京都市街。深夜3時。美樹の下宿。
そう言い置いて、美樹はマンションの階段を降りる。
左肩にいつも下げているショルダーバッグの中には、中ビンに入った日本酒。そしてプラスチックのコップ。
河原までは歩いても3分とかからない。
呟く。
あの時も、月が出ていた。夜の公衆電話。
からん、ペタ。からんペタ。
草履風サンダルが妙な足音を立てる。
妙なことを思い出す……。美樹は河原のベンチに腰掛ける。
足元で、鈴虫が鳴き止む。
他人と対するとき、いつでも貼り付いているわずかな笑みが、落ちる。
ふられた記憶。
端的に言ってしまえばそうなのだが。
ショルダーバッグの中から緑色のビンとプラスチックのコップ。
軽い音を立てて、透明な液体がコップに注がれる。飛沫が月光を弾く。
その言葉も過去のもの。
いつも……そういう巡り合わせなのか。いや、たまたまそうなったというだけなのだろう。
自分が好きになった女性は……いつも幸福になっている。自分とではなく。
好きだと言っても……言えなくても……言わなくとも。
口に含む。酒。酒精の中に溶け込む、香気。閑かに咽の奥に流れ落ちて。
胸の裡を、わずかに軽くする。
ふみの言葉。気がついていなかった。自分の感情。
いや、気が付きたくなかったのかもしれない。うまく行かない恋ばかりだったから。今まで。
口の中で何度か言葉を転がしてみる。名前を転がす。姿よりも、声よりも、まず先に彼女の纏う匂いが、感じられる。
動物実験をするものに特有の匂い。薬品の匂い。そしてその奥に静かにある薬草の……煎じ薬の懐かしい薫り。
もう一口、口に含む。口から出そうになる想いと共に、ゆっくりと滑り落ちる透明な液体。
自覚してしまった以上。それは、そういう感情なのだ。
単なる好意。それだけでは済まなくなる。
無理。
最初にそんなことを考えてしまう。
過去の勝率……0割0分0厘。
あまりにも、分のない勝負。
ならば、何かを壊してしまう前に…………自分が壊れた方がまだマシ。
杯を、干す。プラスチックのコップの底を、玉になった酒滴が転がる。
唇で受け止める。
2学期の終わり。終業式。誰もいない高校の教室。
握り締めた、拳の中でひそかに滲み出る血。
傾きかけた満月。傾きかけた、心。
蒼い影。美樹の痩せた頬が浮き上がる。
遠くで、犬の声。
足元に、鈴虫の声。
プラスチックのコップを、握りつぶす。掌に、小さな傷が付く。
美樹の頬に、微笑が戻る。
立ち上がる。3回、ステップを踏んで振り返る。
ベンチに置いたままのショルダーバッグを左手に取る。
夜が明けると……吹利へ。
そして、今日も立ち寄るのだろう。あの店に。香茶を買いに。
美樹のかつての失恋の回想です。
エピソード651『香茶の理由』の、直接の続き。ですね。