エピソード675『お礼』


目次


エピソード675『お礼』

登場人物

小松訪雪(こまつ・ほうせつ)
松蔭堂の店主。子供好き。
譲羽(ゆずりは)
少女人形に宿る木霊。 :松蔭堂人外保育園年長組(笑)
平塚花澄(ひらつか・かすみ)
書店瑞鶴店員。譲羽の擬似母親。

本文

某日、松蔭堂、夕刻。
 座布団の上で、譲羽が単行本を開いている。
 その隣の座布団の上で、訪雪がやはり単行本を開いている。
 ぱら、と、時折ページを繰る音が耳につく。
 
 と、訪雪がとんとん、と自分の肩を叩いた。
 

譲羽
「……ぢ?」
 
 木霊が本から目を上げる。
 
譲羽
「ぢいぢい?(大家さん肩凝ったの?)」
訪雪
「え?」
譲羽
「ぢい(ゆず、叩いてあげる)」
 
 そっと本を閉じると、譲羽は訪雪の肩のところまでよじ登り、とんとん、と小さな拳で肩を叩いた。
 が、いかんせん人形娘では、力が足りない。
 
訪雪
「ああ、大丈夫だよ……ありがとう」
 
 手を伸ばして譲羽の頭を撫でたついでに、小さな体を抱き上げて肩から離す。
 気持ちは有り難いのだが、かえってくすぐったい。
 
譲羽
「ぢい……(ゆずじゃ出来ないのかな)」
 
 よく、花澄も肩が凝ったといっては自分で叩いている。
 ならば。
 
譲羽
「ぢ!」
 
 すっく、と譲羽は立ち上がり、プラスチックの電話を抱えた。
 小さな手がでたらめに番号を廻す。
 そしてしばし、受話器に向かってぢいぢい言い、受話器を下ろした。
 
訪雪
「どこに電話してたのかね?」
譲羽
「ぢい(花澄のとこ)」
 
 にこにこと答えて、譲羽はまた本へと視線を戻した。
 
 さて半時間ほど後。
 
花澄
「ごめんください……」
譲羽
「ぢ(あ、花澄だ)」
 
 ぴっと立ち上がると、転がるように駆けて玄関まで行く。
 
訪雪
「ああ、こんにちは、花澄さん」
花澄
「こんにちは。……あの、大家さん、さっきゆずから電話貰ったんですけど、肩凝ってらっしゃるんですか?」
訪雪
「は……(先刻の電話、そういう話をしとったのか)」
花澄
「何かゆずでは無理だから、代わりに私に肩叩いてくれって頼まれたんですけど……宜しいですか?」
訪雪
「はあ? ……って花澄さん(汗)」
花澄
「ゆずの代わり、ですから(にこにこ)」
 
 良くも悪くも、花澄の感覚は普通ではない。
 
訪雪
「いやですけどね、そんな申し訳ない」
 
 言いかけた訪雪の作務衣の足のところを、くん、と譲羽が引っ張った。
 
譲羽
「ぢ……(大家さん、しんどいの、ゆずもやだもん)」
 
 上目遣いでじっと見あげる。
 結局はその視線に負けた格好になった。

花澄
「留学中はよくやってましたから」
訪雪
「男子学生にも……ですか」
花澄
「ええ(笑) 留学生の中では一番年上だったから、すっかりおばさん扱いで……。 っていいんですけど、大家さん逃げないで下さいな」
 
 逃げている、というよりは、つぼに当たったもので痛くて体が引いているのだが。
 
花澄
「一さんとかに頼んで、少しずつでもいいですからほぐしてもらったほうがいいですよ、これ」
訪雪
「凝ってますか」
花澄
「かなりひどく。それも、目からきてますね」
 
 譲羽が横で、じっと見ている。
 
譲羽
『花澄、大家さん、すごく痛い顔してる(心配)』
花澄
「それはすると思うわ。それだけ凝ってるもの」
譲羽
『大家さん、大丈夫?』
 
 心配そうに見上げられて、訪雪は苦笑した。
 
訪雪
「大丈夫……というか、こちらが申し訳ない」
花澄
「いえ、私もこの前のお礼をきちんとしてませんでしたから」
 
 春の空気の中に居るのと、花澄の手自体がかなり暖かいのとの相乗効果で、だんだんと眠気がさす。
 
訪雪
「花澄さん、もう、そのくらいで充分ですよ。申し訳ないです」
花澄
「そうですか? ……少し楽になりました?」
訪雪
「それはもう」
 
 手を離すと、花澄は少し首を傾げた。
 
花澄
「……あの、大家さん、何か変なこと聞きますけど…… 何か悩みごとか何か、あります?」
訪雪
「え?」
花澄
「そんな凝りかたしてましたよ、肩の辺り」
 
 返事に詰まる。
 思い当たることはあるのだが。
 
花澄
「心にしこるものがあると、体も凝るんですよね。不思議なくらい」
訪雪
「そこまでわかりますか(苦笑)」
花澄
「伊達に肩揉みおばさんしてませんでしたから(笑) ……なんて偉そうなこと言えませんけど」
 
 傍らの木霊に視線を少し移して。
 
花澄
「私が、そうなものですから」
 
 ぢい、と木霊が身を縮めた。

譲羽
『今度はね、ゆずがちゃんと肩叩いてあげるね』
訪雪
「ああ、ありがとうね、ゆずさん」
 
 電話ごしの会話である。
 
譲羽
『大家さん、ちゃんとお礼に、なった?』
訪雪
「お礼?」
譲羽
『髪の毛の、お礼』
 
 細い茶色の三つ編みは、あれから数度編み直されたらしい。譲羽がつい癖で引っ張ってしまうのが原因だ、と、花澄は笑った。
 
訪雪
「充分していただいたよ」
譲羽
『よかったあ(嬉)』
 
 嬉しそうに言うと、譲羽は待っていた花澄の腕の中に、電話ごと飛び込んだ。

時系列

1997年の秋頃の話。

解説

エピソード650『髪』の騒動の後の話です。



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