エピソード733『遠雷』


目次


エピソード733『遠雷』

登場人物

譲羽(ゆずりは)
少女人形に取りついた木霊。
平塚花澄(ひらつか・かすみ)
書店瑞鶴店員。呑み助。

本文

某夜、花澄の部屋。
 電気を晧晧と点けた真ん中に、木霊の少女が座り込んでいる。
 
 まだ、花澄は帰ってこない。

譲羽
「……ぢ(まだ、かな)」

先刻まで降っていた雨は何時の間にか止んでいる。
 だんだんと、空気が冷えてくる。
 
 いつもならば、松蔭堂かどこかにいるところなのだが。

譲羽
「………ぢい(つまんない)」

開いた広辞苑を枕にして、譲羽はころんと横になる。
 時計は、もうすぐ花澄が帰ってくる、と告げる。
 その『もうすぐ』が、長い。

譲羽
「……ぢい(花澄ぃ)」

しん、とした中に、ふと、窓の外からごろごろという音が聞こえてくる。
 譲羽がむくりと頭をもたげる。
 
 また、ごろごろと音がする。
 譲羽は窓辺に駆け寄り、カーテンを払って外を覗いた。
 
 道を行く車の灯りが、妙に明るい。
 空のどこやらが、間遠に光っている。
 
 遠雷。

譲羽
「……ぢい(花澄い)」

木霊の少女の顔が、だんだんと歪み出す。
 涙こそ出ないものの、もう一歩で泣き顔、のところまできた時に。

SE
がちゃん。
譲羽
「ぢいっ!」
花澄
「御免ね、遅くなって」

飛びついてから、譲羽は首を傾げて花澄を見やった。

譲羽
「ぢ?(泣いてるの?)」
花澄
「え?ああ、これは疲れ目。目が疲れすぎて涙出てきただけ(笑)」

片目から、ぽろぽろと涙がこぼれている。もう片目は全く変わりがなく、それが余計に譲羽の目には奇妙に映った。

譲羽
「ぢ?(疲れてるの?)」
花澄
「目、だけがね」

そう言った割に、花澄は一つ溜息をついて座り込んだ。
 その膝の上に、譲羽が乗っかる。

花澄
「ずっと、辞書引いてたのね?」
譲羽
『……うん』
花澄
「楽しい?」
譲羽
『……ずっとだと、つまんなくなる』

苦笑して、花澄は譲羽の頭を撫でた。

花澄
「ね、ゆず、電気消していい?」
譲羽
『なんで?』
花澄
「さっきから、遠雷の音が聞こえるもの」
譲羽
『花澄、雷、好きなの?』
花澄
「酒の肴にいいでしょ?(笑)」

譲羽を抱き上げると、花澄はカーテンを開き、部屋の電気を消した。
 
 裏通りを走る車の灯りが、時折窓の下半分、擦り硝子の部分をぼんやりと照らしてゆく。
 それよりも間遠に、空のどこやらが、時折明るくなる。
 花澄は黙って、それを見ている。
 見ている花澄を、譲羽は見上げる。窓からの灯りに照らされる
 顔は、やはりどこか疲れて見えた。

譲羽
「……ぢい」
花澄
「ゆず、退屈?」
譲羽
「ぢいい(ちがうもん)」

するりと腕から抜け出ると、譲羽はととと、と、台所に走ってゆき、すぐに両腕にガラスのコップを抱えて戻ってきた。

譲羽
「ぢい(はい)」
花澄
「……あらら」

今度ははっきりと、花澄の顔に笑みが浮かんだ。

花澄
「ありがとうね、ゆず」

立ち上がると、流石に譲羽には持てなかった一升瓶を抱えて戻る。
 ぽん、と栓を抜いて中身をコップに注ぐ。
 もう一度ありがとう、と呟くと、花澄はコップを手に取った。
 ごろごろ、と、静かな音が重なった。

時系列

1997年秋頃

解説

秋の頃の夜の遠雷というのは、また格別なものです。
 ……しかし、何で木霊が雷を恐がるかな……



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