エピソード647『斯くて今日も日は暮れる』


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エピソード647『斯くて今日も日は暮れる』

松蔭堂の昼下がり。店の板敷の円座に胡座をかいた訪雪が、手の中の湯呑を弄んでいる。三分の一ほどが黒かった髪が、根元まで明るい栗色になっている。昨日、染め直してきたばかりだった。
 藍染の着流しで美容室の扉を潜ったときには、流石に店員もぎょっとしたようだったが、それでも仕事は確実にやってくれて、久し振りに明るくなった髪の色を、訪雪は気に入っていた。
 人肌に温まった湯呑を傍らの小机に置いて、その場にごろりと横になる。今日は朝から、誰も来ていない。最近珍しいことだった。

訪雪
「(そう言やこの時間帯は、いつもなら誰かしか来てるよ なぁ)」

凍雲がいれば、店番を頼んで外で気晴らしをしてくるのだが、今日は同業者の集まりがあるとかで、朝からいない。
 もっとも、店番をしていたところで、滅多に客など来ないのだが……

SE
「がたん、がらがらごろん」

立て付けの悪い店のガラス格子が、砂利の挟まった敷居を転がる音を立てて、グレイの背広に革の鞄を提げた男が入ってくる。

訪雪
「いらっしゃい……ああ、あなたは」
田能村
「なるほど、ここがあなたのお店だったんですか。どうも、 先輩がいつもご迷惑をお掛けしています」
訪雪
「いいんですよ。奴とはそういう腐れ縁なんです。どうで す、上がってお茶でも飲んで行かれませんか」
田能村
「そうしたいのはやまやまなんですが、生憎今日は、これ から上京しなければなりませんので。
ところで……この辺りで靴を修理してくれるところ、どこか御存知ありませんか」
訪雪
「靴、ですか……(田能村の足元を見やって)
なるほど、こりゃひどい。ですがこの辺で捜すよりは、駅まで出て、駅ビルのスピード修理に頼んだほうが安いし、早いですよ」
田能村
「そうですか。ありがとうございます……では、また」

礼と別れを述べて、田能村は通りに出ていく。また一人取り残されて、訪雪は再び寝転がる。
 長い、静寂。台所の流しの、締まりの悪い蛇口から滴る水の音が、妙に大きく聞こえる。

訪雪
「(この家にも……こんなに静かな時間があったんだな)」

いつしか眠ってしまっていたらしい。
 気がつくと、陽がだいぶ傾いて、格子の間の曇りガラスが暗くなっていたが、相変わらず、家の中には他の誰の気配もない。

SE
「かたん」

茶の間のほうで物音がしたような気がして、体を起こす。

訪雪
「ゆずさん……かね?」

茶の間の障子は閉め切られている。障子を開け放って部屋の中を見回すが、期待していた木霊の小さな姿はない。
 隅の戸棚の中、救急箱の蓋に危なっかしく立てかけてあった体温計が、畳の上に落ちている。

訪雪
「聞き間違い、か」

溜息をついて、体温計を元の場所に戻す。
 床の間の埴輪の足元に、動いた跡がある。訪雪が眠っている間、埴輪達も暇を持て余していたようだった。

訪雪
「お前さんがたと、喋れたらなぁ……」

今まで一度も、そんなことを思ったことはなかった。埴輪達はいつも訪雪を観察しているようだったし、例え目の前では動かなくても、台の上に残った傷で、訪雪にも彼らが何をしていたのかは判る。
 殊更に言語を介してコミュニケートする必要など、感じなかった。それなのに。

訪雪
「昔は、独りで暮らしとった筈なんだが。弱く……なった かなぁ」

来そうもない客を待って板敷にいる気は、もう起きなかった。卓袱台に頬杖をついて、床の間の埴輪をぼんやりと眺める。丸い4つの目が、こちらを凝視している。
 穴を開けただけの目に何故眼球を感じられるのか、子供の頃は判らなかった。いまなら……いや、いまもまだ、本当には判ってはいないのかもしれない。
 日もとっぷりと暮れて、そろそろ店を閉めようか、と思いはじめた頃。

SE
「がらがらっ」

玄関の引き戸の開く音に続いて、上がり框で草履を脱ぐ気配がした。

訪雪
「……先生。お帰りなさい」

頬についた掌の跡をこすりながら、訪雪はいそいそと立ち上がった。

解説

ある日の訪雪……ですか。内容というかテーマは、地の分の中で訪雪自身のモノローグとして明示されていますね。



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