某日、昼休み。
朝から降っていた雨が止んで、少し日の射してくる……
昨日、一昨日と良く眠った筈なのだが……
論文は、詰めの段階までいっている。
いっては、いるのだが………………
切羽詰っているだけに、夢にまで論文内容が出てくる始末である。
溜息をつくしかない、状況では、ある。
溜息をつく……………
……………………
……………
……
穏やかな、波の音。潮の香り。
その割に、奇妙にさらさらとした風の手触り。
まだ少し、灰色がかった淡い蒼の空。
人気の無い、不思議に明るい灰色を重ねた、街。
ぱたぱた、と、足音。
角から飛び出してきた子供と正面衝突しかけたのを、慌てて支えてやる。
五、六歳くらいの、ようやっと「幼女」から「少女」になりかかった子供。
紺のワンピースと、黒い靴。
改めて辺りを見まわすが、電車らしいものは、ない。
そも、レールも何も見えてこない。
波の音を追いかける。
ありがとうございますっ、と、また一つ礼をしてから、少女はぱたぱたと駆けて行く。
何となく祐司もついて行く。
と。
不意に、ぽかりと左右が広がった。
やはり明るい灰色のコンクリートの地面が、ひろびろと広がったまま、海へと突き出している。
その向こうに。
緋色の帆は、けれども光に透けるほど薄く、海からの風に翻っている。
それを掲げているのは……
やはりどこか明るい色合いの、灰色の……
窓硝子に、一面のあおが映っている。
呟いた祐司の横を、風が細い筋になって過ぎて行く。
透明の、細い鋼を思わせる風の束。
見えぬ筈のその風の束を、少女の手が掴む。
それを、くるりと手に巻いて。
と、たん、と、黒い靴が、軽い音を立てて。
そのまま少女の体が、宙に飛ぶ。
くるり、と、まるで風が巻き付くように、少女の身体が祐司の頭上でさかしまになって。
と。
この少女を見たことがあるか……いや、ない。
改めて記憶をひっくり返して、確認している祐司の頭上で、少女はまたくるり、と向きを変えた。
………………
すとんっ。
がくん、と、手が滑ったはずみで目が醒めて……
時計を見る。まださほどの時間は過ぎてはいない。
……が。
もう一度時間を見、今日の予定を確認する。
で、一方の瑞鶴では。
堀川祐司(ほりかわ・ゆうじ) :
静電気を操る、生きた電源装置。
紅雀院大学の考古学教室に助手で勤務。平塚花澄(ひらつか・かすみ) :
四大の力を従え「春の結界」を身にまとう女性。
書店「瑞鶴」の店番でもある。平塚英一(ひらつか・えいいち、店長) :
書店「瑞鶴」の店長。花澄の兄。
自身も異能者だが、「本が湧く本屋」である瑞鶴の性質
を最もよく知る人物。
『吹利史』シリーズの第2弾、平成11年(1999年)4月下旬の出来事です。
作者はE.Rさん、元原稿は1999/4/26 "[KATARIBE 12801] [HA06][EP] 「夢渡り〜風糸」" です。
知ることは、力にもなる……と、時折聞く。
ただ、それを振りまわすのか、振りまわされるのか。
からからと、シャッターを降ろす音。そして裏口が開く音。
瑞鶴、夜。
しゅんしゅんと元気良く音を立てるやかんを火から下ろしながら、ふと、花澄が首を傾げる。
ふむ、と、店長は合点する。
流石に、「焦げた本」を新刊書です、と胸を張って渡せるわけもない。
やはり納得する。
知る必要の無いことを知らないでいること。
そのことを……お互い、知っている。
とん、と、湯のみを目の前に置いて。
本が焼かれるということ。
その本の持つ……誰かにとっての危険性。
『吹利史』という題。
奥六郡郷土史保存協会。
東北地方の地祇(国津神)をまつる、と。
多分それは、古代の域まで遡る話だろう。
…………何故そんなものに、記憶の無い娘が追いかけられるのか。
困ったものだ、といいたげな、笑み。
さて、と言葉を濁して、店長はそのまま立ちあがった。
人には、多分、見て欲しい自分と、見て欲しくない自分が居るのだと思う。
見て欲しくない自分に、けれども気がついても欲しいのだろうと思う。
けれども……気がついて欲しい相手と、欲しくもない相手が、いることと思う。
気がつくべき相手も、いるのだと思う。
布施美都、という人間から、今は、その全ての判断が消えてしまっている。
その彼女の過去を調べること自体が……ある意味踏みこみすぎているのではないだろうか、と。
がたん、と硝子戸を開いて、瓶とグラスを取り出す。
花澄が肩をすくめる。
知ることは、関わること。
関わることは、恐らくより深く相手の領域に踏み込むこと。
踏みこまざるを得なくなること。
そして……恐らく、知ったことを呑みこむこと。
くすんと笑う。
恐らくは既に、自分よりも多くの知識を、呑みこんできた者の笑い。
からん、と瓶のふちがグラスにあたり、硬い音をたてた。
平塚花澄(ひらつか・かすみ)
四大の力を従え「春の結界」を身にまとう女性。
書店「瑞鶴」の店番でもある。平塚英一(ひらつか・えいいち、店長)
書店「瑞鶴」の店長。花澄の兄。
自身も異能者だが、「本が湧く本屋」である瑞鶴の性質を
最もよく知る人物。
平成11年(1999年)5月上旬、書店「瑞鶴」での出来事。
『吹利史』シリーズの第3弾です。EP『過去無き娘』に登場した美都さんの存在を受けてのお話になっています。
作者はE.Rさん、元原稿は1999/5/7 "[KATARIBE 12871] [HA06][EP] 「氾濫」" です。