エピソード642『吹利下宿探し』


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エピソード642『吹利下宿探し』

『松蔭堂』……ここですか。なかなか古ぼけているが……家賃は安い、という話ですし。まぁ、今日はとりあえず下見という事ですし……。声でもかけてみますか。

美樹
「すいませーん、どなたかいらっしゃいませんか〜〜?」
返事はない。ただ蝉の声だけが青空へと抜けていく。

美樹
「すいませーん、誰もいらっしゃらないんですか〜〜?」
やはり返事がない。蝉が鳴き止む。埃っぽい静寂。

美樹
「誰もいらっしゃらないようですねぇ」
一応、古道具屋なんですよね、ここは……。実験の方は一晩インキュベートですから充分時間はありますし……ま、店主が帰ってくるまでの間、品物でも眺めていますか。古い大八車の車軸の落書きを眺めている美樹の後ろから声がかかる。

訪雪
「や、こんにちは。何か御用ですか?」
美樹
「あぁ、『松蔭堂』の方ですか? 少々……眺めさせていただい てました」
訪雪
「何か、気に入った品でもありましたかな」
美樹
「いえ……あぁ、申し訳ない。説明が遅れましたが、今日はこち らで下宿屋を営んでおられるとうかがったもので」
訪雪
「あ、そうですか」
美樹
「しかし、なかなか面白い店ですねぇ」
訪雪
「そうですか? 骨董屋っちゃ、大抵こんなもんだと思いますが…… まぁ、ここで立ち話もナンですし、上がって茶でも飲みませんか。下見も兼ねて」
美樹
「あ、そうですね。なら、お邪魔させていただきます」
開け放したガラス格子の入り口から土間に入り、天井まで積み上がった品物の間を潜って、奥の板敷に上がる。踏むとかすかに軋む板敷は、飴色に煤けてはいるが、よく磨かれている。

美樹
「(古い家だが、手入れは行き届いているようですね)」
薄暗い廊下を抜けて、八畳敷の客間に通される。欅の巨木を輪切りにしたテーブルの上に、メモが一枚、置かれている。

訪雪
「(口の中で)そういや先生、今日は寄り合いだったか……
美樹に座布団を勧めながら)いま、茶の支度をしてきます。ちょいと待っていてください」
障子が閉まって、美樹は独り客間に取り残される。客の来ないときは、誰かの居室に使われているのだろう。窓の下のスチール製のブックエンドに、本が数冊、立ててある。

美樹
「(トゥキュディデスにマイクル・クライトンに池波正太郎ですか。 なかなか面白いところを突いた取り合わせですね……あのご主人のご趣味ですかね……)
背後からの視線を感じて振り返る。床の間の書の軸の下に、つぎはぎだらけの埴輪のレプリカが二体。丸い眼がよっつ、美樹を凝視している。

タイチ
《オ客サンダネ》
シュイチ
《オドッチャダメカナ? 》
タイチ
《駄目駄目》
美樹にその声は聞こえない。やがて、盆を手にした訪雪が戻ってくる。

訪雪
「どうも、お待たせしました。
美樹の前に湯呑を置いて)まあ、楽になさってください。ああそう、申し後れましたが、私は小松訪雪、ここの店主です。どうぞよしなに」
美樹
「あ、こちらこそ申し遅れました。わたしは狭淵美樹といいます。 よろしくお願いします」
訪雪
「……で、確か下宿をお捜しとのことでしたね」
美樹
「と、いうか……捜しているのは、正確には私の妹なのですが」
訪雪
「妹さん、ですか……ふむ」
腕を組んで、考え込む訪雪。

美樹
「何か、問題でも?」
訪雪
「いまのところここは、私と師匠、それに男の学生さんひとりの、 全くの男所帯でしてねえ。まぁ不届きな輩の出ないよう、こちらでも安全には気をつけますが……やっぱりお気になさるでしょ、妹さん」
美樹
「兄としては、もう少しその辺に気を使ってほしいんですけどね。ま、 あれの安全はあれ自身が決めることですし」
訪雪
「ともあれ、御本人に一度見に来て頂いたほうがよさそうですね。 折角訪ねていらしたんですから、部屋のほうを御覧になりますか」
美樹
「よろしいのでしょうか」
訪雪
「内装と鍵の取りつけは、去年のうちに済ませてあります。 入居者がなかったんで、今ちょっとした荷物を置いてありますが、部屋の状態を見るぶんには問題……」
こつこつ。客間の窓硝子を叩く音で、訪雪は口を噤む。こんなことをするのは、ひとりしかいない。

譲羽
「ぢいぢいっ(大家さん、ここ開けて)」
窓の敷居の上に、小さな手だけが覗いている。中にもうひとりいることまでは、見えていないらしい。

美樹
「どうか、しましたか?」
訪雪
「いえ……たいしたことでは(汗)」
訪雪の視線を追って、美樹が振り返る。

美樹
「……手、ですね……中に入りたがっているのでは?」
譲羽
「ぢいぢいっ(開けてってば)」
訪雪
「(驚かないのかな?)ちょっと失礼します」
窓を開けてやると、譲羽がぴょんと入ってくる。

美樹
「……確か……書店の店員さんと一緒にいた……」
訪雪
「あれ? 御存知でしたか? なら迷うこともありませんでしたね。 とにかく、上へご案内しましょう……ゆずさん、こっちへおいで」
訪雪の差し伸べた左腕をととと、と駆け登って、譲羽はその腕の中に収まる。

美樹
「懐かれてますね」
訪雪
「ええ、何故か(笑)……そうそう、洗面所と浴室は此処だけです。 気になるようなら、あとで最寄りの銭湯をお教えしますよ」
薄暗い廊下を鍵の手に曲がって、急な階段を登る。階下よりも幾分光沢の鈍い廊下には、微かに黴臭い空気が澱んでいる。

美樹
「ここだけ、障子になっているようですが」
訪雪
「こは茶室です。時間があれば、一服していって頂けるんですが…… で、ここが納戸で、その隣……ここを、お貸しすることになります」
いくつか並んだ納戸の、一番奥の戸が、新しい鍵つきの開き戸に付けかえられている。

訪雪
「いまは大したものは置いていないので、鍵はかかっていません。
がちゃ)さ、御覧下さい」
美樹は訪雪のあとに続いて部屋に入る。広さは、四畳半くらいだろうか。部屋の隅のほうに茣蓙を敷き延べて、上にいくつかのボール箱を積んである。

訪雪
「入居が決まり次第、荷物をどけて大掃除します。 まぁ現状はこんな感じで」
カーテンと窓を開けたおかげで、部屋の様子がよく見えるようになる。畳の青さは既に薄れているが、使っていない所為だろう、擦り切れたところは見当たらない。荒い土壁も、押入れの襖紙も、まだ新しそうだった。

美樹
「建物の割に新しい部屋ですね」
訪雪
「内側は去年手を入れて、それから誰も住んでいませんからね。 畳もご希望なら替えますが」
美樹
「まだ契約が決まったわけではありませんよ(苦笑)」
訪雪
「確かに(笑)……この部屋は本当に「居る」だけで、他の生活機能 は下で私どものほうと一緒に、ということになりますが、その辺は妹さんにお話を伺うことになりますね。お気に召しましたら、今度は御本人といらしてください」
連れだって階段を降り、下の客間に戻ると、白髪を角刈りにした老人が待っていた。

訪雪
「先生。お帰りなさい」
美樹
「(先生? ……実の父子ではなかったのでしょうか?)」
凍雲
「ただいま、訪雪。こちらは、鑑定のお客様かの?」
訪雪
「いえ、下宿の下見にいらした方です。
美樹に向かって)こちらは長沢凍雲、ここの先代の主人です」
美樹
「狭淵美樹と申します。ご不在中にお邪魔してしまいまして、失礼 しました」
凍雲
「いえいえ、こちらこそ、折角のお運びに出迎えも出来ませんで。 それで、上の部屋はお気に召しましたかな」
美樹
「下宿を捜しているのは、実は私ではなく妹でして。 話してみて気に入ったようでしたら、本人を連れてまた来ます」
訪雪
「それでは、お待ちしています……
名刺を出して)何かありましたら、ここに連絡してください」
その夜の電話、その1。

美樹
「や、」
麻樹
「ゆ」
美樹
「……。よ」
麻樹
「らっ!」
美樹
「り」
麻樹
「る」
美樹
「れ」
麻樹
「ろ。なぁ、いい加減にやめないか?」
美樹
「わ。そうですね。時間の無駄ですし」
麻樹
「を。とか言いながら続けてるじゃねぇか」
美樹
「ん。しまった。わたしの負けですね」
麻樹
「で、なんだ?」
美樹
「麻樹の下宿ですけどね。良さそうな感じの所がありましたが」
麻樹
「どんなところだ?」
美樹
「(説明中……説明中……説明終わり)と言う感じです」
麻樹
「ま、文句はない」
美樹
「で、どうします? 一回見に来ますか?」
麻樹
「それなんだが。次の日曜、面接の結果を聞きにそっちに行くこ とになっている」
美樹
「要するに、その時に決めるという事でいいんですね」
麻樹
「そういう事だ。あ、そうそう、おめぇの研究室の電話番号教え ておけ。また連絡つかんと弱るからな」
美樹
「確かに」
その夜の電話、その2。

訪雪
「はい、松蔭堂です」
美樹
「あ、小松さんですか。昼間、お部屋を拝見させていただいた狭 淵です」
訪雪
「妹さんは、いかがおっしゃられてましたかな?」
美樹
「えぇ。一通り妹に話しましたところ、結構いいんじゃないかと いう感じでして、次には妹を連れてうかがいます」
訪雪
「ほう、それはよかった。で、いつ頃おいでになりますか?」
美樹
「今度の日曜に妹が仙台からこっちに出て来ると言ってますので、 その時に見て決めるということにしてよろしいでしょうか?」
訪雪
「えぇ、今度の日曜日ですな。では、お待ちしております」
美樹
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
そして、その日は終わったのであった。



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