍雲
「碗の……記憶が、見えるかの」
「!(驚いたように顔を上げて) 何故、それを」
凍雲
「目利きと呼ばれる者の中には……たまに、ものに刻まれ た記憶を読める者がおると聞いた。
それを実際に見たのは、儂もこれが初めてだがの」
「そうか……ヲレ……だけじゃ、なかったのか」
凍雲
「多分、の。滅多に得られん、稀有な才能じゃが」

男の手の中の茶碗に目をやって、凍雲はふかく頷いた。
 昼近く。
 出発の支度を整えた男は、店の土間に立って、板敷に座した凍雲と向かい合っている。男の手の中には、元通りに箱に納めた、例の茶碗がある。

凍雲
「その碗は君に進呈しよう。大事にしておくれ」
「しかし……いまのヲレには、こんなものを買えるだけの 持ち合わせも、持てる資格もありません」
凍雲
「いいや。君には十分、それを手にする資格がある。よい 才能を見せて貰っただけで、代金は十分じゃよ」

箱を返そうとする手を、強い力で押し戻して、凍雲は男に向かって、人懐こく笑ってみせた。

凍雲
「(男のポケットに名刺を突っ込んで) 話したいことがあっ たら、またここへ来るか、でなきゃこの番号に電話をくれるといい。いつでも、待っておるよ」
「はい……すみません」
凍雲
「いいんじゃよ。それじゃあ、気をつけて」

リュックの底深くに茶碗をしまい込み、幾度も頭を下げて店を出ようとする男を、ふと呼び止める。

凍雲
「そうそう……忘れとった。君の名前を、まだ聞いておら なんだね」
「小松……小松ホウセツ。訪ねるに、空から降る雪です」

解説

骨董屋松陰堂の主人(当時)の長沢凍雲と、美術史学科の学生時代の小松訪雪との、初めての出会いの話です。
 基本的には現在時と同期して進行されているエピソード作成ですが、このように過去にさかのぼって、それこそ「エピソード」を組み上げていくことによって、人の歴史というか人格を積み上げていくということも推奨されています。



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