松蔭堂の昼下がり。店の板敷の円座に胡座をかいた訪雪が、手の中の湯呑を弄んでいる。三分の一ほどが黒かった髪が、根元まで明るい栗色になっている。昨日、染め直してきたばかりだった。
藍染の着流しで美容室の扉を潜ったときには、流石に店員もぎょっとしたようだったが、それでも仕事は確実にやってくれて、久し振りに明るくなった髪の色を、訪雪は気に入っていた。
人肌に温まった湯呑を傍らの小机に置いて、その場にごろりと横になる。今日は朝から、誰も来ていない。最近珍しいことだった。
凍雲がいれば、店番を頼んで外で気晴らしをしてくるのだが、今日は同業者の集まりがあるとかで、朝からいない。
もっとも、店番をしていたところで、滅多に客など来ないのだが……
立て付けの悪い店のガラス格子が、砂利の挟まった敷居を転がる音を立てて、グレイの背広に革の鞄を提げた男が入ってくる。
礼と別れを述べて、田能村は通りに出ていく。また一人取り残されて、訪雪は再び寝転がる。
長い、静寂。台所の流しの、締まりの悪い蛇口から滴る水の音が、妙に大きく聞こえる。
いつしか眠ってしまっていたらしい。
気がつくと、陽がだいぶ傾いて、格子の間の曇りガラスが暗くなっていたが、相変わらず、家の中には他の誰の気配もない。
茶の間のほうで物音がしたような気がして、体を起こす。
茶の間の障子は閉め切られている。障子を開け放って部屋の中を見回すが、期待していた木霊の小さな姿はない。
隅の戸棚の中、救急箱の蓋に危なっかしく立てかけてあった体温計が、畳の上に落ちている。
溜息をついて、体温計を元の場所に戻す。
床の間の埴輪の足元に、動いた跡がある。訪雪が眠っている間、埴輪達も暇を持て余していたようだった。
今まで一度も、そんなことを思ったことはなかった。埴輪達はいつも訪雪を観察しているようだったし、例え目の前では動かなくても、台の上に残った傷で、訪雪にも彼らが何をしていたのかは判る。
殊更に言語を介してコミュニケートする必要など、感じなかった。それなのに。
来そうもない客を待って板敷にいる気は、もう起きなかった。卓袱台に頬杖をついて、床の間の埴輪をぼんやりと眺める。丸い4つの目が、こちらを凝視している。
穴を開けただけの目に何故眼球を感じられるのか、子供の頃は判らなかった。いまなら……いや、いまもまだ、本当には判ってはいないのかもしれない。
日もとっぷりと暮れて、そろそろ店を閉めようか、と思いはじめた頃。
玄関の引き戸の開く音に続いて、上がり框で草履を脱ぐ気配がした。
頬についた掌の跡をこすりながら、訪雪はいそいそと立ち上がった。
ある日の訪雪……ですか。内容というかテーマは、地の分の中で訪雪自身のモノローグとして明示されていますね。