エピソード662『回想酒(おもいざけ)』


目次


エピソード662『回想酒(おもいざけ)』

登場人物

狭淵美樹(さぶち・みき)
本好きの医大生。男。
ふみ
売れない詩集の霊。美樹の下宿在住。
沢野琴(さわの・こと)
幽霊。やっぱり美樹の下宿在住。
小滝ユラ(こたき・ゆら)
ハーブショップグリーングラスの店員

本編

京都市街。深夜3時。美樹の下宿。

美樹
「少し、風に当たってきますから……留守番お願いします」
ふみ
「はい、わかりました」
「ね、どこいくの?」
美樹
「ちょっと河原に行ってくるだけですよ。大したことじゃありません……」

そう言い置いて、美樹はマンションの階段を降りる。
 左肩にいつも下げているショルダーバッグの中には、中ビンに入った日本酒。そしてプラスチックのコップ。
 河原までは歩いても3分とかからない。

美樹
「いい月ですね……」

呟く。
 あの時も、月が出ていた。夜の公衆電話。
 からん、ペタ。からんペタ。
 草履風サンダルが妙な足音を立てる。

後輩
『ごめんなさい……』
美樹
「いえ……いいんです。わたしこそ……謝らなくっちゃいけない。 気がつかず……無神経でしたから」

妙なことを思い出す……。美樹は河原のベンチに腰掛ける。
 足元で、鈴虫が鳴き止む。
 他人と対するとき、いつでも貼り付いているわずかな笑みが、落ちる。
 ふられた記憶。
 端的に言ってしまえばそうなのだが。
 ショルダーバッグの中から緑色のビンとプラスチックのコップ。
 軽い音を立てて、透明な液体がコップに注がれる。飛沫が月光を弾く。

美樹
「おめでとうと言わせてもらうよ」

その言葉も過去のもの。
 いつも……そういう巡り合わせなのか。いや、たまたまそうなったというだけなのだろう。
 自分が好きになった女性は……いつも幸福になっている。自分とではなく。
 好きだと言っても……言えなくても……言わなくとも。
 
 口に含む。酒。酒精の中に溶け込む、香気。閑かに咽の奥に流れ落ちて。
 胸の裡を、わずかに軽くする。

ふみ
「あら、なるほど。そういうことでしたか」

ふみの言葉。気がついていなかった。自分の感情。
 いや、気が付きたくなかったのかもしれない。うまく行かない恋ばかりだったから。今まで。

美樹
「小滝……ユラさんですか……」

口の中で何度か言葉を転がしてみる。名前を転がす。姿よりも、声よりも、まず先に彼女の纏う匂いが、感じられる。
 動物実験をするものに特有の匂い。薬品の匂い。そしてその奥に静かにある薬草の……煎じ薬の懐かしい薫り。
 
 もう一口、口に含む。口から出そうになる想いと共に、ゆっくりと滑り落ちる透明な液体。

美樹
「そういう事かもしれませんね……」

自覚してしまった以上。それは、そういう感情なのだ。
 単なる好意。それだけでは済まなくなる。

美樹
「ですけど……」

無理。
 最初にそんなことを考えてしまう。
 過去の勝率……0割0分0厘。
 あまりにも、分のない勝負。
 ならば、何かを壊してしまう前に…………自分が壊れた方がまだマシ。
 
 杯を、干す。プラスチックのコップの底を、玉になった酒滴が転がる。
 唇で受け止める。
 
 2学期の終わり。終業式。誰もいない高校の教室。

同級生
「ごめんね、狭淵君、ごめんね……」
美樹
「……泣かないで下さい……お願いですから……」

握り締めた、拳の中でひそかに滲み出る血。

美樹
「わたしなら……大丈夫なんですから……」
同級生
「ごめんね、ほんっとうに、ごめんね……」

傾きかけた満月。傾きかけた、心。

美樹
「恋なんて……自分からするもんじゃないんですよね……」

蒼い影。美樹の痩せた頬が浮き上がる。
 遠くで、犬の声。
 足元に、鈴虫の声。
 プラスチックのコップを、握りつぶす。掌に、小さな傷が付く。
 美樹の頬に、微笑が戻る。

美樹
「ま、そのうちなんとかなるでしょう、と」

立ち上がる。3回、ステップを踏んで振り返る。
 ベンチに置いたままのショルダーバッグを左手に取る。
 夜が明けると……吹利へ。
 そして、今日も立ち寄るのだろう。あの店に。香茶を買いに。

解説

美樹のかつての失恋の回想です。
 エピソード651『香茶の理由』の、直接の続き。ですね。



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