美都と紫苑が到着したのは、吹利の森に少し入った所。
紫苑が最初に美都を発見した場所であり、美都の記憶の始まりでもある。
美都は、わりと大きな幹の側に立ち、目を閉じている。
記憶をたぐろうとするが、引き出す事は出来ない。
幹に額を当て、寄りかかるようにしてみる。
返ってくる答えはない。植物との意思疎通など、彼女には不可能だ。
植物の方が、特別な能力を持っていない限り……。
美都の口から、思わずこぼれる単語。口にした本人が一番驚く。
おもむろに、寄りかかっていた幹の枝に飛び付き、よじ登る。
紫苑が気づいたときには、既に数メートルをのぼっていた。
紫苑は猫の爪を利用して幹を駆け上がる。
美都は、下を見ずに登り続け、紫苑は美都の元へと全速で急いだ。
息を切らしながら、枝にぶら下がったまま幹の方を見る。そこには、何かの紋様が一つ。
握力は既に限界に来ており、震えが止まらない。足にも力が入らなくなってきていた。
横合いの枝から彼女の目の前に現れる紫苑。
紫苑を見た瞬間に、安堵と共に体中の力が一瞬抜ける。
紫苑からすると、ようやく追いついた美都の身体が下に引きずられたように見えた。
紫苑は、そのまま美都を追って枝から飛び降りた。
即座に空中で液化、体の形状を人間へと変える。
そして空中で美都を抱きかかえると、自分の体をしたにして落下する。
紫苑をしたにした格好で、落下した美都。
紫苑にしっかりと抱きしめられた格好になる。
落下のショックの為か、少し混乱する美都
衝撃のせいか、意識を失っている紫苑。
混乱していた美都はだんだんと事態を把握し始めていた。
再び目を閉じる紫苑、自己修復モードの為か意識をまた失ったようだ。
日は中天に射しかかり、木漏れ日が地面を照らす。
紫苑が意識を失ってから数十分が経過していた。
傍らに、地面に腰を下ろして控えている。気絶したのが自分の責任なのだから、離れるわけにはいかない。
また、猫から人間に変じた彼を、病院に連れていって良いのかも判断がつかない。
紫苑が目を覚ましたと同時に、何も考えてなかった美都の頭の中に不安がよぎる。
そういうと、立ち上がって美都の手を取り、立たせる。
並んで立つと、頭一つ分くらい差がある。美都も女性としては長身のほうだが、それより更に紫苑の背が高いのだ。
ちょっと言いにくそうな顔をして、話し始める紫苑
美都は拳を握りしめて、青ざめた顔をして問う
意を決したように紫苑が口を開く……
紫苑の答えと同時に、頬がはじける。平手を打ったのは、美都。大した早くも無いその平手を、紫苑は甘んじて受けた。
今にもあふれそうな涙を瞳に溜め、かろうじて一言。
その言葉と同時に自分の中を感情が支配する。湧きあがる感情はさまざまで、何を思っているか美都自身にも判別がつかない。
向けられた紫苑の瞳が、急に作り物のように思えてきて、視線を逸らす。と同時に、背を向けて走り出していた。
すぐには、足が動かない。一人になるのは危険だと理解している。自分のすべき事が何かも理解している。
自分の足を止めるものが何なのか、紫苑には分からなかった。
それにはたまたま出逢った。
普段なら気にかけることもなかったはずだ、だけど気になった、そしてその気持ちは『護りたい』へと変わった。
「……美都」
頬に軽い痛み……瞳に涙を溜め、背を向け走り去った彼女。
わからない……
この気持ちはなんなのか……感情?
試験管の中で生まれ、数々の試験……実験、いろいろこなしてきたが、こんなのは初めてだ。
感情とはなんだ、本来私にはないものだ……私はロボットだ、すべてはプログラムにすぎない、バグだろうか?
解らない、解らない、解らない、不明、不明、不明。
答えは出ない、胸が痛む……
「考えても……ムダです……か」
一人つぶやいてみる……確かにそうかもしれない、今では解らないが、そのうちの情報の蓄積により理解できるものかも知れない。
それならば、今はこの気持ちに身をゆだねよう、あの人を護ってみよう。
それが果たせる日が来れば……この気持ちも分かるに違いない……
立ちつくしていた私は、美都を追った……
自分には、覚えている時から過去が無かった。
正面から受け止めることが出来たのは、自分の心が強いだけではなかった。
自分をはっきりと意識したいから、人と自分のつながりを大切にしたかった。
たとえ、相手が自分を人と見てくれなくても……。
邪な思いを抱いている男についていこうとして、止めてくれた女性が居た。
身寄りの無い自分を引き取り、かくまってくれる女性も居た。
自分からは踏み込まず、ただ支えてくれる男性にも出会うことが出来た。
でも、最初に会ったのは、猫。
いつでも、そばに居てくれた。
その瞳は、意志があったはずだ。
何度か聞いた、自分を呼ぶ声。あれは、幻聴ではなかった。
矢に貫かれ、倒れて意識を失う直前。抱きとめられたのは……彼だった。
改めて見た彼の瞳は、本当に意志の無いものだったのだろうか?
「ロボットだよ……」
低く、感情を感じさせない声。
あれは、感情が無い声だったのか?
人でも、感情を出すのが下手な人間が居るというのに……。
自分が、何を悩んでいるのか分からなかった。
紫苑がロボットだからなのか?
紫苑が男性の姿も取れる知性ある存在だからなのか?
紫苑が人間の理解を超えた“もの”だからなのか?
「ロボットだよ……」
その言葉が、耳から離れない。
その声が、耳から離れない。
彼は、その時何を思っていたのか……。
答えは……出ない。
にゃあ
泣き声に反応する。引き取ってもらった人が「友人」という、黒猫。
しなやかな身体を丸め、じっとこちらを見ている。
その瞳は美しく、生命の力を感じ、意志の力を感じる。
彼女と黒猫は、意志の疎通が可能だという。あった時から話が出来るといっていた。何でも相談しあえる仲だと……。
言葉をしゃべらない猫だから、自分の弱さを見せられたのか?
猫には、感情など存在しないとでも思っていたのか?
何故、彼が人の姿を取ることを拒絶するのか……。
彼に心を開いたのは、“猫”だったからなのか?
にゃあ
二度、泣き声。
顔を上げると、窓から階下を見下ろしている黒猫。
窓までいくと、木の下にたたずむ一人の青年。
はっきりとは分からない。顔も見えず、こちらを向いてもいない。
紫苑……。
自分があの仕打ちをしてもなお、側にいてくれるのか?
紫苑。
これからも、自分はそう呼びかけるのだろう。
冷たいアルファベットではなく、生気ある花の名で……。
紫苑は紫苑。それ以上でも、それ以下でもない。
答えは、簡単だった。なぜ、今までそれに思い当たらなかったのか?
彼にしてもらった事。彼に支えてもらった今までを思い返す。
彼にしてしまったこと、彼を巻き込んだ今までを思い返す。
彼に返してないものがある。
彼にしてもらいたいことがある。
今はただ、彼の元へ走り寄ろう。今度は、彼の目を見て話せるはずだ……。
今はただ、彼の側にいよう。彼の瞳に、想いが映るその日まで……。
美都が自分の過去を知るために記憶のある最初の場所に向かう、そこで、美都は紫苑の正体を知ってしまう……。